:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ キリストと姦通の女(再び)

2016-11-07 07:47:33 | ★ 聖書のたとえ話

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キリストと姦通の女(再び)

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私は、今年の6月6日と7日に「キリストと姦通の女」をテーマに2度ブログを書きました。しかし、書いたのが舛添都知事の辞職直前と言う最悪のタイミングだったためか、「お前、何馬鹿言ってんの?」みたいなコメントは幾つも戴いたが、賛同し、共感する意見は皆無でした。信念をもって書いた私は、ひどく傷つき、その傷は今もって癒えていません。

私の言いたかったことがようやく理解されたと感じたのは、最近「東洋経済オンライン」に載った中島義道氏の

企業の謝罪会見は『汚い精神』にまみれている

組織の一員として“道徳”とどう向き合うか 

と言う記事に出会った時でした。私はこういう意見をこそ待っていたのです。手っ取り早く中島氏の言葉を拾って、綴り合わせてみましょう。

少年のころから「会社」でだけは働きたくないと思っていた。当時はサラリーマンとは「気楽な家業」というイメージが定着していた。私はその“のんべんだらり”とした村社会的雰囲気を恐れていたのでしょう。(中島氏は「会社」に勤めることに対する恐怖から、えんえん先延ばしして、やっと37歳で大学助手になった、と告白していますが、私も同じ理由で30歳まで中世哲学の研究室でごろごろしていました。)

あらゆるホンネが潰される「会社」 になぜ勤める?

馴れ合いと談合が支配し、個人は「和」の名の下に抹殺され、あらゆるホンネは潰され、あくまでもタテマエがまかり通り…そして、その「日本型村社会」の典型が「会社」であり、「官庁」である。

カントは、道徳的よさは「誠実性=真実性の原則」のみであることを強調する。生命も、愛も、家族も、健康も、精神的陶冶も、芸術も、まして富も、社会的地位も、名声も…これに比べたらクズのようなもの。

会社にとって「道徳的よさ」は無価値だ

 フーコーが発掘したとも言える古典ギリシャ時代の「パレーシア」という概念がわかりやすいでしょう。

 「パレーシア」とは、自分が不利になっても真実を語るか否かという場面で開かれる。たとえ自分がいかなる損害を蒙ろうとも、それが真実であるから尊敬する、そして語るということ。

 まさに、これが「パレーシア」なのですが、これこそ現代社会ではまったく省みられないこと、いや想像さえできないことではないでしょうか? しかも、豊洲問題のみならず、やはり「会社」や「役所」といった組織こそ、際立ってこの原理に従いにくいと言えましょう。

 組織が総がかりで欺瞞の道を歩もうとしているとき、そこに属する個人はどういう態度をとればいいのか、という観点から「道徳的よさ」のすべてを見直すことができるような気がします。

舛添氏より都議会や都庁職員の方がずっと「汚い」

 むしろ、あるきわめて巧妙な仕方で社会的には認められない不正を犯し、しかもそれをひた隠しにし、ついにそれが暴露されたときには、「心からお詫びし、さらに誠意をつくして改善に努める」という姿勢を示す「会社」、ずらっと男たちがテーブルの向こう側に並び頭を深々と下げる光景。われわれが飽きるほど見たあの光景こそが、問題なのです。

 この光景のうちに、現代の会社組織とカントが力説する「真実性=誠実性の原則」との相性の悪さが象徴されている。誰も真実それ自体を尊敬することはなく、もはやここで真実を認めないとさらに自分たちがソンになるからしぶしぶ認めるという「汚い精神」が露出している。隠し通せたとしたら、真実などどこ吹く風で、真顔でウソを突き通し、バレたと思った瞬間にコロっと態度を変える。すべてがソン・トクで動いているだけであり、しかも、「心から反省している」という言葉を吐いても、なんの良心の痛みも覚えないようなのです。

 カントはこれこそ「根本悪」と呼んだのですが、現代日本ではこうした欺瞞があまりにもはびこっているので、誰もが「どこかおかしい」と思いながらも、大いなる怒りさえ覚えなくなってしまっているのではないでしょうか。

 先に取り上げた「舛添問題」では、舛添要一前東京都知事の「あまりによくわかるウソ」と「目に余るセコさ」が目立ったので、世論の怒りが炎上したのですが、私はむしろ「なんと舛添さんは素朴で天真爛漫なのだろう」と思い、それほど「汚い」とも「憎い」とも思いませんでした。むしろ、誰かはすぐわかるので言いませんが、小池百合子現都知事の「小池旋風」がまだ予測のつかないころは、彼女に無礼の限りを尽くしておきながら、敵にしたらヤバイと判断した途端、露骨に擦り寄る都議会議員の面々、広大な地下空間の決定に関与した者は必ずいるはずなのに、絶対に名乗りを上げなかった都庁職員の面々のほうがずっと「汚い」という印象を持ちました。

さて、皆さん。ここでもう一度私の二つのブログ「キリストと姦通の女」を読み直していただけないでしょうか?

私は、出口なし状態の舛添氏を弁明・擁護したくて書いたのではありませんでした。私が「キリストと姦通の女」の聖書のエピソードから疑問を抱き、苦言を呈したのは、連日連夜の番組で舛添氏を血祭りにあげ、世論を煽動したテレビ、マスコミに対して、また都議会の面々に対し、そして、物に憑かれたように舛添氏を火刑台にあげて囃し立て狂乱した大衆に対して、「貴方たちにそんなことをする資格がありますか?」と問うただけのことです。

それなのに、私の主張は「お前は馬鹿か?この期に及んでお前はまだ舛添を擁護するのか?」と言う見当違いの反論とともに、全く無視され不問に付されたのでした。その声は、私には恐ろしいファッショの熱に浮かされた重病人のうわごとのように聞こえました。

ここで聖書のエピソードをもう一度読んでください。

人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。
しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。
これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。
イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」
女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」(ヨハネ8章3節以下)

これを受けて私は書きました。

舛添氏に対するマスコミの質問は悪意の罠に満ちている。具体的に答えなければ、「説明責任を果たしていないから辞めろ」となる。「公私混同がありました、申し訳ありません」、と答えれば、「みずから非を認めたのだから責任を取って辞めろ」。「法に触れるようなことはしていません」、と言えば、「違法性の問題ではない、ここまで世間を騒がせたことに対して責任を取って辞めろ」、となる。何を言っても「辞めろ」言わなくても「辞めろ」の四面楚歌の罠。

では、イエスにならって舛添さんも「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、私に石を投げなさい。」と開き直ってみたらどうか?「ぬすっと猛々しい!」とばかりに、数分後に彼は血だらけの死体になって転がっていたでしょう。現代の日本人には2000年前のユダヤ人社会のようなモラルも抑制心もない。神を畏れることを知らぬ集団はなんと恐ろしいことか!

イエスの時代のユダヤ人と現代の日本人との反応の違いはどこから来るのでしょうか。それは、神が存在する社会神不在の社会の違いではないかと私は思います。

この話はまだ次回に続きます。ここで終わったのでは、私の腹の虫が収まらないからです。乞う、ご期待!

 バラ

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1 コメント

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bonbon様へ (谷口幸紀)
2016-11-08 20:21:23
bonbon様
コメントありがとうございました。
貴女のコメントは、10月30日の「バチカン=今年も日本のために宣教師を養成」のコメント欄に公開しました。
谷口

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