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友への手紙
ーインドの旅からー
第11信 大嵐の便り
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第11信 大嵐の便り
マドラスから西へ約1日。ここはインドでも一番気候の良いバンガロール市です。
マドラスには、合計4日いたことになりますか。とにかくその間にマドラス州の大学や、学生の家庭生活を見、口の中に消防自動車を百台も詰め込みたくなるようなタミール料理のカレーを試食し、イエスの12使徒のひとり、聖トマの遺跡など訪ねました。
ぼくは、この偉大な、しかし「手の釘あとに自分の指を入れるまではキリストの復活など信じない」と言った疑い深い使徒のように、「紀元第1世紀のころ、キリストの12使徒の一人が、はるばる千里の波濤を越えて、所もあろうに南インドの東側までやってきていたなんて、とても信じられない、少なくとも、確かな証拠に触れるまでは」と思っていました。しかし、夕暮れの聖トマの海岸をそぞろ歩き、トマの殉教の丘を守る老司祭の物語に耳を傾け、古びたカテドラルの床下深く、聖人の墓に詣でるころには、聖トマのように疑い深かった僕の心も動かされ、たとえ嘘であっても信じたいと言う妙な気持になっていました。
そして、今ここはバンガロール。
ぼくはここで、E. P. メノン君と言う青年を訪ねることになっていました。
雨季は去ったと聞かされていたのに、はっきりしない天気だなと不審に思っていた僕の目に、今日アッと思わず息を呑むような記事が飛び込んできました。
「史上空前の大サイクロン(サイクロンは台風のインド版)セ・印海峡を襲う。港湾施設、フェリーボート、半島部の接続鉄道、鉄橋らが一切が洗い去られ、数百の死体が海岸に打ち上げられた。なお、復旧の見通しは全く立たず」とある。
僅か数日のことで、危なく死んでしまうところだった。或いは、数日長くセイロンに居たら、インドへ船で渡る計画は変更を迫られることになっていただろう。僕がつい先日乗ったフェリーボートも、今は魚のホテルになってしまったのか。あの中年の機関士さんはまだ生きているだろうか。ケララ州出身のカトリックで、幼い子供が二人いると言っていたが・・・。
「難破」、それは何と暗示に飛んだ言葉だろう。その言葉には何かしら自分の身の上にかかわりのある響きがこもっている。
ぼくたち若い世代は、近代と言う船が難破した夜、みんな一緒に大海へ放り出されたんだと考えてみたらどうだろう。
その時、みんな一斉に―それこそ死にもの狂いになって―岸らしき方向に嵐の海を泳ぎ始めたはずだった。けれども、やがて夜が明けて、大波と暴風が弱まると、みんな苦し紛れにしがみついた自分の信条と言う昔の船の破片につかまって、ゆらり、ゆらりと波に弄ばれる自由を楽しみ始めたのではなかったか。
恐ろしい力の潮流が、知らぬ間に自分たちをとんでもない方向に押し流していることには全く気付かずにいるようだ。せめてその潮が身を切るように冷たかったらと思う・・・。だが、禍なことに海はひんやりと心地よく、波の戯れは人々を適当に退屈させない。彼らは、自分たちがそもそも岸辺に向かって泳ぎ始めたことさえも忘れて、波乗りを楽しんでいる間に、一体なぜ波の中に居るのかさえ忘れているのだろう。
岸に上がって、船の残骸を集め、使えないものは捨てて、新しい資材を自然の森から伐り出して、前よりも大きなもっと頑丈な船を造って、永遠の港に向かって勇敢に荒海に乗り入れ、再び冒険に満ちた航海に挑まなければならないことを、本来そのように運命づけられているのだということを、思い出さなければならないのではないだろうか。
遭難者の、そして漂流者の運命の悲劇性に、自虐的に甘えて見たところで、一体何の意味があるだろうか。それはむしろ否定されるべきセンチメンタリズムだと思う。
例えば、プロテスタントとカトリックとの間の問題にしてもそうだ。一方が他方を併呑する形での一致が、現実には望まれないとしても、また、両者が集団とし歩み寄ることの、いかにも遠い現実ぶつかっても、だからと言って、開き直って現状を肯定してはなるまい。
問題の解決は、一人一人が接点に立ち、自分の世界の限界を超えて、他者の豊かさを自分のものとしようとして、互いに小さな努力を始める時、初めて与えられるのではないだろうか。
神の民としての教会が、ばらばらに散らされているのを憂い給うキリストの憂いが、ぼくたちひとり一人の目にも宿るようにならない限り、ぼくたちはまだ神の御子に似ているとは言えない。
今思えば、インドのローカル新聞の紙面でふと目に止まった記事から、よくもまあこんな妄想めいたことを考えたものだと、今は思う。
しかし、当時の私にとっては、キリスト教界の分裂は痛みを伴う自分自身の生傷だった。
母はプロテスタントだった。母方の親戚の多くがプロテスタントだった。しかし、元をたどるとカトリックだったと言う話をちらりと聞いたことがあった。今はもうそれを糺す手がかりもないが・・・少年時代の不確かな記憶では、何代か前の祖先は、頼っていた神父の私生活に躓いてみんな一緒にプロテスタントの教会に移籍したと言うことではなかったろうか。
姉は母と同じ神戸女学院に学んでプロテスタントの洗礼を受けた。一方、私は小学校の悪ガキたちとつるんでイエズス会の経営する近くの六甲学院に入ってカトリックの洗礼を受け、そのまま上智大学に進みイエズス会の志願者となったが、迷うところがあってイエズス会を辞め、市井の一学生として哲学の勉強を続けた。
その後、学生運動の中で見染めた彼女は東洋英和を出たプロテスタントだったが、彼女は同じ教会のメンバーでプロテスタント系の私大の哲学の学生と結ばれていった。
姉はその後、カトリックに改宗し、プロテスタントの恋人と別れ、修道院に入り、アフリカの極貧の世界に宣教女として旅立って行った。
また、私より少し年若い友人のT君は、東大を出てカトリック新聞の記者になったが、銀座の教文館で働いていたS嬢と結婚した。当時のカトリックやプロテスタントの学生活動家の間では、エキュメニカルな―つまり、キリスト教の異宗派間の―結婚として、大いに話題になったものだった。しかし今、彼は病の床にある。
彼の信仰上の主な支えは、奥さんの教会の牧師さんと教会員で、カトリックで今も彼らと友情を保っているのは、私の他はほんの数名ではないだろうか。今はコロナでお見舞いも思うに任せないが、S子さんとはメールで余命僅かな彼の消息を聞き、一緒に祈っている。
私が、50年以上前にインドの旅でこのような文章を書いた背景には、私を取り巻くカトリックとプロテスタントの複雑な人間模様があったのだと思う。
学生時代に作った石膏のレリーフ(現物は失われた)
(つづく)