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ローマ
= 大自然の力に意外と脆い都 =
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雨続きのうすら寒い日々の合間に珍しく晴天。所用あってアペニン山脈を越えて長靴のふくらはぎのあたりのアドリア海方面へ。
峠のトンネルを抜けて振り向くと、グラン・サッソ(巨岩岳)の雄姿が見えたが、こんなことはまことに珍しい。
生半可な晴天の日は、周りの山に雲がなくても、この頂上だけはいつも厚い雲のヴェールに覆われて、姿を隠しているからだ。
(グラン・サッソ: ヨーロッパ最南の氷河があるアペニン山脈の最高峰2,915mは北アルプスの大天井岳より6.3m低い)
しかし、晴天も束の間、ローマに帰り着く夕刻には、空は既に雲に覆われ、西陽に虹が立つということは、
アペニンの山々にはすでに冷たい雨か雪が戻ってきた印だ。
神学校に帰り着くためには、公道を逸れてすぐ汚いどぶ川を橋で渡らなければならない。
以前ブログに取り上げた巨大土筆(つくし)の生息地だ。
http://blog.goo.ne.jp/john-1939/e/5619b56211419a9dc6c3d1b4fc01f20e
普段の川幅は広くてせいぜい3メートル余り。生活排水や近くの工場の廃液で、夏は常に悪臭を放っている。
その夜、いつにない激しい嵐が襲ってきた。絶え間なく閃く稲妻と轟く雷鳴。窓や鎧戸をガタガタと鳴らし、
雨脚にビュービュー、ゴーゴーと風の音が混ざって、なかなか寝付けない。
やっとうとうとした頃、突然閉じた瞼の下の眼球が白い光で満ちた。そして耳を聾する雷鳴が響き渡り、
しばらくゴロゴロ、ゴロゴロ、と遠く長くエコーを引いた。
起き上がったが外はまだ暗く、部屋の灯りがつかない・・・? 停電とわかった。
手探りで自室のトイレに立つと、なんと、観音開きの窓が片側だけ雨風の中に開け放った状態だった。
強風にあおられて留め金がはずれ、一晩中強風にもてあそばれていたのだろうか。
これで寝られたら大した大物だ。
空が白んでも起床の鐘は鳴らない。それも道理、電動式なのだから。
見当をつけて部屋を出るが、聖堂も、食堂も薄暗く、ところどころにローソクが灯されていた。
神学校は丘の上だ。好奇心から傘をさして門の外に出て丘を下りてみた。
なんと、そこには全く見知らぬ光景が広がっていた。
エッ?!これがあの幅3メートルのどぶ川の変身???
夜中に偵察してきた神学生の話では、今はすっかり退いたが、
最盛期にはまだこれより40-50センチ水かさが高かったと言う。川幅もさらにこの倍ぐらい。橋は手すりまで水没。
テベレ川よりも広い大河の様相だったことだろう。まさに超異常な集中豪雨のなせる業だった。
午後、また見に行った。
すぐ足元でも、まだ小さな段差で水が泡立っている。しかしこれでも水嵩はだいぶ減った後だ。
つい数時間前まで、このポールの下の赤い線まで水に浸かったという話を聞いた。
水が引きはじめた後には、公道に通じる道には漂流物の堆積の山が。
このゴミを取り除かなければ外には出られない。
あの遮断機の向こうの橋が渡れなければ神学校は陸の孤島も同然だ。
神学校には外出禁止の通達が回った。
その夜、
夕食のメインテーブルの雰囲気は中世の騎士たちの晩餐風景と言ったところか。意外とロマンチックだ。
これは平山司教様の隣の私の席に坐ったままの写真。
3階の私の寝室への階段の壁際には一本のローソクが灯されていた。これで深夜までもつのだろうか?
次の日。
外界への道は橋の手前でゴミの山に20-30メートル塞がれ、相変わらず人も車も通行止め。
しかし、橋の右たもとの農家の庭を迂回すれば、公道に出られることが分かった。
それで、車で街に出た。
ローマ市内を流れるテベレ川。普段はアーチが出会う位置の下に高い石の橋脚があり
水面はその橋脚の下の土台のあたりにある。
今は橋脚はおろか、アーチも出会う前に水に沈んでいるではないか。
右の護岸は見える部分よりまだ2倍近くが水面下に隠れている。
そして、そこに左の並木の外側までの広い壇があり、散歩道やサイクリングが出来る回廊になっている。
普段の川の水は、下の並木の左側にあるもう一段下を流れているはずなのだが・・・
ローマのミニ「シテ島」(セーヌ川のノートルダム寺院のある中州)。ここでテベレ川は二つに分かれ川中島を作る。
中世からの古い病院は一階が水没寸前まで来ている。
聞いたところではすでにコレジオ・クロアートは地下室に浸水がはじまっているようだ。
更に次の朝、同じ川中島を見に行った。水位が下がり、ビフォー・アンド・アフターの写真の対比を期待したが、
水位はほとんど変わっていなかった。土砂降りから普通の雨に変わったからと言って、
上流に今も降り続いている雨のため、一日ぐらいで水量は簡単に減るものではないのだろう。
水没寸前の川中島の病院を絵に描いている人がいた。長い階段の中間の踊り場の位置まで水が上がっている。
例外的な水位に水鳥たちも戸惑ったか。リオの岩山の上で羽を広げたコンドルを見てブログに書いたが、
同じように見栄を張っても、あちらは広げれば3メートル強。こちらの川鵜は目いっぱい広げて1メートルがせいぜいか?
右は、鴨と川鵜の仲良し昼休み。
さらに2日ほどがった。しばしの晴れ間にさすがの大河も退いた。送電線の鉄塔の左手前の白っぽく乾き始めた土地は
上流から送られてきた砂に育ち始めた牧草が埋まったあたり。手前は埋まったのではなく、土壌が削られて流された部分だ。
洪水の前はこの視野全体が緑濃いい牧草地だった。これで今年の牧草の収穫は壊滅的か。
実は、この雨でローマ中の道路があちこちで寸断され通行止めになっていた。
路面の陥没もあったが、大部分は切通しや盛り土の法(のり)面の崩壊だ。
神学校周辺地域の停電は約24時間にわたった。
文明度の指標の一つに停電率の国際比較がある。1年間にその国で平均何分間停電するかを比べるものだ。
日本 16.0 分
ドイツ 36.5 分
フランス 57.7 分
米国 65.5 分
英国 81.9 分
とくれば、ローマの今回の約24時間(1,440 分)は(もちろん局地的な事ゆえ単純比較は出来ないが)異常に長い。
どちらかといえばイタリアの停電率はアフリカやアジアの共産圏グループに近いのではないか?
と言われても、たいていのイタリア人は笑って意に介さない。
そのほか、ちょっとした雨で道がすぐ灌水し、
遊園地のウオーターシュートよろしく車が大げさな水しぶきを上げて走り回るのもローマの風物詩だ。
これらが今回のブログ「ローマ」に、=大自然の力に意外と脆(もろ)い都=と副題をつけた所以だ。
イタリア人の名誉のために付け加えるが、停電率の低い国の日本人の方がより幸せかと言うと、むしろ逆なのだ。
(おわり)
何でこんな時間に起きてるかというと、先週の金曜日朝突然吐き気がして、その日のアルバイトもお休みしなければいけなくなったという、悲惨な出来事が起きました。
吐き気が起きるというのは初めてで寝ていても治まりそうに無く、グッドタイミングで私の通っている精神科に、その日内科のドクターがいらしたので、弟に送ってもらい(自分で車を運転できなかった)連れて行ってもらったら、診察後「吐き気止めの点滴をします。」の一言。二時間爆睡後、帰宅。少し食べられるようになりましたが、その日からひたすら眠る。そして昨日日曜日も夕方?起床。
ふらふらと微熱は下がらなかったので、なるべくおとなしくしていようと思ったのですが、さっきストレスに耐え切れず、近くのコンビニに食べたかったチョコレートを買いにいきました。そしてアマゾンで購入した本の支払いにも入ってきました。
暖かくして行きましたが、何故か行く前より帰ってきて、コーヒーを飲みながら今お返事してるのに、すごく気分良いです。
ストレス発散したからかな?
ご存知のことと思いますが、日本もものすごい大雪です。山形市内はまだ50センチくらい。一番多い大蔵村という山形の豪雪地帯は3メートル弱いってます。毎年のこととは言え大変だなと思います。
雪に弱いローマって、ちょっと意外な気がしました。
私がイタリア(正確にはミラノ→ヴェネツィア→フィレンツェ→ローマ(ヴァチカン込み))にいったのは10月でしたが、雪のヴェネツィアの仮面祭りを知っていたからかな~。
ここで神父様のお話を聞き「そんな弱いのか~」とちょっと意外でした。
ローマ市内は積もらないのでしょうか?
ヴェネツィアに遊びに行った時、地元の方から「この街もまもなく沈んでしまうでしょうから、その前に是非また遊びに来てくださいね」と声をかけられたのが印象的でした。
つくし!ビックリ!
なんか!ディナーもおいしそうだなあ・・・(食べることばっかり!)
私はちなみに海外に行って、食事に困ったことって一回も無いです。唯一言えば、イタリア旅行では水がワインより高いこと!私はアルコールが苦手なのです。
「固いぞ~!」と脅されたパンは却っておいしく頂いてきました。
一度、やはり、アッシジに行きたいです。
英語専攻なのに、一度も英語圏に行ったことが無いシズコより。
追伸:我が家のアマリリスがきれいに咲きました。ごらんにいらしてください。
神様は言っているぜ。
「早く箱船を用意しなさい」って。
2月17日はノアの洪水が起こった日だったよね。
J. K.