:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 友への手紙 インドの旅から 第12信 E.P. メノン君の場合

2020-12-16 00:00:01 | ★ インドの旅から

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友への手紙

インドの旅から ー

12信 平和の友 E.P. メノン君の場合

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12信 平和の友 E.P. メノン君の場合

 

メノン君に会うためにバンガロールに立ち寄った。 

ぼくは、日本を発つ前に、インド大使館の図書室でめぐり合ったDと言う女子薬科生を通じて、彼のことを知るようになった。彼女によれば、メノン君はいわゆる平和主義者で、昨年の夏、広島の原爆記念日を期して、東京から広島まで数百キロのピース・マーチをやってのけている。彼の足はワシントンのホワイトハウスからモスクワに赤の広場の土まで踏んでいる。 

ぼくが訪れたとき、彼はたまたま講演旅行でケララ州へ出向いていた。しかし、他人の不幸が幸いして、急死した親友を弔うために彼は予定を変えて早く帰ってくることになった。

一両日待って、ぼくは彼の事務所で初めて彼に会った。痩せた中背のかれは、溢れるほどの親愛の情をこめて迎えてくれた。世界中を歩いてきただけあって、身辺には洗練された雰囲気を漂わせていた。

誘われるままにお茶を飲みに出た。二人は市内で一番清潔な新しいカフェーに入った。「東京の喫茶店のようでしょう」、こう言って彼は語り始めた。何気ない言葉だった。しかし、それは僕の頭の中で見えない波紋となって広がり、四壁に反射して複雑な画像を描き始めた。

長い英国での生活から帰ってきたネルー(ネール首相のことをインド人はこう呼ぶ)は。「愛する祖国を植民地支配者のような冷酷な嫌悪の情を持って見返した」と言った、とか。メノン君も一連の外国旅行の末、彼が幼いころ「これが世界だ、これで不通なのだ」と信じて疑わなかったインドの社会を、もはや同じ目で見ることが出来なくなっていたに違いない。

「東京のように・・・」という言葉の背後には、はだしで歩く男たち、カレーの味の沁みた駄菓子を噛んでいる子供たちを、また、表通りで牛糞と泥を練って乾かして、台所の燃料を作っている若い娘たちを見られるのを恥じているのが感じられた。

ネルーの嫌悪、メノン君の羞恥が、インドを近代化しつつある。

解決の希望もない、あまりにも多すぎる社会の悲惨と問題を前にして、人はヒマラヤの山中に逃れ、一人で禅定三昧の内に解脱を求めるか、さもなくば、バンヤンの木陰で昼寝をするしか道がないように見える中で、メノン君は一体何をしようとしているのか。

彼は、ピース・マーチの体験を本にまとめて発表し、ロシアに留学し、いつの日かこのバンガロールの街に、世界平和運動の一大センターを作ろうと夢見ている。

彼はまた、サルボダヤ・ムーブメントと言う一種の民間結社にも所属している。彼らは、全インドの無知な農民に、ガンジーの無抵抗の抵抗による平和を説き、大地主に呼びかけて、小作農に土地を分かたせるために働いている。

彼らは如何なる宗教にも組みしない。彼らにとって宗教は言語と同様に人々の相互不信と、争いと、因習と、迷信と、社会の分断の根源以外の何ものでもない。実に、ヒンズー教のカーストは、社会を横に細かく裂き、原語はそれを縦割りにし(インドは多言語国家だ)、さらに他の宗教はそこに流血の争いを持ち込んでいる。彼らにとって、ただ科学だけが一致と平和と繁栄の女神であり、唯一の共通言語なのである。

彼らはヒンズーの神々を否定し、アラーの神を拒み、ヤーヴェの神を知らない。ガンジーまでも「異郷の丘の上で気の毒な罪人が処刑されたとて、それが私に何かかわりがあろうか」と言って、ついにキリストの神たることを悟らなかったと言われる。

しかし、彼らの間でも仏陀の精神だけは尊ばれる。これは矛盾ではない。改革者たる彼らの目に映じた仏陀その人は、宗教家ではなくて、まさに理想の社会改革者だったからだ。

確かに、紀元前5世紀、6世紀といえば、インドではようやくヒンズー教が固定化し、身動きならぬカーストの枠が人々を重苦しく締め付け始めたときだったから、仏陀の起こした運動はこの社会の制約に対する反逆として、大いに人々の心を捉えたに違いない。従って、彼の教えは社会の変革に役立った限りにおいて栄え、それが仏教として宗教化するにつれて国内における存在意義を失い、逆にその宗教化が国外への伝搬の道を開く普遍性を身に付けていったと言えるのではないだろうか。

やがて二人は店を出て公園を散歩することになった。彼は途中でヴィジャヤと言う名の友達を誘った。彼女はもと彼の同志で、今はヒンドゥスタン航空会社(インドで一社国産航空機を造っている)で役員秘書をやっていた。アーリアン系の美しい女性だった。

封建的なインド社会では、良家の子女が職業に就き、男性に誘われてこうして散歩に出てくるなどということは、勇気が無くてはとても出来ないことなのだ。夕焼け空の下、黒い森のなかをそぞろ歩きながら、三人はいろんな話に夢中になった。

ぼくは二人に問うた。魂の不滅について、本当の幸福について、神の存在について、平和について・・・。ヴィジャヤは黙って僕の問題提起に耳を傾けていた。けれど、メノン君はいささか苛立たし気に僕の話をさえぎろうとした。

彼はインド人独特の雄弁をもって、神の非存在の証明を試み、たましいは不滅ではないと主張し、こうして平和主義者たる彼は、自らの言葉をもって本当の平和と本当の幸福の何たるかに答える可能性を自ら放棄してしまった。

彼にとって世界の始めは問題にならない。不滅のエネルギーは永遠に存在し、そこから物質が生起し、また消えていく。物質は進化し、その頂点は人間の脳で、精神はその所産であるという。彼は人格の自律性に対する理解を欠いている。恐らく彼の心は人格的愛の深みにまだ触れていないのではないか。

ヴィジャヤは終始一貫黙って二人の議論を聞いていた。

やがて三人はまた「東京にもありそうな」立派なレストランに入って夕食をとった。

翌朝僕はコーチンへ向かった。発つ前にヴィジャヤは勤め先から電話をくれた。私は彼女の言っている意味が良く汲み取れなかった。私の頭は睡眠不足でもうろうとしていたからだ。宿舎の部屋は土の床で、入り口は長い暖簾が一枚。土の壁。天井からは暗い裸電球が一個、夜も灯っていた。藁のマットを土の上に敷いたのが寝床で、夜中痒くて目が覚めた。眠い目を凝らすと、土壁を伝って南京虫がぞろぞろと這い下りて私を襲ってくる。恐怖に襲われて、脱いだ靴を片手に、そのかかとでパチン、パチンと叩いて敵を殺す。こうして一夜が明けたのだった。

電話の向こうでヴィジャヤは必死に早口に何かを訴えている。しかし霞のかかった頭ではよく意味が取れない。「イエス、イエス、ぼくは○○時の汽車でバンガロールを去る、サヨウナラ」、をただ機械的に繰り返していた。会話は完全にかみ合っていなかった。

絶望的に彼女は電話を切った。

駅のホームで汽車を待つ間に、ヴィジャヤは家の下僕に託して大きな宝貝を贈ってくれた。それにはローマ字でBAMESWARAMと刻まれていた。僕はまだその意味を調べていない。しかし、電話の向こうの彼女が、せめてあと数日でもいいからバンガロールに留まれないか、としきりに訴えていたのだということに、ハッ!と気がついた。

その時、汽車が入ってきた。

 

 

若気の至りの怖いもの知らず、とは恐ろしいものだ。今思えば、26才の私は身のほど知らずの哲学的命題の議論を見さかいなく吹きかけて、人を困惑させていたように思う。今日、たまたま81歳の誕生日を迎えて、そろそろそれらの問いに分別のある答えを見出さなければと、心焦る日々を過ごしている。

 

 

 

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