:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 聖書から見た「サイレンス」―その(6)

2017-04-25 21:55:07 | ★ インカルチュレーション

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聖書から見た「サイレンス」―その(6)

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何かおかしくないか?映画「サイレンス」について書きながら、書けば書くほど「超自然宗教」キリスト教の「自然宗教」化、空蝉のような形骸化の歴史を跡付けることになってしまった。この先にあるのは他の自然宗教ともども、地球規模の世俗化(secularization)の波に呑まれて、日本でキリスト教が自然消滅するのを自分の目で確かめることになるのだろうか。

日本の教会は土着化のイデオロギーに麻痺して、組織的宣教の意欲をほとんど喪失してしまった。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16章15節)というイエスの命令を弟子たちは忘れてしまった。だから、今のままでは教会の宣教活動による信者の目立った増加は期待できない。

他方、日本の出生率は1家庭当たり約1.4人ということだが、カトリックの家庭も日本の平均と大差ない。ということは、カトリックの夫婦もピルを含め、あらゆる手段を駆使して盛んに避妊をしているということだ。出生率が2.07人を割り込むと、その国の人口は減少に向かう。だから、信者の数も人口に比例して減少するかと思ったらそうではない。子供に洗礼を授ける親は、ヨーロッパの信者の家庭でも急速に減ってきた。日本では、信仰は物心がついてから自由に選ばせるがいい、という一見物分かりのいい親が多い。その結果、生ぬるい信仰の親の背中を見て育った子供が、思春期を超えて信仰を受け継ぐ可能性は極めて低い。つまり、生物学的には信者の子は一家庭1.4人だとしても、信仰の再生産は限りなくゼロに近いということになる。つまり、今いる信者が高齢化して死に絶えたらそれでカトリック教会は終わりということか。

私はそんな希望の無い宗教の終焉を見届けるために、妻子も持たず、富も地位も名誉も求めず、ひたすらみすぼらしい貧乏神父の道を選んだのかと思うと情けない。華やかな国際金融マンの生活をそのまま続け、安泰な老後を送った方がはるかにましではなかったろうか。

どこかで道を間違えたに違いない。それは、遠藤が「沈黙」を書くときに選んだ手法、キリスト教を聖書に依拠することなく、小説家の思惟のままに自由に作り替えていった結果に違いない。

それなのに、聖書に依拠しない遠藤イデオロギーには奇妙な誘惑的魅力があった。それにカトリックのインテリ、聖職者の多くが虜になった。それを土台にしたスコセッシの「サイレンス」は、同じ魅力でヨーロッパの現代のカトリックインテリ、聖職者を引き寄せようとしている。その媚薬の毒素は何処に潜んでいるのか。それを解き明かすには、遠藤が捨てた聖書を再び取り上げる必要があるだろう。

新約聖書の中に現れる最初の殉教者は事実上ナザレのイエスその人だった。彼は十字架の上で壮絶な最後を遂げる前に「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と大声で叫んだと書かれている(マタイ27章46節)。これが遠藤の「沈黙」という題の本来の典拠だろう。イエスの天の父なる神が、イエスの殉教の場面で沈黙を通されたのであれば、彼の後の続いた殉教者の場合にも一貫して沈黙されるはずではないか。

だとすれば、踏み絵を前にしたロドリゴに「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるためにこの世に生まれ、お前たちの痛さを分かつために十字架を背負ったのだ」という言葉は誰の口から出たものか。聖書的には神の口からではあり得ない。前にも言ったが、それは神の口に嘘を語らせるもの、偽りの父、堕落した天使以外に考えられない。つまり、身も蓋もない言い方をすれば「悪魔」の囁きだ。

「サイレンス」では転ぶのは人間の弱さの結果で、神は、その弱さに同情すると描かれる。聖書ではどうか。イエスは受難の前夜、今夜、あなたがたは私につまずく。と言われると、ペトロが「たとえ、みんながあなたにつまずいても、私は決してつまずきません」と言った。(マタイ26章31節以下)また、「たとえご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」とも言った。それに対して、イエスは「あなたは今夜、鶏が鳴く前に三度私を知らないというだろう」と予言した。(マタイ26節31節以下)その夜、ペトロは公衆の面前で、呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ鶏が鳴いた。そして外に出て激しく泣いた。(マタイ26章74-75節)

相前後して、12使徒の一人ユダはイエスをユダヤ教の祭司長や長老たちに密告して銀貨30枚で売り渡した。すぐに後悔したが祭司たちに取り合ってもらえず、絶望して首を括って死んだ。イタリアのアッシジには聖フランシスコの大聖堂がある。三層の聖堂の二層目の壁の目立たない薄暗がりに、ユダの首を吊った場面がフレスコ画として残っている。よく見ると腹が割け、腸があふれて垂れ下がっている。思わず目をそむけたくなるような何とも陰惨な絵だ。

ペトロの裏切りとユダの裏切りとどちらが大きいかを論ずるのはあまり意味がない。ただ、ペトロは後悔し赦されて、後に教会の頭となり最後は立派に殉教を遂げた。ユダは絶望して自殺して、弟子の仲間に戻ることはなかった。「サイレンス」の吉次郎は、何度も転び、何度も懺悔し、かといって最後まで殉教はしなかった。「沈黙」は実に中途半端な人間として彼を描いている。それに対して、井上筑後守や、フェレイラや、ロドリゴは心弱くもころんだ事実をイエスに対する裏切りとして認めることをプライドが許さず、踏み絵のキリストが「踏むがよい」と言ってくれたから、と自分に言い聞かせて正当化し、神の憐みと赦しを求めることを拒み、ユダのように自殺するならまだしも、確信犯として迫害者の手先となって、信者が殉教の道に進むのを妨げ、彼らを自分と同じように転ばせるために執念を燃やすという、まさに最悪の道を選んだ。

迫害の時代、多くの人が殉教の血を流したが、その一方で、実に多くの人が転んで教えを捨てただろう。転んだ人に神の憐みの手が及ばなかったと断言する権利は誰にもない。神の憐みは限りがないからだ。ただ、殉教は無駄死にで、転ぶことこそ神の勧めであったかのごとき「沈黙」や「サイレンス」の描き方は、悪魔的なすり替えであることがはっきり理解されれば十分だと私は思う。

キリストの十字架の場面では―イエスは神の力を帯びたメシアではないかという期待感を背景としての話だが―「そこを通りかかった人々は、イエスをののしって言った。『神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ』。同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、イエスを侮辱して言った。『他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう』。一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった」(マルコ15章29-32節)とある。

イエスのメシアとしての使命は、悪魔の声に耳を傾けて、「不従順」によって命の与え主である神から離れ、その結果死を招き寄せてしまった人祖の罪を、ご自分の父なる神のみ旨に対する十字架上の死に至るまでの「従順」によって贖い、死を打倒して私たちに復活の命を取り戻して下さることだった。そのイエスの贖罪の業がまさに成し遂げられようとしている瞬間を狙って、「それをやめるなら信じてやろう」というのは、これもまた悪魔の嘘の囁き以外の何物でもない。

遠藤の「沈黙」もスコセッシの「サイレンス」も、人間の心理の微妙な揺らぎに付け込んで、聖書の中の悪魔の嘘の囁きを、あたかも真理の新しい解釈であるかのごとくに描き出している。どれだけ多くの人が、インカルチュレーションのまやかしのイデオロギーに惑わされたことか。「沈黙」は日本の教会を骨抜きにすることに成功した。いま「サイレンス」がキリスト教的ヨーロッパを同じ道に導こうとしているのではないかと恐れる。

映画の中では、井上筑後守は一見温厚な好々爺のように描かれているが、その魂には冷たい反キリストの炎が燃えている。インタビューに応じるスコセッシの監督も、小さな柔和な叔父さんのように見受けられるが、「サイレンス」を描く姿勢には確信犯の明確な意思が秘められているように思えてならない。

(つづく)

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6 コメント

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Unknown (名無し)
2017-04-26 05:45:58
海軍が乗り込んできて逮捕されれば「踏み絵」を踏めと言われたでしょう。中には転んだ人もいたでしょう。
小林多喜二の『蟹工船』、あの結末の後に、遠藤氏的結末を付け加えたら。そんな風に思いますね。
遠藤氏に何か意図があったのは間違いない。

隠れキリシタンが生き延びたのは踏んだからでしょう。
なぜそれがキリストだと思ったのか。異教徒がねつ造した踏み絵なんて踏んでよかったのではないか。実はそう思っています。
全然キリスト教徒が引っ掛からなければ拷問したかもしれないから、そうなると元の話に戻りますから、無意味な意見かも知れませんが。

神父は土着化と言われておられるのですが、江戸時代に土着化したキリスト教は存在しなかったように思います。隠れキリシタンが土着

した者たちということなのでしょうか。だとすると、私には違和感が相当に強くあります。

正しく生きていくのはなかなか難しい。一部の恵まれた環境にいる人は違うのかも知れないが、やりくり算段してやっと生きていける。そういう「悪人」が多い。そういう「悪人」たちを切り捨ててしまうのならカトリック教会は先が短いと思う。

レジスタンスとして頑張った人もいる。しかし、ヨーロッパ大陸は第二次大戦中ナチズム・ファシズムが支配していた。ほとんどみんなが踏み絵を踏んでいた。圧倒的な体制と対峙するのにキリスト教徒はどうしたらいいのか。教科書は無いだろうけど示せるのだろうか。教会中枢が先頭に立てるのだろうか。
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Unknown (kei)
2017-04-26 06:27:33
谷口神父さま

 ご無礼をお許しくださいませ。

 私は学生時代に、毎日がロックコンサートのような、賑やかと言うよりヤカマシイほどのプロテスタント教派で洗礼を受けました。純粋な信仰心からではなく、「イエスを信じて洗礼を受ければ病気が治る」という誘い文句に惹かれたのです。
 その頃の私は、生まれつきのDNA異常による難病で、痛み苦しみに苛まれておりました。数十年経ったいまでも通院中ですが、まだ治療方法は確立されておりません。

 私は癒やしを求め、何度も何度も祈り訴えました。しかし、神は黙ったままでした。牧師さんに質問しても、第2コリント12章9節などではぐらかされるばかり。それでも食い下がっているうちに、ヨブ記を読まされ、詩篇51篇17節の意味を無理矢理言わされ、悪魔払いもどきを二回もされてしまいました。そうした傷が契機となり、私は、「沈黙」でいうところの「ころび」信者になってしまったのです。

 主治医に「どうすれば治るのでしょう」と尋ねると、「遺伝子治療が進めばなんとかなるとは思う。でも、日本の遺伝子治療は欧米に比べて数十年遅れている」とのこと。「他の分野では最先端を走っている日本なのに、どうしてですか?」と再び尋ねると、「日本人は『神の領域を侵すことは人間の倫理に反することだ』と思う民族だからね」と仰る。

 これには驚きました。キリスト教国である欧米の医師が、自分たちの民族性を称して言うのなら頷けますが、これが真逆なのですから。

 フェレイラがロドリゴと議論する場面がありますね。フェレイラは「日本には絶対にキリスト教は根付かない。いや、根を下ろした途端に腐っていく」と主張します。
 遠藤さんは、その理由を、それが西洋の思想(遠藤さんはあえて思想と表現なさいます)だからと仰っています。カトリックについてはよく解りませんが、プロテスタントについていえば、キリスト教が腐っていく原因は、韓半島発メガチャーチの影響を多大に受けているせいもあるでしょう。私が洗礼を受けた教会もそうでした。彼の地のキリスト教にはイエスの唱える「愛」や「赦し」など微塵もありません。日本や日本人への厄災は全て神罰なのです。イエスがなんと言おうと、彼らの神学は、文字通りの「目には目を」、千年経っても日本人は赦されないのです。まあ、武装した軍隊を(支配目的で)他国に送り込んだ時点でなんの言い訳もできないのは当然ですが。
 カトリックもプロテスタントも、民族や人種、国によってイエスの姿や言葉がコロコロと変えられてしまう。遠藤さんの作品はほとんど読んでいますが(時代小説以外には、「深い河」をはじめ、碌な作品がありませんね。評価できるのは「海と毒薬」くらいでしょうか)、あのお方の根底には、そこの部分に対しての激しい憤りがあり、また、そんなことで揺らぎを覚える自分自身への不信、自虐の念が絶えなかった。裏を返せば、日本にキリスト教が根付き、すくすくと成長していく可能性も大いにあり得る、と仰りたかったのではないでしょうか。
 司祭も信徒も高齢化していくカトリック(と、谷口神父様はどこかで書いておられませんでしたでしょうか)。拝金主義で御利益第一、牧師=神の代理者と唱え、逆らうことを決して許さないメガチャーチ化、セル化、カルト化していくプロテスタント。「どうすれば日本にキリスト教が根付き成長していくのか」。フェレイラやロドリゴの、そして遠藤周作の問いにはまだ誰も答えていないように思われます。

 アビラのテレジア、マザー・テレサ(テレジアもテレサも『テレサ』ですからややこしいので、あえて分けて書きますが)、そしてシモーヌ・ヴェイユ。こういったひとたちは、「見神」「聴神」「触神」のような体験をしながら(テレジアの言う第3・第4状態)、結局は底なしの闇に陥ってしまう。まるで隠れキリシタンたちに与えられる拷問のようです。それでもテレジアやテレサは最期まで所期の願いを成し遂げる。転ばない。対して、ヴェイユは、飢え死にしているひとたちさえ数知れずの状況下で、病気とはいえ、自分だけ食物を、それも高価な栄養食を摂る訳にはいかないと、結局は餓死のような死に方をします。テレジアやテレサが聖人と呼ばれたのに反して、カトリックのかたくなさに失望して洗礼さえ拒んだヴェイユは精神異常者扱いです。イエスは誰をよろこび、誰を拒んだのでしょう。

 作家は、子供の頃から聖書以上に先人たちの小説や詩を読んで育ちます。そして、その中から、自分の中にすとんと落ちたこと、どうしても引っかかってしまうことなどをなんとか表現したいと思い、願い作家になっていきます。遠藤さんの場合は、グレアム・グリーンやモーリヤックや、ジュリアン・グリーンやジッドでした。
 彼らの作品のなかで引っかかったのは、人間と神との「三角関係」であり、ジュリアン・グリーンやジッドにみる「同性愛」でした。私の遺伝子異常もLGBTも人間の側の責任ではありません。創造主である神の側の責任です。それをイエスは肉声でもって「そのひとのせいでもなく、両親の罪のせいでもない。ただ、神の業が現れるためである」とはっきり語っているのです。
 ヨブを一方的に服従させてしまう神、ソドムやゴモラを一方的に滅ぼしてしまう旧約の神。遠藤さんの中には、責任を果たさないのに不条理な力だけを誇示する旧約の神と、あまりにも弱々しい、なんの力もない、「愛」しか言わなかった新約の神イエスとの整合性に、どうしても折り合いが付かなかったのでしょう。だからあの突飛もない「沈黙しない」イエスを書かざるを得なかった。

 イエスは人間の苦悩全てを体験し、理解なさっていた。それは、宣教開始前の荒野での描写で理解できます。しかし、ジュリアン・グリーンが神父に食い下がったように、「肉欲の苦悩」をイエスが理解していたかははなはだ疑問です。特に、グリーンが問いたかった「同性愛」という苦悩。現教皇の理解度に比べ、プロテスタントのアレルギーは相当なものがあります。
 カトリックが妥協してプロテスタントが正しいのでしょうか? このひとつをとってみても、説明できる「人間」はいないと思うのです。ヘンリー・ヴァン・ダイクの原作で、トム・フォンタナが脚本を手がけた「四人目の賢者」という映画があります。あの中でも死に瀕しているアルタバンに向かってイエスが語りますよね。「沈黙」の中で語るイエスと「四人目の賢者」で語るイエスにはほとんど共通点がないように思えるのはなぜでしょうか。

 きっと、同じイエスの声でも、アルタバンが血を吐くようにして虐げられられてきたひとびとのためだけに生き、そして最期に聴いた声と、確かに虐げられてはいたが、自分が生きるためだけに自分の幸福のためだけにデウスの教えを信じ、ハライソのだけのために死のうとする人々を横目で見ながらそれでも今生に留まろうとする「ころび」たちに聴かせた遠藤さんのイエスの声とは、本質的に「違う」ということなのでしょう。ベルナノスの「田舎司祭」の「死」とイエスの十字架の「死」とを、そして両者の生き様を遠藤さんは「同じ」だと思っておられたようですし、映像に起こしたベルッソンのことも高く評価しておられました。はたして、スコセッシの「沈黙」を遠藤さんが生きてご覧になったら、なんと仰るのでしょう。

 谷口神父さまのお考えをずっと拝読してきましたが、やはり、私にはよく分かりません。「いや、理性や感情と信仰は全く別だから」と、結局のところはそこらあたりに落ち着くのでしょうか。イエスさまがニコデモに呆れ、トマスに苦笑? なさったように、遠藤さんも私も、そして世界のほとんどの人間が、神もイエスも理解できないまま終わっていくのかもしれません。

 最近、心身の状態が思わしくなく、谷口神父さまのお考えを最後まで読めそうにないので、中途半端な形で私の思いを綴らせて頂きました。ホントにごめなさい。
 御身大切に、お元気でお過ごしくださいね。
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(kei) さんへ (谷口幸紀)
2017-04-27 04:51:49
(kei) さま

コメント拝見しました。
洗礼をお受けになった動機についてのお話、生まれつきのDNA異常による難病と痛み苦しみのこと、胸に刺さりました。数十年経ったいまでもまだ治療方法は確立されていないというのは大変な十字架ですね。

遺伝子治療のおくれについて、「日本人は『神の領域を侵すことは人間の倫理に反することだ』と思う民族だからね」という主治医の先生の言葉は理解できません。生きている神を信じていない日本人に、その神を畏れる心があるはも思えませんから。

日本人が恐れているのは、お金が無くなること、お金の神様に見放されること、恥をかくこと、隠していた悪、罪、が明るみに出て、社会的に糾弾されることでしょう。ばれなければなんでもあり、人にばれない、制裁を受けないとしても、神様はお見通しという良心に従って生きる人の少ない社会かと思います。

フェレイラの「日本には絶対にキリスト教は根付かない。いや、根を下ろした途端に腐っていく」という主張を裏付ける事実はありません。西洋の思想と東洋の思想などという単純な対比は極めて浅薄な文化論で、創造主なる神様の視点から言えば本質的、根源的なものではありません。神様は全宇宙と全人類をご自分の愛で無から創造された。その救いと福音は、全人類とすべての文化に対して平等に有効です。

プロテスタント系のメガチャーチの操作に心を支配されるのは不健康です。イエスの唱える「愛」や「赦し」の無いところにキリスト教の救いも希望もありません。

拝金主義、御利益第一主義は愛である神に敵対する闇の力です。日本にキリスト教が根付き成長していく展望を切り開かなければなりません。フェレイラやロドリゴの、そして遠藤周作の思考回路から答えは生まれません。

 アビラのテレジア、シモーヌ・ヴェイユについては、あなたの方がわたしより深く読み込まれているかもしれないので、コメントを控えますが、カトリックのかたくなさに失望して洗礼さえ拒んだヴェイユを精神異常者扱いにした教会の姿は、神様の前に正しいとは言えません。イエスの十字架の救いと復活の希望は、その時代の教会の狭量さ、罪、によって失われるものではないと思います。
グレアム・グリーンやモーリヤックや、ジュリアン・グリーンやジッドなどの個々の作家については、ほとんど読んでいない文学音痴の私のコメントできる分野ではありませんが、「同性愛」、LGBT(性的マイノリティー:レスビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー)も、あなたの遺伝子異常も人間の側の責任ではなく、創造主である神の側の責任ではないか、という意見に同情を禁じ得ません。イエスの「そのひとのせいでもなく、両親の罪のせいでもない。ただ、神の業が現れるためである」という言葉に理解のヒントがありそうですね。
その後の、(kei)さんの文学論には同じ作品を読んでいない私は、ただ、拝聴するにとどめます。

「谷口神父さまのお考えをずっと拝読してきましたが、やはり、私にはよく分かりません。遠藤さんも私も、そして世界のほとんどの人間が、神もイエスも理解できないまま終わっていくのかもしれません。」という結論に私は同意しません。イエスも神も健全な魂にとって理解不能なものでは決してないと信じます。幼子でも直感できるものです。

「最近、心身の状態が思わしくなく、谷口神父さまのお考えを最後まで読めそうにないので、中途半端な形で私の思いを綴らせて頂きました。」という言葉は私を不安にします。そんなに差し迫って悪いご容態ですか?
どうかお大事に、そして、対話を続けましょう。神様が支えて下さいますように。お祈りいたします。
谷口拝
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なぜ拝むのか。 (名無し)
2017-04-27 11:08:40
神が全知全能で「在りて在るもの」なら、人間の側の宗教が亡びれも、「在りてあるもの」である神は存在し続けるだろう。何も心配いらない。現にニーチェやバタイユが死んだとした神は拝まれる神だったのだから。
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日本人の宗教 (中井久夫)
2017-04-27 12:09:38
日本人が西欧よりはやく脱宗教化したという歴史的事実は、医学史から学んだ。「医は仁術なり」という宣言は「宗教者でなく儒教的教養を身につけた医師が医療に当たれ」という意味で、神主、僧侶の医療行為が同時に禁止されている。1990年代になって宗教と民族をめぐる抗争が激しくなった。民族と信仰とが重なるととくによくない。我が国は、隣家に信仰や民族を(ふつう)問題にしないところがよい。もっとも島国で、民族移動の波をかぶっていない(らしい)からでもあるが。
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Unknown 様へ (谷口幸紀)
2017-04-28 07:31:54
冷静にお話しましょう。

谷口神父は日本にキリスト教が根付かないことに苛立ちを覚えているのかもしれないが : 苛立ってはいません。遠藤流のキリスト教理解では、当然の結果だからです。しかし、着実に根付いている印と希望があります。私はそれを確信しています。それについて「サイレンス」シリーズ(その-7)で書きます。乞うご期待!

私が聖書を読んだり、サイエンスの本を読んだりして、素朴に創造神話を信じろと言われてもあれはお話しですからということになる : 私は大学院時代に世界中の創世神話を比較研究したことがあります。旧約聖書が描く創世神話は健全で明晰な予断と偏見の無い頭脳には信じるに足る内容だと言い切れます。

谷口神父は進化論は論じてないようだが、今の日本の小学生でさえ人類の起源はアフリカのイブだと教えられる : 確かにサイレンスとの関連では論じていませんが、私は円満にDNA解析が到達したイブを信じていますよ。(残念ながらアダムは見つかる希望が無いようですが・・・)

ちなみにアメリカには恐竜の存在を認めないキリスト教徒がいるという : 多分カトリックではないですね、その人たちは。

復活って本当にあるんですか?復活は、蘇生とは違うと教えられる : キリストの復活はありましたね。それをキリスト教徒は皆信じているはずです。信じていなければキリスト者ではありません。もちろん復活は蘇生ではありません。蘇生は死後に肉体が不可逆的に破壊される前にこの世の命に帰ってくることですが、復活は腐敗などで肉体が一旦不可逆的に破壊された後に、この世にではなくあの世に肉体を持って蘇えることです。蘇生ではなく復活と言われる所以です。 

最後の審判はいつくるんですか? : 聖書によれば、それは天の御父ただお一人がご存じで、その秘密は我々には明かされません。

天使というのも聖書に出てくる。天使って本当に存在するんですか?それを見た人は聖書の他にいるんですか? : 確かに存在しますね。私は何度か見たとブログに書きました。

いまサイエンスの発達で他の惑星にも生命体が存在しうると報じられている : 存在しうると言えばしうるかもしれませんね。まだ発見されていないだけかも。しかし、期待値としては、理性と自由意思を備えた宇宙人はいないと私は思っています。居たらその時に考えたらいい。

しかもカトリックの聖職者がカトリックの教えを守っていないようなことがマスコミで報じられる : マスコミは自由にいろいろ書きますからね・・・だからどうなんですか?

こうした情況の中でカトリックの聖職者たちはこうした疑問に答えない : この言葉にカチンときて、私はこうして答えているのですが・・・

金の神様というのも谷口神父の論に出てくる。しかし、私はこの格差社会でギリギリの生活をしていて金は欲しい : 金が欲しいのはあなただけではありません。私も欲しい。貧乏人も欲しがるだろうが、実は金持ちがもっと欲しがっている。

要するにサイエンスの発達とともにカトリックの教えで説明できないことが出てくるようです : そんなことはありませんよ。ただし、カトリックの教えは科学の教えではなく、信仰の世界の問題です。

あとキリスト教の奇跡というのも解りません : それはそうでしょう。それは信仰を前提としたものですから。信仰の無い人に奇跡はもともと意味がない。

妄語には妄語にて多謝。
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