:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 強烈な反響 -「聖母のメッセージ」のブログに対して(オリジナル)

2012-03-24 11:10:39 | ★ 聖書のたとえ話

「全ての民の聖母」 オランダ、アムステルダム 

 

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★  強烈な反響 -「聖母のメッセージ」のブログに対して

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前回の「聖母のメッセージ」のブログには、早速いくつかのコメントがツイッターやメールなどで寄せられました。次のコメントなんかはかなり強烈ですね!:

 

       まあ、木像が涙流しても、歌うたってもいいけどさ、

       神さんが人間に復讐してどうなるんじゃい!

       お前の創ったもんじゃろうが、

       創った者が責任とれ!ちゅうんじゃ (J.K.)

 

上のは、いつも辛口のコメントをくれるお友達で、今回も 「あ、痛タタ!またやられた~」 と言う感じですが、いつもその後ろには理解と愛情がこもっています・・・。

しかし、次のは本当に重いですね:

 

       谷口神父さま

       湯沢台の聖母についての記事を興味深く読ませていただきました。

       以前湯沢台には2度ほど子供たちとお邪魔したことがあります。

       聖体奉仕会の修道院がもつ祈りの雰囲気は大変に気に入っているのですが、どうしてもわからないのがSr笹川へのメッセージの内容です。

       主イエス・キリストの犠牲と復活によって私たちは救いを得ました。その救いは人類全てに及ぶものであり、例外はないと思います。

       その人類・人間を、父なる神が再度罰するということがあり得るのでしょうか?

       もしあるとしたら、それは神学的な矛盾になるような気がいたします。(M.T.)

 

先ず料理しやすそうなJ.K.さんのコメントから検討します。


秋田の聖母の涙

 

「まあ、木像が涙流しても、歌うたってもいいけどさ」

 

と、彼はあっさりいうけれど、これだって大変ですよね。科学的に説明不可能な、自然には絶対起こり得ないはずのことが実際に起きたとしたら-本当に自然の法則に反することだと言わざるを得ないことが確認されたら-それは一大事ですよ!

法律に例外を設けたり、「超法規的」 決定を下したりできるのは、その法律の立法者だけです。かつて、よど号ハイジャック事件と言うのがありました。JALがまだ旅客機を数機しか保有しておらず、一機一機に愛称がついていた頃の話です。日本の国の法律は国交のない北朝鮮に向けて離陸する許可を与える権限を認めていなかった。しかし時の福田総理は、「人命は地球より重い」 と言って人質の安全を考慮し、立法府の最高責任者の権限で、乗っ取り犯「赤軍派」ゲリラの要求を容れ、「超法規的措置」 として獄中の赤軍派幹部を釈放し、飛行機には乗っ取り犯の亡命先への離陸許可を与えた。


神の定めた物理法則で動く衝突銀河 Arp273


では、自然の法則の立法者は誰か。それは天地万物を無から創造し、自然法則の秩序の中に今も一瞬一瞬それを保ち続けている神ではないか。神が自然法則を一時停止したり、例外を設けることを望んだ結果として生じた事象を、人は「奇跡」と呼ぶ。奇跡があれば、人はそこに神の存在とその意志の介入を見る。神を信じない人、神の存在を認めたくない人は、当然奇跡を目の前にしてあらゆる弁を弄して人間の知恵でその事象を説明し切ろうとしてあがく。無駄な抵抗だ。しかし、謙遜な純朴な魂は素直に認めて神の前に跪く。

何が奇跡なものか、自分がそのペテンを暴いてやろうと自信満々でルルドに乗り込んだ筋金入りの無神論者、血管縫合と臓器移植でノーベル賞に輝くアレクシス・カレル博士が、そこで正真正銘の奇跡に出会い、無神論を捨てて神を信じた話は有名だ。中途半端に頭が良くて、偏見に満ちた傲慢な魂が一番手に負えない。

J.K.君はクリスチャンではないが、あっさりと神を認め、自然も人間も神が創ったことをも認めてくれているから話は早い。神が木の像に涙を流させることも、聾者の耳を突然開くことも、芳しい香りをばらまくことも、望めばなんでもできることを認めてくれるだろう。

その神が自分の被造物である人間に(不用意にもと言うべきか)神の内面的生命の秘密である 「理性と自由意思」 までも与えてしまった。これは「心を尽くしてあなたの神を愛しなさい」また「隣人を自分のように愛しなさい」と言う神の掟を守り実行する上で必要な能力ではあったが、それはまた、悪を行い罪を犯すことの出来る能力でもあるという点で、プロメテウスの火(注1)のように危険なものでもあった。

人間はこのプロメテウスの火を手に入れた上に、ご丁寧にもパンドーラの箱のふたまで開けてしまった(注2)。キリスト教的に言えば、アダムとエヴァの失楽園の物語に相当する。そして、危険な火遊びに夢中になり、欲望の赴くままに人を殺し、奪い、富を蓄え、弱い人・貧しい人をしいたげ、飽食と快楽に耽り、神を冒涜した。犠牲者たちの救済を求める苦しみの叫びは神の耳にまで届き、神の怒りは頂点に達した・・・と言うストーリーが描けるのだが、その天罰 (J.K.君の表現を借りれば 「復讐」 ) がマグニチュード9の地震であり、津波であり、原発のばらまいた放射能であるとすれば、その犠牲者の大部分が「無垢な善良な小さな魂たち」であったことを神はどう弁明するのか。巨悪の元凶の大悪人共はちゃっかり難を免れ、安全なところでご馳走を食べていて反省の色すらないのに、神はそれをよしとするのか。神の罰は彼らには及ばないか。そんなことって・・・。



箱を手にしたパンドーラ

この不条理を見ていると、

 

       神さんが人間に復讐してどうなるんじゃい!

       お前の創ったもんじゃろうが、

       創った者が責任とれ!ちゅうんじゃ

 

というJ.K.君の吐き捨てるようなセリフにはド迫力と説得力がある。私はそれをとか復讐と言うよりも、回心への招き、より恐ろしい決定的滅びを回避するための厳しい警告、神への回帰への呼びかけと取りたいのだが・・・

さて、ここで一気に私の反論、「神の弁護」に移らせていただきたいのでありますが、実は、過去に書いて、すぐに封印して現在は眠っている-いささか野心的な-ブログがあります。それがJ.K.君とM.T.さんの疑問に対するピッタリの答えだと思うので、エイヤッと思い切って開封しようかと思います。

そもそも封印した理由は、納得して書いたはいいが、すぐにカトリックの異端説として糾弾され、ひどい目に遇うかもしれないぞ、という心配と恐れがあったからです。いまでもその不安はぬぐいきれません。(だからおかしいとこがあったらどうかご指摘を。すぐに撤回して謝る用意あり。あくまで仮説ですから。自説に固執する気はさらさらありませんから。)

問題の幻のブログの題名は「ともに罪を犯してくださる神」です。いささか挑発的であることは承知しています。

こんな当たり前の話、どうして今まで語られてこなかったのか。それが単なる私の浅学菲才の無知から来るもので、先刻世の常識になっているのを私が知らなかっただけだったら「恥ずかしい!」と言って穴に入れば済む話ですが、過去に議論され、神学的に欠陥がある異端説としてとっくに退けられ葬られたものであったとしたら、今頃知らずに蒸し返すのはいささか「やばい」ぞ、と言う思いが強くしています。

しかし、ディスプレイの隅に目をやると、もう12ポイントでA4三枚分になっています。ここへ古いブログを貼り付けて続けたら、一回分としては長くなりすぎます。それで、気を持たせるようで恐縮ですが、もう一度念のために内容を点検して数日中にアップしたいと思うので、ちょっとお待ちください。乞うご期待!


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(注1) 「プロメテウスの火」 ギリシア神話においてプロメテウスが人類にもたらした火。強大でリスクの大きい科学技術の暗喩として用いられる。

プロメテウスは天界の火を盗んで人類にもたらした存在として知られる。ギリシア神話において、人間はプロメテウスから火を与えられて幸福になったかというと、あながちそうとは言えず、高度な文明と共に争いや苦難も持つようになったという。(上の話では、神が人間に理性と自由意思を与えたことに対応する。)

原子力は、しばしば「プロメテウスの火」に喩えられる。チェルノブイリや福島第一原発などで発生した原発事故のように、人間の力では制御できない高いリスクを持ち、制御しとおせたとしても、オンカロのように人間の尺度を越えた膨大な時間の管理が必要となる。そのような技術でありながら、発電という側面においては半ば欠かすことができない技術となっているからである。(「新語時事用語辞典」より)

 

(注2) 「パンドーラの箱」 プロメーテウスが天界から火を盗んで人類に与えた事に怒ったゼウスは、人類に災いをもたらすために「女性」というものを作るよう神々に命令したという。ヘーシオドス『仕事と日』によればヘーパイストスは泥から彼女の形をつくり、神々はあらゆる贈り物 (=パンドーラー) を与えた。アテーナーからは機織や女のすべき仕事の能力を、アプロディーテーからは男を苦悩させる魅力を、ヘルメースからは犬のように恥知らずで狡猾な心を与えられた。そして、神々は最後に彼女に決して開けてはいけないと言い含めて箱(壺ともいわれる 詳細は後述)を持たせ、エピメーテウスの元へ送り込んだ。ヘーシオドスは『神統記』においてもパンドーラーについて触れ、神々からつかわされた女というものがいかに男たちの災いとなっているか熱弁している。

美しいパンドーラーを見たエピメーテウスは、兄であるプロメーテウスの「ゼウスからの贈り物は受け取るな」という忠告にもかかわらず、彼女と結婚した。そして、ある日パンドーラーは好奇心に負けて箱を開いてしまう。すると、そこから様々な災い (エリスやニュクスの子供たち、疫病、悲嘆、欠乏、犯罪などなど) が飛び出した。しかし、「ελπις」(エルピス)のみは縁の下に残って出て行かず、パンドーラーはその箱を閉めてしまった。こうして世界には災厄が満ち人々は苦しむことになった。ヘーシオドスは、「かくてゼウスの御心からは逃れがたし」という難解な言葉をもってこの話を締めくくる。(Wikipedia より)(アダムとエヴァの失楽園物語に対応する。)

(つづく)

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