南京を考察する際の【国際法と戦争犯罪】について

2024年09月17日 08時15分00秒 | 国際法

当方は、国際法の学者でもなく専門家では当然ないし、法律資格者でもない。しかし、1937年の南京事件について考える時に、この国際法についての理解がどうしても必要となる。
それは『戦争犯罪』を理解する為にも必要である。
一般人の当方が、国際法の文献などを読み、ネットでの知人などの意見を参考に考えてきたことを皆さんとシェアしてみたい。おそらく南京事件を考える上でこれぐらいの知識は最低限必要だろうと考えているからだ。

まず、最初に1937年の南京事件(笠原十九司博士の時間定義による1937年12月初旬から1938年の3月程度)と呼ばれる歴史事案についての考察に於いては、大学という高等研究機関の定義や民間団体の偕行社などが提唱している戦時国際法違反(現在国際人道法と呼称され、1977年に諸条約が纏められた)による殺人であることを誰も否定していない様である。

東京裁判の判決を読むと、南京暴虐事件として次のように書かれている。
日本国は、1946年(昭和21年)5月3日-1948年(昭和23年)11月12日)に戦争犯罪裁判が行われた。南京に関しては【南京暴虐事件】である。首謀者として松井石根大将(当時退官されて民間人)と武藤章中将を被告として裁いた。判決の罪状は占領された無抵抗の都市にいた無力の市民に対して、最も恐ろしい残虐行為の長期に亘る連鎖(大量の虐殺、個人に対する殺害、強姦、掠奪及び放火)による修羅の騒ぎは1937年12月13日〜1938年2月の始めまで継続され、この期間に10万人以上の人々が殺害され、何千という婦人が強姦され、無数の財産が盗まれたり、焼かれたりした。
松井被告は12月17日に入城し、七日間(12月23日)程の滞在期間で、南京の状況を観察したと推測でき、憲兵隊と領事館員から軍隊の非行を認識したのにも拘わらず、この事件の出来事を緩和する為の処置を命令したにも拘わらず、彼の命令はこの行為を停止させられなかった。故に南京の不幸な市民を保護する義務と責任を負っていたにも拘わらず義務の履行を怠ったということに【犯罪的責任】を有するによって死刑の判決を下した。(11ヶ国の判事中、過半数の賛成国からなる判事たちによって秘密会議を開催しこの決定を下した。インドのパル判事は不参加。)
これに依って【戦争犯罪】であると決定されて松井石根大将は、昭和23年(1948年)12月23日に巣鴨プリズン内で松井を含めた7人(他の6人は東條英機、広田弘毅、板垣征四郎、土肥原賢二、木村兵太郎、武藤章)の絞首刑が執行された。大将は70歳だった。

[戦争犯罪]という聞き慣れない言葉は、この時誕生し、それ以後、第二次世界大戦の敗戦国であった日本とドイツ、イタリアのみに使われる用語として定着した。

第二次世界大戦後、数多で戦争が行われ、実際には日本国のトップ将校や官僚および民間人が[罪]に問われた内容と同じ行為が存在するが、1993年5月25日の国際連合安全保障理事会決議827によって旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷が設置され、実際に被告が裁かれるまでは何度も大小の戦争が世界各地で行われていたにもかかわらず被告人が告発され裁かれたことはなかった。
その間48年間余り国際社会は何も動かなかった。そして2024年現在、2022年2月24日ロシアが突如軍事演習からウクライナ領域への軍事侵攻を開始して二年半以上も経ているが、戦争終結後、ロシア国の各要人・兵員に対して戦犯法廷がを起こせるかが問題となる。又、パレスチナ過激派のハマスによるイスラエル人に対するジェノサイドテロに対する自衛権及び人質奪還作戦も現在ウクライナへの軍事侵攻と並行して進行している。パレスチナおよびイスラエルの兵員に対する軍事法廷も行われるか否かにも、国際法での国際刑法が絵に描いた餅でないかどうかのリトマス紙になるだろう。
国際法は、国際政治を越えられるのかと言えば、当方の主題ではないが、実際には越えられない。国際政治の力学が優先される。

長い前置きと為ったが、南京事件に関して東京裁判や南京軍事法廷で判決を受けた戦争犯罪を理解する為には国際法の理解は欠かせない。そして国際法と国内法の違いが理解出来なければ、誤解の元になる。
国際法には平時と戦時がある。戦時は現在国際人道法と呼ばれて1977年にそれまでの戦時諸条約をまとめて呼称を変更した。そして実定国際法(例えばハーグ陸戦条約やジュネーブ四条約、ICCローマ規定)等の様に記載された条文があるものと、慣習法という記載はないがそれぞれの条文に附属する規則が存在している。この慣習法が、国際法を理解することを難しくしている。
例えば、


第一章 第3条:交戦当事者の兵力は、戦闘員及び非戦闘員をもってこれを編成することができ、敵に捕らえられた場合は二者ともに等しく俘虜の扱いを受ける権利を有する。
第二章 第4条:俘虜は敵の政府の権内に属し、これを捕らえた個人、部隊に属するものではない。俘虜は人道をもって取り扱うこと。


とあるが
この捕虜を状況に依っては殺害し得る論として出されたのがドイツの「戦数論」だが、現在多くの国際法学者は否定してるかと考えられがちである。しかし国際法学者の田岡良一博士によると、「戦数論」肯定者の不用意な論理づけ(緊急性)と不用意な表現とが、両論者の説を外観的に天地の隔たりにしてるだけで、戦数論を批判し否定する論者が「総て戦争法規は、法規自身が明示的に之を許す場合の外、軍事的必要によって破られ得ない絶対的効力を持つ」と主張した時に誤りを生じ、法規が「軍事的必要約款」が明示的に書かれていない場合でも、実際の戦場では軍事的必要によって法規を守っていられない場合が多いことは、その否定する立場の国際法学者の戦争法の著述でも書かれている。
戦争法または後述するつもりの不戦条約等の法規も明文化されていることを絶対に守れ得ない事態は国際社会の関係性でも武力闘争は発生するので、表面的な違反行為が直ぐさま違法になるというわけではないと言う事が示されている。
これは国際法と国内法の違いの関係性を理解する必要がある。
また、国際大会や国内大会のスポーツ競技と戦争ルールの違いを一つあげておくと、前者には敵性・厳格なルールがあり、尚且つそれを判断する[審判]が存在する。それでもプレーの中での最良は存在し、野球でもストライクゾーンは各審判によって違う。しかし、後者には当然ながら[審判]は存在しない。ジャーナリストが存在を指摘するかも知れないが、全ての作戦に帯同して詳細に見聞しているわけでもない。そしてジャーナリストは国際法学者でもなくルールの監視人でもない。単に情報を売買するビジネスマンに過ぎない。彼等は情報を高く買ってくれた方へ情報を売るし、買い手(雇い主又はパトロン)に合わせて情報を変更出来る。個人の思想信条に沿ったバイアスで物事を捉えることも多い。例えば、戦闘での死体を、パトロンや又は自身の思想信条の敵対勢力に対しては不都合な不当な殺害だと変化させることが出来る。
このように、戦場での情報は公平且つ客観的な審判が存在しないので、それを正当だ不法だというのは国際法での不法や違法が政治主張として関係諸国によって相互に利用されているに過ぎない。
現在国連に加盟している主権国家は193ヶ国である。それらの主権を持つ国家を超越して権限を有する[公的権力機構が存在しない]。これが大前提である。国際社会ではアメリカを含むG7諸国や近年台頭してきた中華人民共和国という国家パワーとチベットやフィジー、ソマリアなどの比較的微弱な国家が並立して存在している。そして国連は議会場であって、その公的権力機構とは全く異なる。
国内法は、例えば日本国の場合、日本政府が存在し三権(立法・行政・司法)は独立しているとは言え立法と行政権を持ち国家運営を掌握している。国民の権利を保証しつつも、法制度に違反した国民を強制的に制御出来る[権限と実行力]を持っている。
国際社会はそのような[権限と実行力]を兼ね備えた権力機構は存在しない。
そして、世界は民主主義国家だけではなく、独裁国家や、民主主義に見せかけた権限を特定の集団(党や政治グループ)に集中させた全体主義国家も存在している。
通常の議会制による民意からの立法ではなく、独裁的権限を有する個人又は団体の独占的な立法も存在するのが国際社会だが、異なる立法体系を持つ国家が並立しているのが国際社会である。同様に国民に対して一部又は全体の強制力を保持している権力機構の様な権力機構は存在しない。これが国際法を理解する場合最も重要なことである。
昨今、中国はフィリッピン・ベトナムを跨ぐ海域や日本の尖閣諸島を自国領土主張して軍隊を使った領海侵犯や領空侵犯を繰り返している。前者の海域では2016年7月12日に国際仲裁裁判所で15の申し立てについてフィリッピン側の14の主張が通り、全面勝訴となった。しかしその後中国はそれを無視し違法な海上通行妨害や人工島の撤去もせずに、フィリッピン側の海洋資源(漁業・埋蔵資源)活用の妨害を繰り返し継続している。
この状況が端的に表れているのは、国際法が法としての義務や拘束力を謳っていても、それを実行する場合、国際仲裁裁判所の判決結果を該当国が受け入れ自立的に従うという努力によって為し得ないと実行性が保証されない法であるという点である。
日本などの国内法は[法律]とよばれるが、国際法は[法]とよばれている。英語では単にどちらも[The Law]である。
条約に於ける合意を守るか守らないかは、その主権国の国家パワーの政治判断によって義務履行が変わるというのが国際法の現実的な側面である。効果のない自由航行作戦やその他の締め付けも実際は速効性はなく、フィリッピンやベトナム諸国の権利の侵害は継続される。
第二次世界大戦、又は第一次世界大戦以降、国際関係に於ける[自助]から[互助]に国際関係の思想が変わったと言うが、今でも実際には[自助]がなければ権利の侵害は継続されたままで、回復は望めない。
日本国内で、暴力行為又は権利の侵害があれば、暴力事件ならば現場に駆けつけた警察官が加害者を制圧し、被害者を救済する。事後であれば被害者は警察及び裁判所に訴えれば、権利の侵害を行った被疑者は逮捕又は権利侵害はその内容にも拠るが取り除かれる。
ここに大きな違いがある。国際法はその義務拘束に関して努力であり、自己犠牲であり、自己隠忍であり、そして自己利益を押さえた互助の精神から来る協力がその実行性を担保している


その観点で、国際法でも【戦争】を理解すべきである。第一次世界大戦までは【戦争】は国家の外交目的達成の【手段】の一つであり、【軍事力の行使】は合法的な手段だった。
第一次世界大戦終了後に、アメリカで画期的な運動が起こりだした。それは確かに画期的だった。
コロンビア大学教授のジェームス・ティー・ショットウェルとシカゴの法律家サルモン・オー・レヴィンソンの二人が別個に考え出した戦争違法化案である。結果として合計62か国が国際紛争の解決に戦争(軍事力)を利用しないことに合意した不戦条約が1928年に成立する。ショットウェルはニューヨーク・タイムズを巻きこんで活動し、共和党上院議員のボーラ(William Edgar Borah)を支持者に付けた。ボーラはソ連との関係性が強く、モスクワがアメリカ合衆国と公式の関係を持たない期間に、権限を越えたやり方でソビエト政府との仲介を行うこともあった。噂に基づく情報では、レーニンはボーラ上院議委員の紹介状以外何も持たなくてもアメリカ国民がソビエト連邦の中を旅行できる許可を得ることができたということである(注:これは確認出来ていない。日本語版Wiki情報にすぎない)。ソ連は当時周辺国との不可侵条約を結んでいたので、不戦条約をいち早く批准したソ連から考えればあり得る話だと考えられるが。ユダヤ人のレヴィンソンはヨーロッパに渡りイギリス大使に面会を求め失敗し、その後フランスのブリアンの秘書と会合を重ねたが、フランスの目的であった米仏の不可侵条約ではなく、自己の財産全てをつぎ込んで全世界を巻きこんだ戦争違法化条約への活動を繰り広げた。その後アメリカでは北ダコタ州選出の上院議員フレージアーが戦争に参加することを不可能とすべきであるという決議案を提出し、ニューヨーク州選出の下院議員フィッシュも又戦争否認案を下院に提出し、それぞれの活動がアメリカのメディアを利用しつつ厭戦気分の蔓延した米国内での新たな希望的な民意の醸成を作り上げ、結果として、当時、メキシコへの軍事的な関与と干渉を行っていたにもかかわらず、ボーラが委員長を務める外交委員会で不戦条約締結を勧告した。その結果としてケロッグはフランスが望んでいることと望まぬことと関係なく、不戦条約の条約案を作ることに同意し、第三条として作成された案が、ケロッグ=ブリアン条約として名高い不戦条約だった。始め冷淡だったイギリスも同意せざるを得ず、日本の当時の田中義一外相がフランスで調印した。アメリカの運動はじまり、世界でこの[崇高なる理想]を掲げる条約が成立した(1)

第一條 締約󠄁國ハ國際紛󠄁爭解決ノ爲戰爭ニ訴フルコトヲ非トシ且其ノ相互關係ニ於󠄁テ國家ノ政策ノ手段トシテノ戰爭ヲ抛棄スルコトヲ其ノ各自ノ人民ノ名ニ於󠄁テ嚴肅ニ宣言ス
第二條 締約󠄁國ハ相互間ニ起󠄁ルコトアルベキ一切ノ紛󠄁爭又ハ紛󠄁議ハ其ノ性質又ハ起󠄁因ノ如何ヲ問ハズ平󠄁和的手段ニ依ルノ外之ガ處理又ハ解決ヲ求メザルコトヲ約󠄁ス
当条約は前文と全三条からなるが、主たる条文は第一条と第二条である。第三条は批准手続きを定めているため省く。


イギリスはこの条約を批准するに付けてある留保を行った。大英帝国が性各地にある植民地(グレートブリテン)に拘わることに関してはイギリスの主権による自由行動を付け加えたことは注意に値する。

不戦条約が発効されて後、世界では目立った2国以上の間での紛争はなかったが、一方内戦として中国では1927年に蒋介石軍による国内紛争で広東から北上し南京を攻略した際、イギリス人・アメリカ人や米英の事館が被害を受けたことに端を発して、米国海軍とイギリス海軍は南京に無差別砲撃を行った。【舌の根の乾かぬうちに】という言葉が適合する。その他ではアフリカなどでの小さな紛争はあったかも知れないが、世界史に関して知識が足りず少なくとも知らない。

なぜか大きく事態を変更させたと非難されたのが1931年の日本国の満洲事変だった。アメリカを始め中華民国や国際連盟で大きく取りざたされ、非難された結果、日本国は連盟を脱退することになった。
当時の満蒙エリアは清国崩壊以後の混乱期が続き、実質上各国は蒋介石率いる中華民国政府を正統政府として交渉していたが、国内は統一されたわけではなく、各地軍閥や中国共産党がゲリラ活動を行う内乱状態だったと言える。満洲では東三省政府として張作霖・張学良が実質的に支配してたエリアで、日本国の日清戦争や辛亥革命で得た満鉄の権益は張一族の東三省政府と交渉もしていた。しかし、張作霖爆殺事件以降張学良政権は抗日運動に傾き、1929年に軍事的勢力を保持しながら、中華民国への帰属を宣言した。
それが、日本国民である朝鮮系人民と満洲漢人農民が起こした万宝山事件や中村大尉事件で、日本の世論が緊張と敵意を昂じた時に、出先機関である関東軍の一部が満洲の日本人(朝鮮半島出身者も含む)保護を掲げて、満洲エリアの占領にのり出した。その結果、日本国政府は何の手を打てないまま官僚を満洲に送り、満洲国を設立させた。
外観的には、これは[侵略]に見えるが、日本国が満洲国を国家として認証したのは、実は1937年であり、6年間も放任し続けた
不戦条約に於ける国策としての戦争行為では無いことは明らかである。当時日本国は協調外交のままであったし、300件以上もある日本に対する様々な商工業事業に対しての妨害や朝鮮半島出身者への生命危機へ懸案事項の防止を中華民国に要請していたが解決は為されなかった。

その後満洲事変は、熱河攻略を経て1933年5月31日に塘沽停戦協定によって集結した。

ニュルンベルグ軍事法廷で、ナチスドイツ側の弁護側が、戦争中に占領された領土の多くのものは、ドイツがその国を完全に支配し、ドイツ帝国のうちに編入したから、そこではもはや陸戦の法規慣例に拘束されないということを申し立てた。これに対して、裁判所は次のように述べたという。

『裁判所の意見では、征服が侵略的戦争という犯罪の結果である場合に、軍事的勝利にたよるところの、この征服の理論が適用されるかどうかを決定することは、本件では不必要であるとおもう。占領された国を真の所有者に回復しようとしている軍隊が戦場にある間は、この理論は決して適用されうるものと認められなかった。したがって、本件では、一九三九年九月一日後に占領されたいかなる領土に対しても、この理論を適用することはできない』(3)。

これでおかしい話であることに気がついた方も多いだろう。日本国の場合1939年には満洲国には中華民国軍は展開せず、台湾や朝鮮半島は既に日本国で同じである。しかし、ポツダム宣言以後、サンフランシスコ条約で、台湾・朝鮮半島を日本は失い。主権国家であったはずの満洲国は消滅した。重要な事は1939年9月1日以後とある。

これはナチスドイツとソ連にポーランド侵攻によって占拠された国家であり、間違ってはならないのはソ連がそれを行っているという点である。
ソ連に日本を裁く国際法に基づいた裁判に判事や検察を送り込める権利があるや否やを考えれば、その資格が無かったことは明らかだろう。さらにソ連はバルト三国も侵略併合している。その後の1939年11月でのフィンランドへの侵略開始によって国際連盟から追放されたことは事実である。
いうなれば、1939年当時アメリカやイギリス・フランスが不戦条約に違反したとして非難し闘うべき[侵略国家]は、ソ連とナチスドイツであって、日本国ではなかったことになる。大東亜戦争開始(真珠湾攻撃)は1941年12月である。1939年に日本国とソ連は国境線で領土紛争としてノモハンでの日ソ戦争が行われている。同年9月に国境策定委員会で両国合意が結ばれ停戦合意されている。

1998年に採択されたローマ規定によって国際刑事裁判所(略称:ICC/CPI/International Criminal Court)が設置され、ローマ法規には国際刑事法が明文化された。現在日本を含め124ヶ国が締結している。
しかし、その国際法の盲点であり限界は、検察官及び調査官が被告及び原告の関係諸国全ての主権国家の極秘情報にアクセスが不可能なことである。
過去の東京裁判に於いてもそれは現実となっていて、[証拠の取り扱い]に関して、日本側の弁護側は戦勝国側の内部の極秘情報にアクセする権利が認められていなかった。(4)
2024年現在では、アメリカやソ連を始めとした過去の秘密情報が公開されて又当時のアメリカの外交を担っていた議員の回想録なども数多く公開されて、まだまだ不十分ながら過去の状況の重要な背面の動きが明らかになって来ている部分もある。
アメリカの外交委員会の一人であった、共和党上院議員であったハミルトン・フィッシュの回想録からポーランドをけしかけ、ナチスドイツとのダンツィヒの領土紛争を煽ることと、イギリス・フランスに対してドイツ政策を転換させたとこと。それまではナチスドイツにソ連へと向かわせる外交工作を行っていたイギリス・フランスともアメリカの外交工作によって転換していった。アメリカの政治制度では本来戦争を行う行為(宣戦布告・最後通牒を敵国に通知)に関しては議会が権限を持っていたにも拘わらず、最後通牒(ハル・ノート)をルーズベルト大統領が極秘に行った事(5)。ソ連が隣接する日本に対する安全保障上からアメリカに対して抗日与論や政権内部で対日強硬政策を実施することを促していたという事実は、ヴェノナ文書の解読なり、アメリカの有力議員の回顧録などから確度の高い推察が得られる。マーチン・ダイス民主党議員の非米活動委員会1938〜1944や共和党のトーマス委員会でもソ連のアメリカへの政策への関与と干渉が報告されている(6)
所謂、ニュルンベルグ法廷で、文明の裁きであると宣言し、侵略者の定義として持ち出された1933年7月3日ロンドンで、ソヴィエト、ルーマニア、ポーランドなどの8国によって署名された「侵略の定義に関する条約」の中の侵略者の定義だった

その定義は『(Ⅰ)他の国家に対する戦争の宣言。(Ⅱ)戦争の宣言をするといなとにかかわらず、兵力をもって他国の領土に侵入すること。(Ⅲ)戦争の宣言を行うといなとにかかわらず、陸、海、または空軍をもって、他国の領土、船艦、航空機を攻撃すること。』である。

ルーズベルト政権の極秘最後通牒は(I)に該当する。
また、東京裁判で罪状の一つとしてあげられた、平和に対する罪(共同謀議)であるが、1936年に中国でおきた政変の一つである西安事件で蒋介石と毛沢東が手を組み協同で軍事力を行使して日本を追い払うことを決めたことそれに該当し、さらにソ連とソ連のエージェントを通してアメリカの対日戦争への勧誘は共同謀議に当たると言えるだろう。
さらに本来ソ連は、ロンドン侵略の定義に関する条約の(Ⅲ)ですら守らなかったし、不戦条約違反ともいえる。それと同盟を組み日本国と戦争を行った国に、戦争犯罪として裁く権利があったかと言えば無かったと言える。
ある情報は程度は、当時の周知の事実として語られていたが、東京裁判当時、無視された。
日本の国際法の権威で戦後、戦時国際法という学問を東京大学で教えることを止めさせた横田喜三郎氏はその著作『戦争犯罪論』で、次の様に述べている。

日本に関して、とくに注意しなくてはならない。こんどの戦争で侵略的戦争を行い、その戦争中において、また驚くべき暴虐行為を行った。戦争犯罪として、いま、その責任者が裁判され、処罰されてようとしている。そこで、それを弁護するためには、法における形式的な不備を利用し、法律技術的な立場から、実質を無視したような議論が行われがちである。
純粋な議論としても、それが正当なものでないことは、あえていうまでもなかろう。実際の結果からいっても、決して望ましいことではない。もしそのようにして、侵略的戦争に対する責任をあいまいにし、また暴虐行為にたいするそれを放任するならば、日本の真の更生はとうてい期待されない。日本みずからの真の更生のために、かような議論はあくまで排斥されなされなくてはならぬ。
〈中略〉
戦争犯罪の考察は、公正に、客観的に、あくまで戦争犯罪の真理をきわめるというように行わなくてはならない。われわれの同朋であるからといって、ことさらにかばいだてするような、弁護人的な立場から行ってはならぬ。

ニュルンベルグ法廷のジャクソン劈頭陳述にもある。
被告と検察官が個人として貴下(裁判官)の前に立っているけれども、貴下の判定にまかされているのは、いずれか一方の勝利ではない。いっさいの個人を超越して、無名な、非個人的な勢力が存在し、それらの闘争が人類の歴史の大部分を形成している。すくなくとも一世代の間、これらの勢力のいずれか一方に法の支持を与えるのは、貴下の判定である。

そもそも裁判を行うアメリカやソ連をはじめとする国家群に公正・客観性を求められたかははなはだ疑問である。
法の効力は、法を受け入れた国又は人々に公平に降り注ぐものでないとその信用性は発揮されず効果はあり得ない。
しかし、国際法の場合、前述してきた様に極秘情報には触れられず、関係国及び関係国民全てに適用されることなく、勝利国が免責されるならば公平性は担保出来ず、法としての信用性は失われると考えられる。
その為、国際法違法という言葉は、単に政治的に外交的利益を損なう国への都合のよりレッテルにしか過ぎなくなってしまう。実際、国際法の性質上の問題点だと言わざるを得ない。

 

最後に、横田氏はことのほか『罪刑法定主義』に時間を割いて説明されている。

『罪刑法定主義』を簡単に説明が書かれており、要約するとイギリスで専制君主政のもとで、専政者に迎合する裁判官又は裁判官の利益の為に極めて恣意的に法を法廷中又は前に作成し、被告に不利益な判決を行ってきた反動として採用された法論理・法思想である。それが近代における文明諸国の刑罰法の基本原則として採用される端緒となったのは、フランス革命の1789年の人権宣言の第8条において、『何人も犯罪の前に制定され、公布され、かつ適法に適用された法律によるのでなければ、処罰されることはない』と規定され、明白に罪刑法定主義が採用された。その影響は広くヨーロッパの諸国に及び日本を含み、19世紀における多くの憲法と刑罰法において採用された。フランス革命がアンシアン・レジームに対する反動として起こり、人権宣言が18世紀までの専制君主政における恣意と暴虐に対する保障を確立しようとした。専制君主政のもとで、裁判が権力者や判事によって恣意的に行われない様にそれを防止し、人権を保障するために、罪刑法定主義は採用されたものである。(アンシアン・レジームとはフランスに於ける身分制度とそこから生まれる社会構造を指している。)
『戦争犯罪論』の中で東京裁判に於てこの[罪刑法定主義]を無視して良いと言う理由として次の8点を上げている。


①法における形式的な不備を利用し、法律技術的な立場から、実質を無視したような議論をすべきではない。
②罪刑法定主義という原則は、数多くの国家の裁判の歴史(長い時間)をかけて確立された健全な規定だ。しかし、この原則は、犯罪が行われた当時に[犯罪でなかった]という法的状況に依って人は処罰されないし、また処罰されるべきでないということを意味するにすぎない。しかし[明白に犯罪(侵略戦争)と認められた行為]に対して、人が処罰されてはならぬということを意味するつもりでは決してない。
③条約に違反して敵対行為を開始し、条約に違反した攻撃を行うことが違法であることも、争いをいれないことである。したがって、このような敵対行為や攻撃によって、人命を奪った場合は、それが軍人であるにせよ、一般人であるにせよ、[殺人罪を構成する]ものといわなくてはならない。いままでの国際法上では、具体的にはっきりとそう規定されていなかった。この形式的な不備を理由があったとしても軍事法廷では裁く事ができる。
④法制のもとで、事後の法を禁止している規則(罪刑法定主義のこと)でこれらの戦争犯罪被疑者は保護受けることができない。なぜなら彼等が国際法に準拠したとか、すこしでもそれに尊敬を払ったかということを証明することができないのである。
⑤WW2とは異なる個別の地域紛争では普通の事態のもとでは、あらかじめ罪と罰とを法によって定め、それにしたがって裁判を行い、刑罰を課することが望ましい。しかし、大きな変動期には、とくに古い秩序が破壊され、新しい秩序が建設されようとする転換期には、そうすることは不可能なことがあり、望ましくないことすらある。そうしようとするならば、新しい秩序の建設をさまたげ、不可能にすらする可能性がある。WW2後の新しい秩序が建設されようとする大きな転換期には、かえってこの新しい秩序の建設を害するおそれがすくなくない。その原則は無視すべきである。
⑥罪刑法定主義を国際裁判に適用することは、かならずしも絶対の、無常命令的な要請ではない。
⑦国際裁判においては、アンシアン・レジームの専制君主政のもとにおけるように、いちじるしい恣意が行われている訳でない。その為罪刑法定主義を必須及び必要とするいう理由が希薄である。
⑧罪刑法定主義に反するという理由のもとに、戦争責任者の処罰を全く行うことができないということになるならば、まさに建設されようとしつつある世界の新しい秩序は骨抜きにされてしまうであろう。

以上①〜⑧を理由に横田喜三郎氏は、罪刑法定主義に反して裁けると主張された。
これには⑤は、世界中の主権国家によって賛同され意図して建設されたわけではない。既に国際連盟も存在していた。アメリカや日本、ソ連は加盟していなかったが、それが理由で新しい新秩序の建設が望まれたわけではない。まして不戦条約で誓った戦争によって新秩序が打ち立てられた後でもない。⑤は法論理ではなく横田氏の願望と政治的な意見に過ぎない。
⑦裁判を恣意的に行ってきた権威側に、恣意的な判断が行い得ないという理由は全くその反対で根拠が希薄と言えるだろう。例えば戦勝国以外の中立国の判事はインド代表のパルだけだった。東京裁判での最高判事はオーストラリアのウェブで、彼はWW2の最中に日本軍の戦争犯罪調査のメンバーだった。本来なら裁く側に付く資格もなかった。前述したとおり東京裁判では【証拠】の取り扱いに就いて、恣意的な運用が行われている。つまり専制君主や身分制度の上位権力者が行う恣意的ではないが、勝者が行う恣意的な判決が為されたのが事実である。

①〜⑧の内⑤と⑦を除いて、論理的でも合理的でもない政治的で願望による理由としか言いようがない。
③については、驚くべき見解としか言いようがない。そもそも【侵略】の定義は、不戦条約に於いても定義はされていないし、ニュルンベルグ法廷での1939年以降の占領に関する問題と、何かの合意無く抵抗する軍隊が存在する場合との条件によって満洲国が消滅し、日本国から朝鮮半島と台湾が切り離された事実に対する法の整合性は全く取れていない。しかも不戦条約は消滅したわけでもなくその後まもなく朝鮮戦争が勃発し、アメリカを含む連合国は北朝鮮を支援するソ連や中国共産党と戦争を開戦した。これらも何ら不戦条約の整合性も見られない。
そもそもWW1後のヴェルサイユ条約での227条から230条によって退位しオランダへ亡命した元ドイツ皇帝への訴追条項と他の兵士将校の一般戦争犯罪の裁判について規定していた。これに日本国も参加している。
ドイツ帝国に示された講和の条件は、アメリカが1918年11月5日にドイツに通達し、ドイツが受け入れた、いわゆる「ランシング・ノート」において、「陸海空からのドイツの侵略によって、連合国の民間人とその財産に対して与えられたあらゆる損害に対してドイツによる賠償がなされこととする」と記されている。
つまり、降伏条件は戦犯裁判法廷設置し戦犯を裁くことは含まれていない。そしてこの227条〜230条はドイツは当然の如く拒否し、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の亡命先である中立国であったオランダは引き渡し要求を拒否している。理由は罪刑法定主義を理由にしていた。そしてドイツは連合国から指定された戦犯をドイツ自らで裁くライプツィヒ裁判を行った。

国際法は慣習法が重要であり、この時ヨーロッパでは大災禍とも呼ばれる第一次世界大戦が行われた。終戦後は明確に【罪刑法定主義】は効力を発揮していた。そして戦犯は自国で裁くという前例が出来た。

当時の日本の内閣は原敬だった。彼は西園寺公望、牧野伸顕らを全権委員として同会議に参加させていた。とてつもなく無能な外交団であったと考えられる。主張すべき事柄を主張しなかっただけでなく、唯単に迎合しただけだった。
横田喜三郎氏は後年1955年からはじまった原爆訴訟の下田事件に国際法の権威として鑑定人として呼ばれている。ただ、最高裁判所判事に選定されたので、実際に論文及び鑑定書は、他の鑑定人として呼ばれた田畑茂二郎博士や高野雄一博士(1992年勲三等旭日中綬章受章)のように提出していない。一体どのような鑑定書を出されるつもりだったのだろうか。とても今日意味がある。
その下田事件の田畑茂二郎別件鑑定書に連合国GHQの占領期間中の法的形態について述べられている。ポツダム宣言を受けて連合国の日本の占領期間は「戦時と平時の混合占領」であり、占領軍行政機関はハーグの陸戦協定に準拠しなければならない。「近代国際法では、私人に対する恣意的・絶対的な権力という考え方を非難しており、彼等を虐待したり、陵辱したり、殺害する事を許していない。個人の安全や名誉、自由は戦争によって影響をうけない」とブルンチェリ(J. K. Bluntechli:Johann Caspar Bluntschli/ヨハン・カスパー・ブルンチュリ)は述べている(7)。例えば、南京戦の総司令官であった松井石根大将は既に軍務を退官し、いち私人であったはずである。彼に対する法廷の審理は近代国際法を無視した暴挙と言わざるを得ない。

これ等を考え合わせれば、【戦争犯罪】というのは法的意味の無いレッテルのように感じざるを得ない。

WW1より前は、戦争は国家の外交手段であり、合法行為であったことは述べた。戦争が講和条約が締結発効された後はアムネスティ条項による大赦が発動された(8)。裁判の効力は失効した。それと同様にサンフランシスコ条約発行時に於いて、日本の戦犯という政治レッテルは失効したと考えられる。

(1)石丸藤太著『英米の対日陰謀』(非凡閣/昭14)info:ndljp/pid/1461622
(2)倉山満著『満洲事変における法的問題』https://cir.nii.ac.jp/crid/1390001206121620608
(3)横田喜三郎著『戰爭犯罪論(法學選書)』https://dl.ndl.go.jp/pid/11579192/1/149(b)征服の理論
(4)国際時事研究所 編『東京戦犯裁判所の構成と機能』https://dl.ndl.go.jp/pid/1439172/1/11
(5)ハミルトン・フィッシュ著/渡辺惣樹(翻訳)『ルーズベルトの開戦責任』
(6)江崎道朗著『日本は誰と戦ったのか』P63
(7)下田事件 田畑茂二郎別件鑑定書[乙1号証]https://www.hankaku-j.org/shimoda/tokyo02_pdf/339.pdf
(8)佐藤和男著『日本は東京裁判史観により拘束されない』https://www.nipponkaigi.org/opinion/archives/862