:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 急速にプロテスタント化するカトリック教会(その-4)

2013-01-17 12:45:44 | ★ 神学的省察

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急速にプロテスタント化するカトリック教会 (その-4)

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 このテーマ

 今回限りで何とかお茶を濁そうという気に 一度はなったのですが

(その-1) に次いで (その-3) のアクセス数が 予想外に伸びたこともあって

このままでは何だか無責任な気がしてきて また敢えて深みに嵌ろうとしています

先ず 経過を振り返ります

   

ねェ この写真賞味期限切れてません? つまり実物はもっと老けてませんか?

その通り 看板にに偽りありです!(影の声)


公園の鳥-1


 この一連のブログのテーマの(その-1)では、司祭不足から、カトリックの礼拝が司祭抜きの―したがって「秘跡」抜きの―「聖書中心」の礼拝に傾いたことを書きました。それはまさに文字通りカトリックのプロテスタント化の典型でした。

 (その-2)では、司祭が独身であることは、キリストとその弟子たちの時代にも、初代教会の中にも、その決定的な根拠はなく、東西のキリスト教の伝統の中では西側だけに芽生え発達したもので、それも11世紀ごろに人為的に導入され、特に厳格に行われるようになったのはプロテスタント教会の改革の反動として高々この400年余りのことに過ぎないことを書きました。

 しかし、カトリック教会は半世紀前に第2バチカン公会議の大改革を行った際に、司祭の独身制を廃してプロテスタント化することはなかったとも書いたため、私の論旨は歯切れが悪く混乱しているような印象を与えたかもしれません。

 (その-3)では、「義清さん」の思い出を書きました。

 私個人としては、若い学生の頃から司祭職に対する召命を感じ、一旦はイエズス会の修練院まで行ったこともありましたが、教会の歴史を知れば知るほどカトリック教会の絶対的な司祭独身制度に疑問を抱いたことがありました。しかし、神様の不思議な導きで司祭にして頂いて10数年が経過した今、自分自身の体験を通して司祭独身制の希少な価値を再発見しつつあります。

 そして、今日カトリックの自称進歩派(左派)の中に司祭の独身制の廃止論者が(高位聖職者を含めて)少なくない中で、教皇以下カトリック教会の本流が、今なお司祭の独身制を堅持しようとしていることに対して、共感と理解を持つのみならず、その妥当性に対して強い確信を抱くに至っています。


公園の鳥-2

 

 キリストが説き、弟子たちに種として残したものは、長い教会の歴史を通して芽生え、育ち、発展しながら、新しい実を結んでいくもののようです。たとえば、キリスト教の基本的教義でさえも、聖母マリアの教会の中における位置づけのように、初代教会からその芽はあったとは言え、聖母マリアへの「信心」を棄てたプロテスタント教会の改革に対抗して開かれたトリエントの公会議の時でさえも、教会はまだ明確な教義化をためらっていて、1854年になってようやく「聖母マリアの無原罪の御宿り」を教義として確定した例がありました。

 教義でさえそうであるならば、初代教会に包括的に種子として与えられた「宣教の使命」が歴史の展開の中で自然に育ち、分化し、開花し、ようやく今日になって実を結ぶことがあっても不思議ではありません。

 種子として蒔かれた「宣教の使命」は、洗礼を受けた全てのキリスト者の使命でありながら、時代の流れの中でその内容は分化し、成長し、次第に特化していくのは自然なことではないでしょうか。社会と文化の発展に添って、宣教の使命も信徒の間で分業と協力によってより豊かに効果的になることも考えられます。

 冷静に考えると、プロテスタント改革の頃から、西側の教会では、宣教の第一線で全面展開する信徒(プロテスタント化)と、それを独身司祭にこそ委ねようとする動き(カトリックの反動的反応)への分化が明確になっていったのではなかったでしょうか。

 グレゴリアーナ大学のロサト教授はそれを人間の細胞に例えた話は、だいぶ以前に書いたブログ「ロサト教授は誤りを教えたか」の中で詳しく展開しましたので参照していただきたいと思いますが、短く要約すると、細胞膜の中の細胞質は中心の核を包んで護り栄養を与え、その代わりに核は細胞質に生命を与え、こうして支え合って有機体として生き続け、宣教の使命を果たしていくことができるという考え方です。

 世俗化し教会に対して敵対的となった社会の中では、「万人司祭」を掲げて信徒だけで宣教の使命に取り組もうとしても、命の情報を保持する独身司祭を失っては、生き抜けない厳しい状況が生まれています。現代の世俗化した社会の中では、プロテスタントの教会もカトリック同様に守勢に立ち、後退している事実がそれを物語っています。

 他方では、核に例えられる独身司祭が裸で孤独に宣教に打って出ても、細胞質に例えられる信徒の家族に包まれ、守られなければ、枯渇して死滅するほかはありませんでした。今カトリック教会が緩やかな自然死に向って突き進んでいるのはそのためです。

 宣教の使命は核のものか、細胞質のものか、プロテスタントか、カトリックか、とコップの中の嵐のような議論をいつまで続けていても、コップの外に飛び出して世俗化した社会に福音を宣べ伝えるために打って出る活力は生まれてこないというものです。

 

 そのような反省に立ってキリスト教の置かれている状況を見直すとき、何が浮かび上がり、どういう展望が開けてくるのでしょうか。次回はその点を明らかにして、今度こそこのテーマを締めくくりたいと思います。

(つづく)

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4 コメント

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Unknown (一信徒です。)
2017-02-22 11:18:52
はじめまして。興味深く拝見しました。
一人のちいさな、カトリック信者です。

一時期、イエス様のおっしゃることとはかけ離れた教会コミュニティーメンバーの頑なさ等にガッカリして、恥ずかしながらミサから遠ざかっていた時期があります。

現在、改めて共同体・ミサに参加させていただいておりますが、神父様が危惧されていらっしゃることが非常に理解できます。

カトリックもプロテスタントも、より良くしようと考えた方法が異なっただけであり、お互いの良いところを認め合い融合することが出来ればよいのでは、と僭越ながら考えております。
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プロテスタント教会の使命は終わったのか? (川島啓)
2015-03-31 21:09:17
改革長老派(もともと保守的主流派で今は福音派)の信徒です。

改革長老派は、「御言葉によって改革され続ける」教会を目指し、福音派の改革長老派の神学者フランシス・シェーファーに言わせると、「改革ということばは純粋な教理への回復のことを言います」と言うことなので、建前上は、例えば古代教父の時代の正統教理に回帰する事が、カルヴァン、ツゥイングリ、ノックス等の改革長老派教会の創始者および伝承者の方向性であったはずです。

3年前、改革派の総本山ともいえるスイスに3ヶ月ほど駐在したことがあります。スイスは改革派とカトリックが国教なのですが、悲しいかな私はドイツ語を解さないので、英語で礼拝が行われる英国国教会の教会に通っていました。

その教会の助祭に、「スイスの改革長老派(スイスの国教会)は自由主義化しているから、君がもしドイツ語が解ったとしても行かないほうが良いよ」と言われました。そういう英国国教会(聖公会)だって、保守派と自由主義派で真っ二つに分かれているような有様だし、プロテスタントのヨーロッパの国教会やアメリカの主流派プロテスタントも、保守派と自由主義派で分裂を深めています。

恐らく改革長老派で最も信徒の数が多い教派の一つであるPresbyterian Church (USA)では、同性愛者を牧師に任職する事と、同姓婚の結婚式の執行を行うことが最近認められました。保守的な教会はこれに反発し、PC(USA)を離脱し、新しい教派を立ち上げるという始末です。

ルター派やメソジストも同様でしょう。

ヨーロッパのプロテスタントの国教会も、同性愛者の牧師(司祭)への任職と同姓婚の執行を牧師(司祭)に認める事が主流になってきてしまっています。

日本の主流派プロテスタントの最大教派である日本基督教団(かつて私もこの教団の教会に所属していた)でも、保守派と自由主義派の対立は深刻で、この溝を埋めることは不可能でしょう。

国教会や主流派教会の自由主義化のアンチテーゼ(?)として生まれた福音派は、細かい教理の違いから分裂を繰り返し、ニカイア信条で謳われている「一つの教会」からは程遠く、一部は原理主義化したりカルト化してしまっています。ちなみに、私が現在福音派の教会に行っているのは、福音派の良き伝統である敬虔な気風が、不信仰で、「非の打ち所の無い」生活なんかからも程遠い私の様な者を、よりキリストに似た者と変えて下さると信じているからであって、福音派の神学の中心である聖書の言語霊感を100%信じているわけではありません。私自身は、聖書の高等批評はある程度認めるべきだと思っています。

私は、カトリック教会にはほとんど行った事が無いので、カトリック教会の神学は余り知らないのですが、例えば聖体論(聖餐論)でプロテスタントと一致できないと言うこと位はわかります。改革長老派の主要教理であるハイデルベルク信仰問答には、「ローマ教会のミサの聖体拝領は、キリストの贖罪死の一回性を否定する忌まわしき偶像崇拝」とまで書かれています。

そんな教理を持っていた改革長老教会でしたが、現在の自由主義化の中、特に日本の自由主義の教会で多く行われている問題で、キリスト教徒以外に聖餐を配餐してしまうと言う事があります。神学も信仰も何も有ったものではありません。

取り留めの無い話になってしまって恐縮ですが、確かに、宗教改革は、キリスト教史の中で、当時の腐敗したカトリック教会に対して、プロテスタント諸教会の働きによって、古代教父、さらに遡って言えばペトロやパウロの時代の初代教会から受け継がれてきた正統教理が守られてきた事は否定できないでしょう。カトリック教会にもある教理問答(カテキズム)は、プロテスタント教会のそれを取り入れたもので、プロテスタント教会の働きは、カトリック教会内の改革をも促しました。

再来年は、宗教改革から500周年を迎えます。しかし、「一つの教会」から大きく離れて分裂を繰り返し、正統教理を顧みる事をせず世俗の基準に屈服した主流派教会、また、「紙の教皇」である聖書の言語霊感を絶対化し、原理主義化したりカルト化したりする福音派教会の体たらくを見ると、プロテスタント教会の使命はもう終わったのかなとも思います。実際、主流派福音派を問わず、カトリックや正教会に改宗する人は結構多いです。私も、マリア崇敬や聖体論等のカトリック神学の一部を受け入れる事が難しく、現在は惰性で改革長老派の教会に通っていますが、将来的に、カトリックや正教会に改宗してしまうかもしれません。
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及川奈穂さんへ (谷口幸紀)
2015-03-25 19:45:51
及川さん
貴重なご意見ありがとうございました。
私は、今の時代はプロテスタントか、カトリックか、あれかこれかの時代ではもはやないような気がしています。
私に言わせれば、カトリックもプロテスタントも、コンスタンチン体制内の小異に過ぎない気がしています。
今求められている緊急課題は、カトリックもプロテスタントもいずれもコンスタンチン体制内のコップの中の議論から離脱して、コンスタンチン体制以前の教会に復帰すること(別の言葉で言えば、コンスタンチン体制と決別して、コンスタンチン体制後の時代を切り開くこと)だと思います。
聖ヨハネス23世以来、6代のローマ教皇は見事にコンスタンチン体制を脱ぎ捨て、それ以前の教会に復帰している(あるいはコンスタン体制後の時代を切り開いている)ように思われます。
そして、この新しい教会とそうでない教会の間の断絶は、同じコンスタンチン体制内に留まる限りのカトリックとプロテスタントの差異・断絶よりも大きく深刻です。
私は、カトリックかプロテスタントかのあれかこれかを超えたところで、コンスタンチン体制後の新しい教会を生きているつもりです。
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プロテスタント出身者からすれば、幼いカトリック (及川奈穂)
2015-03-25 07:46:37
こんにちは。

私は、仙台に住むカトリックに通う元プロテスタントの者です。

カトリックに通い始めて感じたのは、聖書が読まれてない、祈祷会もない、信徒の発言力もなく、聖書を読まないからみことばを知る筈がない。聖書を読まないから福音は福音書のみを指すと勘違いされている。


私は、プロテスタントから移って来てから何と20年経ちますが、全体的に聖書を読まないからみことばを行う事も難しいという現実を未だに見て、牧師を目指しています。

仙台は遅れているのかも知れません。

ミサではない時はプロテスタント形式の「礼拝」の方がスムーズになるのではないかと考えています。

神様は、司祭を減らす事により信徒の自立を目覚めさせられたのではないかと思う事があります。

神学とは、神を学びます。

神を学ぶのであり、カトリックを学ぶわけではありません。
中世の神学は私たちプロテスタント出身者からすれば大変幼すぎる感じです。

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