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:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 舛添要一氏のこと キリストと姦通の女(完)

2016-11-12 19:44:48 | ★ 聖書のたとえ話

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舛添要一氏のこと

キリストと姦通の女(完)

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70年前、敗戦後の天皇の人間宣言以来、日本人は一切の「生ける神」への信仰を失ったといっても過言ではないでしょう。残ったのは、お金の神様、「マンモンの神」への信仰だけのように見受けられます。 

神のいない世界がどんなにひどい様相を示すか。共産主義的無神論社会が、賄賂と汚職にまみれた救いようのない腐臭に満ちた状況に沈んだことは、中国やロシアの為政者が一番よく知っています。彼らはそれを根本的に是正するには生半可な道徳主義では足りず、まじめな宗教の力を借りるほかに手はないことに気づき始めているでしょう。

では、日本の社会はどうでしょうか。イタリアに長く住んだものの目から見ると、一般庶民個々人の表層的モラルは一見イタリア人などよりも高いようにも見えます。しかし、いったん集団化すると、日本の「会社」や「官庁」が中国やロシアよりましだと言えるでしょうか。そして、悪いことに、日本人はその根本的原因と脱出の道にまだ気づいていないように思われます。 

中島氏は、先に取り上げた「舛添問題」では、私はむしろ「なんと舛添さんは素朴で天真爛漫なのだろう」と思い、それほど「汚い」とも「憎い」とも思いませんでした。むしろ、小池百合子現都知事の「小池旋風」がまだ予測のつかないころは、彼女に無礼の限りを尽くしておきながら、敵にしたらヤバイと判断した途端、露骨に擦り寄る都議会議員の面々、広大な地下空間の決定に関与した者は必ずいるはずなのに、絶対に名乗りを上げなかった都庁職員の面々のほうがずっと「汚い」という印象を持ちました。

と書いています。私に言わせれば、舛添さんが「セコ」いと言われるのは、何不自由なく暮らしている人が、ホテルの洗面台から髭剃りや櫛を持ち帰ったり、会社の消耗品のセロテープや消しゴムを家で使ったりの、「それぐらいのものは自分の金で買えよ!」と潔癖主義の庶民から言われそうな、わかりやすさのゆえではないでしょうか。中島氏はそんな一面を指して「なんと舛添さんは素朴で天真爛漫なのだろう」と言ったのだと思います。 

舛添さんよりずっと「汚い」連中は、すぐ言質を取られるようなわかりやすい嘘はあまりつかないかもしれないし、セコイことも注意深く避けて外見上隙を見せないよう細心の注意を払っているのかもしれません。しかしその裏では、庶民の血税を、会社の収益を懐に入れて私腹を肥やし、賄賂も取って知らぬ顔を通し続けるのです。政治家も多くは地位と権力を利用してうまい汁を吸うことに長けていると思われます。

「赤信号、みんなで渡れば怖くない」の言葉どおり、会社ぐるみ、官庁ぐるみ常習的に不正にまみれ、その「汚なさ」を互いの身になすりあって同色に染まり、その発覚から各自を護るために互いにかばい合う世界を一致団結して構築しているのではないかと疑われます。豊洲の盛り土問題がそのいい例です。

他方、一緒になってその汚さにまみれることを潔しとしない者は村八分になり、疎外されて、結局その世界には住めません。舛添氏は都議会やその黒幕の汚い巨悪の共犯者にならず、隠された不正な談合に手を染めなかったのではないかと思っています。(もし手を染めていたら、そこをこそ第一に叩かれたはずですが、そんなことは何も起こらなかったではないですか。)そこが村社会では不協和音を奏でる異分子とされ、一線を越えない正しさが一緒にいて居心地の悪いオーラを漂わせることになったのではないでしょうか。

東大を出て、国際政治学者として「改革派」を名乗って頑張ったが、「一人の力では限界がある。東大と心中する気はない。」と、東大助教授の職を辞した彼は、参議院自民党政策審議会長、厚生労働大臣を歴任しました。年金問題ではいい働きをしたではないですか。自民党で孤立すると、「新党改革」を旗揚げして代表となり、その後東京都知事に就任したのでした。政治家として錚錚(そうそう)たるキャリアーだと言うべきでしょう。英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語、スペイン語、イタリア語の6ヵ国語を自由にし、53冊の著書、6冊の共著、13冊の翻訳書をあらわし、絵画に造詣が深く、乗馬を趣味とし・・・、と人並み優れた深い教養と学識を身に纏った彼は、そんなこととは縁遠い泥臭い田舎の政治屋の社会では、仲間として馴染みにくいセレブな風を漂わせ、どこか煙たく、何かあったら貶めてやろう、足を引っ張ってやろうという劣等感に裏打ちされた屈折した反感に付け狙われることなったのではないでしょうか。

そして、不幸にもあのタイミングでその点に火が着いた。あとはテレビやマスコミを挙げての集団ヒステリーの暴走で炎上していくしかなかったのだと思います。

そんな逆境の中でも、当初はあくまで都知事を辞任せず、都議会の解散も辞さぬ意思を貫いて、法の裁きに身をゆだねるつもりだっただろうと思います。彼が筋を通して頑張り続けたら、自民党は大打撃を免れないはずでした。だから、どんなに乱暴な手を使ってでも、一刻も早く彼をつぶさねばならないと焦った勢力がいても不思議ではありません。

あの日公用車に乗って出かけたかと思ったらすぐ引き返してきて、あっさりと辞意の表明に至りました。

車の中にどこからどんな話が飛び込んできたのか、私など知る由もありませんが、単なる美味しい裏取引の成立話などではなかったことはだけは想像に難くありません。私は巨悪の側からのぞっとするような恐ろしい脅しだったのではないかと勝手に想像をたくましくしています。例えば、暴漢を差し向けて射殺するぞ、とか、家族の命を奪うぞとか、交通事故死したいのか、とか言ったたぐいの露骨な脅迫の前に、かつて「東大と心中する気はない」と言って助教授を辞めた彼は、筋を通すためにそれほどの代償を払う価値はない、「都知事の椅子と心中する気はない」と、醒めた理性が納得したからではないでしょうか。

中島氏の説くカントの「道徳的善さ」やフコーの「パレーシア」と全く相いれない、「日本型村社会」の典型としての都庁の風土にあって、舛添氏が異色であったことが招いた悲劇だと思います。

私はいま、ギリシャの哲学者プラトンの「ソクラテスの弁明」を久々にひもといていますが、ソクラテスは真理のために敢えて毒盃をあおって死を選んだのは歴史に残るエピソードでした。イエスは避けて通る道と機会が十分にあったにもかかわらず、自ら選んで「天の御父」のみ旨に従って、全人類の罪を贖うために十字架上で壮絶な死を遂げ、3日目に蘇って復活の勝利に輝きました。舛添氏が最後まで志を全うしていたら、或いは日本の国全体が変わるだけのインパクトを持ち得たかもしれないし、氏自身も社会の第一線に「復活」したかもしれません。

舛添氏に最後まで徹底すべきだったと言うのは簡単ですが、彼を追い詰めたマスコミの競い合っての狂乱ぶりこそが、そもそも「セコイ追及」のエスカレーションだったことを思えば、問題はそんなに単純ではありません。ナザレのイエスの場合も、ローマの総督ピラトは、公平に見てイエスに非を認められず、無罪放免にしたいと望んだのに、ユダヤ人の嫉妬に狂った扇動者に煽られた群衆の凶暴な叫びに匙を投げて、不本意にもイエスの処刑を許さざるを得なかったことが思い出されます。

それにしても、舛添氏を引きずり降ろした後に、自分たちの品性とモラルのレベルに釣り合った同じ穴の貉(ムジナ)の政治屋を押し立てて、日本型村社会「都庁」の居心地の良さを取り戻そうとした面々の思惑は見事にはずれ、もっと厄介な「リボンの騎士」のまさかの登壇に道を開いてしまいました。自分たちの手でパンドラの箱を開いてしまったのです。

私はむしろ「舛添さん、よくあそこまで耐えた、よく頑張った、ご苦労さん」と言いたい。彼があそこまでやったから、小池百合子都知事が生まれたのだとは言えないでしょうか。舛添を降ろして溜飲を下げた連中は、改めて戦々恐々としながら、早速小池降ろしの秘策を練り始めているかもしれません。

中島氏は「舛添要一前東京都知事の 『あまりによくわかるウソ』と『目に余るセコさ』が目立った」と言い、「なんと舛添さんは素朴で天真爛漫なのだろう」と思い、「それほど『汚い』とも『憎い』とも思いませんでした。」と書いていますが、実はそれを目立たせたのはマスコミ間の「セコイ」競争ではなかったでしょうか。政敵とマスコミと情報機関が挙げて彼の身辺を洗いざらい調べて、湯河原の別荘へ公用車でとか、イタリアレストランでの飲食費15,000~円とか、絵画オークションで何万円とかの「セコい」あらしか見つけられなかったということは、裏を返せば、彼が地位を利用して巨額の公金を着服したというような法に抵触する重大な罪を一件も犯していない稀に見るクリーンな政治家であったことの明白な証拠をマスコミが明らかにしたようなものではなかったでしょうか。その面にこそ私は注目したいと思います。

ところで、このような私の論法を目くじら立てて批判し論難する人には、ご自分が「真理」とも「モラル」とも無縁な「会社」と「官庁」の世界の闇と巨悪を無意識のうちに擁護しておられることにふと気付かれることを願います。

宗教家としての結論として、ロシアにも中国にも日本にも、「本当の生ける神」への信仰が広く人々の間に根付くことなく、この世の唯一最高の「お金の神様」を拝んでいる限り、闇と死の谷をさまよう救いのない運命から逃れ出る道はないと言いたいのです。

私は舛添氏と一面識もないが、氏がこのまま葬り去られることなく、社会の第一線に「復活」を果たし、その卓越した能力と教養を存分に発揮して、社会に大きな貢献をされることを期待してやみません。

このブログを読まれた方は、あらためて4編の「キリストと姦淫の女」シリーズを通してお読みください。最初から舛添さんに触れています。先の3編は:

1)    独裁と魔女狩り? キリストと姦通の女-1

http://blog.goo.ne.jp/john-1939/e/e10c32e52536195260de5e653c37cacb

2)    キリストと姦通の女-2 一つ前のブログ「独裁と魔女狩り?」の続き

http://blog.goo.ne.jp/john-1939/e/79beed4a90e452f85c9af152a1f4b790

3)   キリストと姦通の女(再び)

http://blog.goo.ne.jp/john-1939/e/b22394b8761244f48e9ff69d1e2d0d40

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