:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ WYD-⑥ 文豪 レフ・トルストイ

2013-12-20 20:57:11 | ★ WYD 世界青年大会

~~~~~~~~~~~~~~~

WYD-⑥ 文豪 レフ・トルストイ

~~~~~~~~~~~~~~~

 WYDの報告もようやく終わりに近づいた(後一回で終わるだろう)

ここでトルストイ作 「二老人」 と言う短編の要約を記そう。

それは私の一冊目の本「バンカー、そして神父」

http://books.rakuten.co.jp/rb/4122150/

の終わりの章の導入に用いた文章をさらに短くしたものだ。

それが WYD と何の関係があるかは、後を読めばすぐ明らかになる。

レフ・トルストイ

 ロシアの田舎の二人の老人が、エルサレムへの巡礼を思い立った。一人は金持ちでイェフィームといい、もうひとりはイェリセイという並みの出の男だった。

 二人の老人は、5週間歩き通し、やがて、凶作地帯に差し掛かった。途中、喉の渇いたイェリセイは、遠くに見える農家に水をもらいに行った。すぐ追いつくからという友達の声に、イェフィームは休まず歩き続けた。

 小屋に入ってみると、そこには飢え、病んで死にしそうな女と、男と、老婆と、3人の子供たちが倒れていた。イェリセイは持っていたパンを分け与え、井戸に水を汲みにいき、皆に飲ませた。買い物をし、暖炉に火を入れ、お粥を食べさせた。日が暮れかけたので、その日のうちに仲間に追いつくことをあきらめて、そこで一夜を明かした。

 翌朝からイェリセイは働き始めた。百姓道具も、着るものも、みんな食い物にかえてしまっていた彼らのために、全部新しく買い揃えた。四日目には出発するつもりだったが、また問題が起きた。

 旅は続けたいが、このまま見捨ててもいけない。「よし、もう少しここに残ろう。そうしないで、はるばる海を越えてキリスト様をさがしに出かけても、自分の心の中のキリスト様を見失ってしまうことになる。」 と決心して、イェリセイは眠りに付いた。

 一日がかりで全てを整え、翌朝、みんなが寝静まっているうちに、イェフィームのあとを追って旅にのぼった。明るくなると、あらためての残りの金を数えてみた。とても海を越えて旅が出来る額でないことがわかった。しかたなく例の村を迂回して、家路についた。

 喜んで迎えた家のものには、ほんとのわけを話さなかった。「なあに神様のお導きがなかったのよ」とだけ言った。

留守家族は円満に栄えていた。

 一方、イェフィームは、イェリセイが病人たちのところに泊まる事にした日、少し歩いてから腰を下ろして、そのうち寝てしまった。やがて、目を覚まし、なお日が暮れるまで待ったが、イェリセイはやってこなかった。ひょっとすると、寝ている自分に気がつかず、もう通り過ぎてしまったのではないかと思って先へ進んだ。今夜の宿で落ち合えるかと思ったが、出会えなかった。イェフィームは、仕方なくそのまま旅を続けた。

 エルサレムに着いて、巡礼の目的地、キリストの聖墳墓教会に参った。ミサが捧げられているその場所には、群衆がひしめき合って、身動きが出来なかった。

 主のお墓の礼拝堂を見つめていると、なんと不思議なことだろう!みんなのいちばん前に、貧相な身なりの小柄な年寄りが立っていた。その年寄りが振り向いた。それは紛れもなくイェリセイその人だった。しかし、どうしてそこにいるのか、不思議だった。

 ミサが終わって群衆が動き出すと、イェリセイを絶えず目で追ったが、とうとう見失ってしまった。

なお6週間かけて、キリストゆかりのあらゆる聖地をくまなく巡り歩いて、イェフィームは家路に就いた。

留守家族は様々な不和といさかいで崩壊していた。

 

私たちの巡礼はイェリセイ爺さんの聖地巡礼にどこか似ている。

 イェフィームのように金持ちでない我々は、大手の旅行代理店に言い値の大金を払って無難な旅を計画しなかったかもしれない。しかし、現地の知人を信頼して安いオファーのバス会社に決めたことが、この惨憺たる結果につながったとしても、誰の落ち度でもない。そのことを70匹の素直で大人しい羊たちは本能的に知っているのだ。彼らにとって、巡礼が当初のスケジュール通りに運ぶかどうかはさほど重要ではない。彼らにとっては、この旅を通して神様が自分の進路の選択について何を語ってくださるか、こそが大切だった。

 金持ちのイェフィームの場合は違った。彼にとって聖地の聖墳墓教会に辿りつくことが最優先の課題だった。だから、その目的の障害になるものは道々全て切り捨てて進んだ。連絡が取れなくなったイェリセイ爺さんを探すために時間を失うことも論外だった。聖地では有名な巡礼スポットをきっちりカバーして、達成感に満ち足りて帰路に着いたに違いない。しかし、家で彼を待っていたものは?

 WYD の参加についても、飛行機で移動し、快適なホテルに泊まり、リオでの公式行事に参加し、教皇の野外ミサには上席で与かり、主な観光地をゆっくり巡り、ブラジルの土産をどっさり買い込み、無事に帰国できれば大成功。その上、参加者を募るチラシにあった助成金までもらえたとあっては、いいことずくめの格安海外旅行と言うことだろう。

 我々イェリセイ組は、神様が次々に差し向けて下さる想定外のハプニングや試練を、信仰をもって受け止め、予定の変更やスケジュールの遅れの不都合にもしなやかに対処し、心から満足していた。彼らが体験した無数のエピソードの中から2-3の例を紹介しよう。

 4000ドル事件で、あらかじめ組まれていた予定が全部狂った以上、あとは手探りで前に進むほかはなかっただろう。各所で態勢を立て直すのに手間取り、理由が明かされないままの待ち時間も長くなる。そんなとき一同は何かしら有意義なことを探して時を埋めていく。

突然コーラスが聞こえ始めた。日本を発つ前に、資金稼ぎを兼ねたコンサートツアーで歌いこんできたから、息はピッタリ合って、ハーモニーにも磨きがかかってきた。

 仲間を引き取ってくれるホームステイ先の家族が集まった時など、聴き手がいると見るや、さっと集まって歌うのだが、はてな?今ごろ誰に向かって歌っているのだろうか?

 かき分けて前に出たが誰もいない。 ???と思ったが、良く見ると、いや、居た、居た!彼らの前にショボクレたオジサンが一人、可愛い顔をしてチョコンと椅子に座らされていた。


 

王様のように玉座に座ってコーラスを聴くオジサン。  楽しく明るく歌いかける若者たち

 どうやら、この可哀想なおじさんが、希望のない不幸な顔をして地べたに坐って物乞いをしているのを見つけて、少しのお金をあげて、「神様はいるよ!神様はあなたを愛しているよ!」 と囁きかけ、元気づけるために王様のように手近な椅子に座らせて、彼を囲んでコーラスを聞かせてやっているらしかった。カメラを向けると、嬉しそうにこちらを向いた。ここしばらく、彼が笑ったことがあっただろうか。今日の彼は、嬉しくて泣いていた。

 行きずりの我々が彼のために歌ったからと言って、明日からの生活が急に安定する保証は何もない。それでも、何もしてあげられないから、せめて歌を聴かせたいのだ。

 私は、この日の出来事が、もしかしたら彼の人生にとってただ一度の、神さまと人から注目され、大切にされ、愛された、生涯忘れられない特別な思い出として残ることを知っている。

ついでにこんなエピソードも付け加えよう。

 深夜の運転手逮捕事件で生じた決定的な時間の損失を取り戻そうにも、私たちは飛行機に乗り換えることも出来ず、近道もなかった。動かせないWYDの教皇ミサに追いつくためには、有意義な交流や祭儀の予定も、必要な休息さえも殆ど犠牲にして、ただひたすら予定のコースをバスで走り続ける他に方法はなかった。

 そんな追い詰められた状況の中でも、リーダーの若い神父たちが省かなかった予定が一つあった。それは、名もない小さなカルメル会の女子修道院の訪問だった。それはいわゆる観想修道会のひとつで、一旦入ったら、世間と隔絶した塀の中の閉じられた空間で、祈りと犠牲と労働にすべてを捧げ、生涯をそこで終える厳しい修行の場だ。

 ここに私たちと同じ新求道共同体の精神を生きる姉妹が入っている。彼女を訪れ、入る前の彼女の歴史と、入ってからの今の生活の体験をきいて、私たちの半数以上を占める若い姉妹たちの今後の進路選択の参考にしようと言う試みだ。

 彼女は青春を謳歌する多感な普通の少女から、キリストの愛に触れられてこの生活を選び、いま「キリストの花嫁」として生きることがどんなに幸せなものであるかを淡々と語った。


彼女の笑顔に曇りはない


  

左の彼女はまだ体験入会1週間目。右の写真には我々の一行の中でただ一人洗礼をまだ受けてない青年がいた。シスターたちは格子から手を差し伸べ、彼の心に信仰が育ち洗礼に至ることを日々祈ると約束した。


 まだ付き合う相手に巡り合っていない女の子も、彼氏と一緒にこの巡礼に参加した子も、一様に真剣にその告白に聞き入った。愛している彼女が自分を棄てて、修道院に入ると言い出したらどうしようと、一瞬不安になった彼氏もいたかもしれない。今もって彼氏に巡り合えない自分は、ひょっとしてこういう生活に召されているということか、と考える子もいるかもしれない。彼氏が自分を棄てて、突然神父になる、宣教師になると言い出しはしまいかと言う恐れを内心抱きながらこの巡礼に参加している子もいないとは限らない。

 実は、この巡礼の旅は彼らの多くにとって、単なる海外旅行、あるいはWYDと言うイベント参加の旅ではなく、生涯の進路を識別する真剣な道行きなのだ。

 今付き合っている彼女は、彼氏は、本当に生涯の伴侶になるべき相手か、神様はわたしを神父に、修道女に、呼んでいるのではないだろうか、まだ相手にめぐり会っていないが、結婚に召されているならどうか相応し相手を与えて下さい、とか、様々な祈りが心を駆け巡っている。

 日長一日バスに乗り続ける移動の間どうするか?ただ漫然と単調な景色を眺め、居眠りをし、隣の席とお喋りをするだけではない。一緒に「教会の祈り」(昔、神父がラテン語で唱えていた「聖務日祷」)に沿って、朝、昼、晩の祈りをする。黙想をする。歌を歌う。ロザリオの祈りを唱える。一人一人、順番に前のマイクのところにやってきて、あらためて自己紹介をする。自分の信仰の遍歴を分かち合う。聖書をランダムに開いて、出てきた聖句について、自分のインスピレーションに従って短い感想を述べる。神父がそれをフォローする。等々。結構バラエティーに富んだメニューで時間が埋まっていく。

 トルストイの話に戻る。私の理解では、この短編はトルストイ自身の聖地巡礼体験に基づいて書かれたものではないかと思う。そして、二人の老人は、実はトルストイの心の中にある二つの面を分けて人格化したものだろう。トルストイ自身は金持ちの地主だが、彼の心の中にはイェリセイ的な信仰と愛がある。しかし、結果的にはイェフィームとしての自分が勝ち、巡礼を完結して帰途に就いた。イェリセイになり切って旅を途中で放棄できない自分があった。彼の晩年は崩壊した家庭生活を抜け出して旅に出て、孤独な死で終っている。

 この70人の若者たちの多くは、決してトルストイのような金持ち、成功者、になることはないだろう。しかし、彼らはトルストイの心の半分であるイェリセイ爺さんの生き方を実践することは出来るだろうとわたしには思われる。

(つづく)

コメント (3)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ★ WYD-⑤ 大アクシデント... | トップ | ★ 〔2013年〕 クリスマスイ... »
最新の画像もっと見る

3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
オウム世代 (IK)
2013-12-22 01:27:03
私は50代ですが、日本では神とか宗教というと敬遠されます。オウム真理教のテロ事件の記憶がまだ残っているのです。
返信する
神父様の「バンカーそして神父」読みました。 (SN)
2013-12-22 01:55:35
私も家族に障害者を持つものです。日本の障害者の問題は政府はいろいろ障害者の施設を作りますが、そこの職員の人材不足です。日本も高齢化してきて認知症の老人が増えています。介護疲れで自殺する人も多いです。
返信する
ロシア正教 (OM)
2013-12-22 02:12:33
日本でもロシア正教の精髄を書いたフィロカリアが全巻翻訳されました。私も少し読みましたが、透明感がすごいです。私も心臓の祈りは知っていましたが、日本人のような東洋人にはロシア正教の方があっていると思いました。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

★ WYD 世界青年大会」カテゴリの最新記事