:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 聖書から見た「サイレンス」―その(7)〔最終回〕

2017-04-30 18:42:54 | ★ インカルチュレーション

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聖書から見た「サイレンス―その(7)

〔 最 終 回 〕

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スコセッシ監督と俳優たち

聖書の本質的メッセージとは何か?それは「主、キリストは蘇えられた!」の一言に尽きる。こんな強烈なメッセージは「自然宗教」のどこを探しても決して見つかるものではない。

もし、ナザレのイエス、すなわちメシア(救世主)と言われたキリスト、が人間として本当に十字架刑の拷問の末に「死んで」三日目に「蘇えられた」、つまり「復活して生き返った―「死」を克服し「死」の支配に対して勝利を収めた―のでなかったら、キリスト教ほど馬鹿馬鹿しい、割の合わない宗教はない。

この世で、富も、名誉も、地位も、健康も、長寿も、いいことはなにも約束してくれない、ご利益を積極的に「全否定」するだけでは気が済まないで、「貧しい人は幸い」である(ルカ4章20節)。「悲しむ人々は幸い」である(マタイ5章4節)。「義のために迫害される人は幸い」である(同5節)。「私のためにののしられ、迫害され、身に覚えの無いことであらゆる悪口を浴びせられるときあなた方は幸い」である(同11節)などと言ってはばからない。

まだしつこく続く。「富んでいるあなた方は、不幸である。」「今笑っている人々は不幸である。」「すべての人にほめられるとき、あなた方は不幸である」(ルカ6章24節以下)。つまり、市井の凡俗な我々が希求する価値観の全否定だ。

それでもまだ足りないか、ご丁寧に駄目押しの無理難題が並ぶ。「敵を愛し、あなた方を憎む者に親切にしなさい。・・・あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬も向けなさい。・・・あなたの持ち物を奪うものから取り返そうとしてはならない。・・・(ルカ6章27節以下)。 

そんな無茶苦茶なことを要求した挙句の果てに、ローマ人が考案した最高に残酷な拷問刑―「十字架」―に磔けられて苦しみもだえ、「沈黙」する神に完全に見放され、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ!」という絶望の叫びをあげた後に哀れにも息を引き取ったキリストが、何の夢も希望も残さず、あっけなく死んで、「それで一巻の終わり!」なら、キリスト教ほどアホらしい宗教はない。

それでも、キリストの生前の魅力の集団催眠にかかった信者たちが、次々と拷問を甘受し、人が猛獣に喰い殺されるのを見て楽しむ野蛮なローマ人の娯楽ショーの消耗品として殺されていく姿は、ただ哀れとしか言いようがないではないか。

「自然宗教」的メンタリティーから言えば、要するに、これ以上にアホらしい宗教は絶対に考えられないのだ。

それなのに、なんでキリスト教(カトリック、プロテスタント、その他もろもろの宗派を合わせて)は世界人口の1/3、22.5億人もいるのか?

やはり、もしかして、キリストは本当に復活したのでは・・・?そうとでも考えなければ、この数字は全く辻褄が合わないではないか?)それとも紀元313年にコンスタンチン大帝に手籠めにされて帝国の「囲われ女」に身を持ち崩したキリストの花嫁(教会)が、最も成功した「自然宗教」として勢力を張っている姿なのか(これは恐ろしい話で、考えたくもないが・・・。とにかく、この体制は325年以降1965年まで、いや今日まで基本的に変わっていない。)

何はともあれ、そのキリスト教は今年も4月16日の日曜日に「復活祭」を祝った。厳密に言うと、15日の日没から16日の明け方まで、徹夜して復活祭を祝うことになっていた、というのが正しいのだが・・・。

だからどうした?何か起こったか?世界は何も変わらなかったではないか?

一見するところ確かにそうだ。私も全く同感だ。何も変わったようには見受けられない。

では、本当のところはどうなのか?本当に何も変わらなかったのか。変わる兆しもないのか?

10年前から45万人を切って、毎年平均1000人単位で信者が減少している日本のカトリック教会で、もし500人の信者が本当にキリストの復活を心から信じたとしたらどうだろう?彼らが本気で聖書の教えを信じて実践しようと努めたらどうなるか?

キリストは彼らに向かって「あなた方は地の塩である」「あなた方は世の光である」マタイ5章13節以下参照)と言われた。圧倒的少数者の彼らではあるが、世間を腐敗から守り、社会に味をつけ、世の闇を照らすだろうと言う予言だ

神が天地創造の最初に人類に命じられたこと「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。」(創世記1章28節)という命令を忠実に守り、若い夫婦が一斉にピルも含め一切の避妊行為をやめて愛し合えば、どうなるだろう。避妊を完全に意識から排除した愛し合う夫婦の交わりの心身を溶かす絶頂の至福の一体感・陶酔感と、避妊の成功を前提に行われるセックスによる肉体的性欲の利己的・動物的満足感(孤独なマスターベーションと大差ない)との間に月とすっぽんほどの違いのあることは、経験したものにしかわからないだろう。(1968年、時の教皇パウロ6世はカトリック信者の人工的産児制限を禁止する回勅「フマネ・ヴィテ」を発表したが、全世界の教会指導者たちは、教皇の言うことは実践不可能として無視し、葬ってしまった。しかし、その後任の聖教皇ヨハネ・パウロ2世はそれが真面目に受け取られることを望み、そのために腐心された、という経緯がある。)

結果は、多い家族は10人以上の子宝に満ち、平均でも5人ぐらいにはなるだろう。そして、親が自分の持っているものの中で最高のもの、「命よりも大切な宝」を子供たちに受け渡すために最善を尽くすなら、つまり、命より大切な「信仰」を確実に子供たちに伝えていくことに成功すれば、それだけで一世代、30年以内にカトリック人口の減少傾向は止まり、やがて際立った増加に転じるだろう。また、復活したイエスが弟子たちに現れて「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」マルコ16章15節)と言われた命令を、彼らが忠実に守って、「物見の塔」の信者さんや「エホバの証人」の信者さんたち顔負けの熱意で、宣教活動のために街頭に打って出るならば、キリスト教を信じる人の数は飛躍的に増えていくに違いない。

しかし、このような信仰の生き方は、他方では「自然宗教」の仲良しクラブの中では付き合いにくい異分子として摩擦の種になるだろう。そんな時、イエスは言う。「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。」(ヨハネ15章18節)さらに、「『僕は主人にまさりはしない』と、わたしが言った言葉を思い出しなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。」(ヨハネ15章20節)

彼らには迫害に対する心の準備がある。「悪人に手向かってはならない」(マタイ5章39節)と聖書にあるから、迫害者と対決することはないが、逃げても、隠れても追い詰められて囚われれば開き直る。拷問や殉教が恐ろしくない人間などどこにもいないが、彼らは容易に転ぶこともしないだろう。「沈黙」はそこで、「殉教者は強者」で「転ぶものは弱者」、神は弱いものにこそ憐れみをかける、というような理屈を展開するかもしれないが、それは聖書的ではない。人間的に見て、殉教するものがころぶものより強いとは言えない。復活の確信、天国への希望は確かに支えになり、強めてもくれるだろうが、それは彼ら自身が強い人間であるという意味ではない。それは人間の力ではなく、上から注がれる信仰の恵みなのだ。信仰の恵みによらなければ誰一人として殉教などできるものではない。この神からの恵みは、苦しみを和らげ、耐えきれるものに変えて下さるだろう。さもなければ誰も最後まで耐えられるものではない。ころぶ人は、信仰の恵みと神からの助けを信じない。神の助けと力添えを期待もしない人間が、人間的プライドの強さにだけ頼り、その限界に達したときに転ぶのだ。その意味で、強い人こそ転ぶといえる。キリストにあやかり、キリストに似たものとなること、つまりキリストのように死ぬこと、を光栄としない者、無上の喜びとしない者にとって、神の恵みも助けも役に立たないということか。

私はキリストの「復活」を本当に信じる人々の小さな共同体に希望をつなぎたい。自分自身「キリストが復活したこと」を信じ、自分も「死」に打ち勝って復活することを希求し、その希望にすべてを賭ける人生を送りたい。

私は日本に帰ったら ―早く帰りたい!-20人、30人の同じ信仰を共有できる仲間と共に「キリストの復活の証し人」の共同体を作ることができれば、それで満足だ。

私は世界中にその萌芽をすでに見ている。教皇フランシスコのおひざ元のローマでも小さいながら始まっている。ひょっとして日本でもすでに?

生きているうちにその「希望」の証しを見たいものだと思う。

(このシリーズ終わります)

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6 コメント

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Unknown (kei)
2017-05-01 19:01:43
谷口神父さま

 7回にわたる「沈黙」の「書評・映画評」、そして「キリスト教とは何か」との問いに対するお答えを綴ってくださり、ありがとうございました。

 遠藤さんが信じておられたのは、「イエスという名の救い主がこの世に誕生した」こと、「彼は約3年間、神の救いと『愛』について語った」こと、「十字架につけられた」こと、そして「復活なさった」こと、この四点だけでした。

 福音書に書かれている「病人の癒やし」や「死者を甦らせた」ことなどは、全て弟子たちが後世に創作したフィクションであり、神の権威を誇示するための「metaphor」である、と思っておられたようです。あたかも、釈迦が生まれてすぐに七歩あるき「天上天下唯我独尊」と叫んだという逸話がまことしやかに語られているが、仏僧も仏教信者たちもみな、あれは「フィクション」だと知っている、というように。

 谷口神父さまは、人間に、遠藤さんが書くような「強いひと」と「弱いひと」その二種類が存在するわけではない、と仰りたいのですね。人間の視点で、「殉教」の意味をあれこれ詮索しても虚しくなるばかり。いいか悪いか、あるいは、人間的に強かったから「殉教でき」て、弱かったから「転んだ」、といったことを書いたり語ったりすることはナンセンスだと。

 「殉教」の善し悪しは別としても、そこには人間の力など一切存在しないし、介在しない。ただただ神の恩寵のみが存在した。

 離岸流に流されたひとが、自力で波に逆らい岸に泳ぎ着こうとしても決してそれは叶わない。それどころか、最後には力尽きておぼれ死ぬ。対して、自力を捨て、波に身を任せ力を抜いて浮かんでいれば、やがては引き波からも外れて岸にたどり着くことができる。場合によったら通りがかった船に救助してもらえるかも知れない。

 たとえは悪いですけど、そんなところでしょうか。とにかく、小説や「映画」とはいえ、あの「沈黙」の世界を人間の視点で表現することなど決してできはしない。それが谷口神父さまの結論でしょうか。そのお考えであれば、私も全く同感です。

 谷口神父さまは世界人口の1/3、22.5億人がキリスト教徒である、とお書きになっていますが、この数字に私は疑いを持っています。

 アメリカの大統領は、聖書の上に手を置いて、神に、イエスに恥じない人間として、大統領の職務を真摯に全うすることを誓います。しかし、アメリカの大統領で、真のキリスト者と呼べるひとがいたでしょうか。トルーマンなどは、アメリカの武力誇示と、新兵器の実験をしたくてなんの罪もない広島と長崎の一般市民に向けて原爆を投下したのです。その爆心地には、アメリカ市民も、キリスト教の聖職者も信徒も当然存在していました。悪魔の所行としか言いようがありません。

 かなり前のことですが、そのアメリカのキリスト教聖職者(信徒ではありません)に向けて取られたアンケート結果を読んだ事があります。

 「あなたは神の存在を純粋に信じていますか?」という問いに、「はい、もちろん信じています」と答えたのは、僅かに六割でした。残りの四割は「分からない」「懐疑的」と答え、「信じていない」という聖職者もいました。また、「もちろん信じています」という聖職者に「それでは、イエスが神の子であると信じていますか?」という質問が続けてなされていますが、「はい、もちろんです」と答えたのはたったの四割しかいませんでした(ごめんなさい。出典は失念しました)。

 このアンケートの数字が信頼に足るものであるかは疑わしいものですし、そもそも、こんなアンケートがほんとうに行われたのか。行われたとすれば、どの程度の規模でどの教派、宗派で行われたのか。カトリックだけなのか、プロテスタントだけなのか、すべてのキリスト教聖職者を対象としているのか、詳細なことはなにもわかりません。ですから、信頼する必要はない、というのが私の結論です。

 それでは、全く的外れなの?、と問われると、そうでもないような気がするのです。遠藤さんやスコセッシのように、あくまでも人間の力で神の、イエスの存在を証明してやろうという自称キリスト者、トルーマンのように、悪魔に憑かれたキリスト者、韓半島に代表される血も涙もないカルトやほぼカルトのメガチャーチクリスチャンなどは、キリスト教徒の数に入れてはならないと思うのです。そうやって改めて数え直せば、全世界のキリスト教徒の数はせいぜい2.5億人。もしかしたら、2500万人もいないかもしれません。おまえはその中に入っているのか?と問われれば、もちろん「滅相もないです」と言わなければなりませんが。

 ここは公のコメント欄ですから、私のプライベートについて前回以上に詳述することはできません(神父さまが不適切と判断なさったなら公開せず削除してください)。

 嘘偽りのない、飾らない本物のキリスト教聖職者、谷口神父さまにお会いできて嬉しかったです。ありがとうございました。
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Unknown (元祖@名無し)
2017-05-01 19:53:50
「子供に洗礼を授ける親は、ヨーロッパの信者の家庭でも急速に減ってきた。日本では、信仰は物心がついてから自由に選ばせるがいい、という一見物分かりのいい親が多い。その結果、生ぬるい信仰の親の背中を見て育った子供が、思春期を超えて信仰を受け継ぐ可能性は極めて低い。」のなら「30年以内にカトリック人口の減少傾向は止まり、やがて際立った増加に転じるだろう。」という希望は叶うのでしょうか?
返信する
(kei)さん、有難うございました (谷口幸紀)
2017-05-01 20:03:21
(kei)さん
私の長いブログ、付き合ってくださってありがとうございます。

遠藤さんが何をどこまで信じたかはわかりませんが、
福音書に書かれている「病人の癒やし」や「死者を甦らせた」ことなどは、全て弟子たちが後世に創作したフィクションであり、神の権威を誇示するためのただの「metaphor」である、と思っていたとすれば、彼はカトリック教会の教えからは完全に離れていますね。

「谷口神父さまは世界人口の1/3、22.5億人がキリスト教徒である、とお書きになっていますが、この数字に私は疑いを持っています。」というご意見には、実は私も賛成です。本当にイエスは復活し、今も生身の体を持って生きている、と信じている人は、カトリックの信者の中にも、聖職者、修道者の中にさえも、意外と少ないのは事実のようですね。

「嘘偽りのない、飾らない本物のキリスト教聖職者、谷口神父さまにお会いできて嬉しかったです。ありがとうございました。」というのは、身に過ぎたおことばですが、こちらこそ真面目に読んでくださって、有難うございました。
谷口幸紀拝
返信する
文芸なので~作家と司祭 (yishi_youxia)
2017-05-02 05:14:04
谷口司祭の「その6」の記事の末尾に書かれた
>「サイレンス」を描く姿勢には確信犯の明確な意思が秘められているように思えてならない。

とのくだりを拝読して安堵しました。
 何故なら、これはあくまで文芸なので、宣教や伝道が根幹ではなく、受け取り手に何らかの「問い」を投げかける種類のものだと感じるからです。
 ただ、谷口司祭はこの作品を通して遠藤周作やスコセッシをいう人物を読み取ろうとします。
 それどは逆に、観衆がこの作品を「鏡」のようにして自分自身の考え方や理解を自分自身で読み取る、ことが期待されてもいいのではないでしょうか?

例として…曾野綾子氏の執筆物で「第1コリント9・19~22)について述べた文をここに引用します。

 この部分を指してパウロをおべっかつかいとか、迎合主義とか、オポチュニストとかいう人がいるでしょうが、実はそうではないのです。私たちが「あなたは間違っている」というとき、もうそこでは人の心を得られないのです。…中略…そういうさまざまな人たちに対して「あなたは間違っている」とはパウロは言わなかったのです。むしろ、その人のようになったのです。しかも、良心を病んでいる人々に対しては自分も良心を病んでいる人のようになるというというところまで徹底して。すべての人に対して同じ目線にまで自分を下げました。それもこれも、何とかして何人かでも救うためだ、と言うのです。こういうパウロのやり方は、私たちが想像しているキリスト教的なもの、いわゆる信仰深い人の頑強で妥協を許さない宣教というものとはかなり違っています。
(引用文献)
曾野綾子『現代に生きる聖書』 日本放送出版協会2000年7月  頁145-146

 これを読んだ人が、NHKのカルチャー講座での曾野綾子氏の文を鵜呑みにして終わりにしてしまうのか、それとも疑問を感じて新約聖書のパウロの書簡を紐解き、この節の前後に書かれている「朽ちない冠」や「自分自身が失格者になる…」や「自分の誇りを奪われるよりは死んだ方がまし」と書かれた部分について考えるのか…?
 これは受け取り手や読み手に敢えて委ねられている部分なのではないでしょうか?

返信する
現代の隠れキリシタン (しなもん)
2017-06-23 02:52:33
はじめまして。
ナムアッバ・・・これは井上洋治神父に対する批判と受け止めました。
遠藤周作、井上洋治にしろ『西洋のキリスト教』という視点でみれば異端なのは間違いありません。
しかしながら、ご存知だと思いますが現代においても『潜伏切支丹』と呼ばれる方たちがいます。遠藤が沈黙を書く前後、50年前はさらにいたわけです。
普通に考えれば明治に切支丹禁制が解かれたら隠れキリシタンはカトリック教徒に戻る・・・でも彼等は新教と拒み教会に行きませんでした。
さらに、時代が下ると隠れキリシタンの中には仏教や神道に改宗する人達ものいました。
何故なのですか?

隠れキリシタンは今も長崎にいる(2015)
https://liginc.co.jp/200770
カトリック長崎大司教区で行われる枯松神社祭において基督教・仏教・神道の合同というのは谷口神父はどのようにお考えですか?

カトリックとプロテスタントはエキュメニズム運動がありましたましたが、やはり機能していうように思えません。
一福音派の牧師を個人攻撃するつもりはありませんが、谷口神父と同じ上智のご出身でありますし、新潟聖書学院にて解釈学を教える方が、『沈黙-Silence』を曲解し信者に語るのはやはり違和感を覚えます。
遠藤・スコセッシは異端の信徒ですから、見たら忘れなさい、見ないようにしなさい、と仰らない。
https://youtu.be/tHgLLcx0b7c

私は谷口神父と考えことなると思いますが、それでもきちんと批判はする姿勢は敬意を払います。
『沈黙』の幾つかの批判を読みはしましたが、『生理』を抜きにして考えるのはどうか?と思います。

私の遠戚に立野信之というプロレタリア作家がいました。彼は小林多喜二を小樽から呼び共に暮らしました。
そして二人は特高警察に捕まり、遠戚の立野信之は獄中での拷問に耐えきれず転向表明しました。
一方の小林多喜二は自分の信念を守り獄中死しました。私も立野と同じく転向し、生涯自己弁解、自己正当化し続けたと思います。
返信する
避妊行為について (新米信徒)
2021-09-21 12:58:05
神父様 

「(創世記1章28節)という命令を忠実に守り、若い夫婦が一斉にピルも含め一切の避妊行為をやめて愛し合えば、どうなるだろう。・・・」

深刻な問題だとはあまり気がついていませんでした。最近知ったことは、日本政府は 1970 年代ぐらい(?)に少子を積極的に奨励していたことです。今の
ことを考えると、マンモンとつながっているようで、恐ろしい結果になっているようです。
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