20代の中頃、インドを旅した。アムリッツァからデリーに向かっていた。列車内の4人掛けの椅子にほぼ全員が座って談笑していた。周りの人が、外国人の私に質問してきた。いろいろ話をしていて、「では、君の宗教な何か」と質問された。「私はどの宗教にも属していません。多くの日本の若者は神を信じていません」と答えた。その一言が発端となって隣近所のインド人どうしで議論が始まった。なぜ信じない、なぜ宗教がない、神を信じない、どうやって生きるのか、などあちこちで議論が活発となってきた。ふと列車内を見渡すと列車内全員が、この問題について話し合っていた。
後々知ることになるのだが、外国では、無宗教であることは、倫理感なく、道徳をしらずに生きている非人間的存在だということだ。それため、決して、私は神を信じない、などと言ってはいけないことを知った。
なぜ、私は宗教をしらないのか。それは、簡単で、宗教を習ったことがないからだ。道徳の時間はあったが、宗教の時間はなかった。仏教と言えば、お葬式。キリスト教と言えば、クリスマスかチャペルの結婚式。イスラム教は、豚肉を、ヒンズー教は牛肉を食べない。儒教は、朱子学として江戸時代に定着した。神様は、いろいろな願いを叶えてくれて、よき人は天国に、悪しき人は地獄に行く。しつこく勧誘にくる高校時代の級友は、この教団の教えに救われたと言う。
そうやって宗教を知らない日本人、宗教の恐ろしさを知らない日本人は、宗教教団のカモとなって、全財産を奪われたり、見ず知らずの低能な男のもとに嫁がされたり、終いには、総理大臣を連れてきて、教育しろ、などと言う宗教にも寛容である。それは、やはり、宗教を知らないことが原因なのであろう。
では、宗教とは何か、神とは何か、その答えを求めて、この本を読んでみた。『日本人のための宗教原論<あなたを宗教はどう助けてくれるのか>』小室直樹著
非常に分かり易い文章と博識で宗教をテンポよく解説していくため、読む快感に浸りながらなるほどなるほど頷きながらページをくくっていった。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、仏教、儒教。啓典宗教、最後の審判、原罪、贖罪、奇跡、天国、地獄、煉獄、予定説、空(くう)、コーラン。
数回読み直さないと理解できないかもしれない、というのが素直な感想。
その中で、キリスト教徒が、十字軍としてだけでなく、大航海時代の中南米の虐殺、アフリカでの黒人奴隷貿易、アジアの植民地収奪、阿片戦争など、それらを可能としたのは、キリスト教の教えだったと言うのには驚いた。鏖(皆殺し)が可能であった理由が、キリスト教の、異教徒は皆殺しにしろという教え、その教えにに従っているからだという理由が納得させるものであった。キリスト教、「神を愛し、隣人を愛せよ(アガペー)」は、キリスト教徒のみに存するのだろう。テニス界における日本人、インドネシア人、中国人には、きびしく対応し、白人には愛で接し、白人男性がボールを当てても失格にならないのも、そのあたりからきているのかもしれない。
なにか変な感想になってしまって申し訳なくもう一度読み直さなくてはと反省する。
<主夫の作る夕食>
暑い夏の定番 ゴーヤチャンプルー