Dr.mimaが医原病を斬る!

C型肝炎の解決を目指し、国の責任を追及するため闘っています。

スチブナールの治療でC型肝炎ウイルスに感染した方へ

2014年11月06日 13時56分08秒 | 日本住血吸虫症
全国の日本住血吸虫症でスチブナールの治療でC型肝硬変、肝がんになった方はコメントに連絡先を入れて下さい。
後ほど返信します。

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C型肝炎の治療状況について

2014年11月06日 13時54分29秒 | C型肝炎治療について(2剤併用療法)
C型肝炎の治療薬(ダクルインザ・スンベプラカプセル)投与終了20例中7例、35%が2週間で
C型肝炎ウイルスの消失を見ています。
IFNフリー(IFNを使用しない)の時代の幕開けです。
副作用は1人に鼻喉頭炎を認めましたが、中止に至るほどではありませんでした。

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意見陳述①

2014年11月06日 11時08分52秒 | 意見陳述
意見陳述(第1回口頭弁論)
平成24年7月11日
岩崎 昭明(いわさき てるあき)

1 経歴
私は、原告番号1番の岩崎昭明です。私は、由仁町三川地区にあった診療所で、消毒されていない注射器によってC型肝炎ウイルスに感染し、現在肝臓ガンになっています。

2 C型肝炎の感染
(1)私は、昭和20年11月3日、由仁町三川地区で生まれ、昭和39年3月の高校卒業までにこの地で過ごしました。そして、子どもの頃から、歩いてすぐに行ける由仁町三川地区にあった診療所にかよっていました。私の父の代からお付き合いをさせていただいていた医師です。その医師が町議会議員選挙に立候補したときは、父が選挙の手伝いや応援をしていました。
私は、子どもの頃は体が弱く、風邪をひいてはその診療所に通い、注射を打ってもらいました。中学生になると、体力がついて体も丈夫になり、診療所に通う頻度は少なくなりましたが、冬場に風邪をひくと、診療所に通って注射を打ってもらいました。注射をうってもらうと、お尻のあたりがボワーッと暖かくなる感じがしたのをよく憶えています。
1度風邪を引くと、2~3日診療所に通って注射を打ってもらっていました。
高校卒業後、札幌の菊水の専門学校に溶接の勉強をしに行き、その後2年間は、大阪のヤンマー学院というところに行き、研修を受けていましたが、病院に行って注射や点滴を受けた記憶はありません。
昭和42年、22歳の時に三川に再び戻り、父親が経営していた鉄工所で働きました。昭和43年には、妻と結婚し、父親が引退した後は、自分で鉄工所を経営していました。
大人になってからも、風邪を引いたときは、歩いて通えて、昔からの顔なじみの診療所に通って注射を打ってもらっていました。妻も、私の父の紹介で病院に通っていました。現在妻も、C型肝炎患者です。

(2)次に、注射の様子についてお話しします。
診療所の中では、診察室で他にも患者さんが待っていました。診察室のベッドに並んで座って、順番が回ってくるのを待っていたと記憶しています。
医師は、前の患者さんの注射が終わると、「今日はどうしましたか?」問診をして金属のへらを使って喉を見ます。すると、「風邪だ」と言って、注射を打つのです。
注射器は、前の人に使い終わって医師の机の上に針を付けたまま置かれたものを使い回していました。医師は、机の上の注射器を手に取り、診察室の隣の薬剤保管庫に行って注射針を外して薬剤を入れ、再び同じ注射針を付けて戻ってきて私の腕に打つのです。
医師は、患者に次々と流れ作業のようにして、注射を打っていました。
私は、昭和58年頃に診療所は閉鎖されるまで、通っていました。診療所の中は、子どもの頃から変わらず、何か新しい設備が入った様子もありませんし、注射のやり方も変わっていませんでした。
診療所が閉鎖された後は、近くに診療所がなかったので、車で10分ほどの由仁町立病院に行っていました。
(町立病院での医療の様子)

3 被害の実態
(1)現在の病状
私は、平成の初め頃に献血をした際に「あなたの血液は使えません」と言われ、C型肝炎ウイルスに感染している事実を告げられました。肝臓ガンに発展するような恐ろしいウイルスであるとも知らず、自覚症状もなく、また鉄工所の仕事も忙しかったので、特に治療をしていませんでした。
平成19年に由仁町でC型肝炎に関する疫学調査が行われました。私もそれに参加したのですが、エコー検査をしても、異常は見つかりませんでした。
ところが、平成21年に再度検査をした際に、肝臓に4か所ガンが見つかりました。私の家族と一緒に告知を受けた際には気丈に振る舞っていましたが、一人になると、「突然4つもガンが出てきて、これからどうしたらよいのか」と涙が出てきました。ガンについては、ラジオ波による治療をしました。体が焼けるような熱さで非常に苦しかったです。
その後、C型肝炎の治療のためにインターフェロンの投与を受けました。しかし、副作用で「うつ」症状となり、何事もおっくうになり、人と話すことも、孫と遊ぶこともできなくなりました。また、理由もなく怒りっぽくなり、家族にあたったりもしました。
鉄工所の経営は断念せざるを得ませんでした。その後は、現在まで国民年金と妻の年金、貯金を取り崩して生活していますが、検査・治療の自己負担金が家計の重くのしかかってきますし、由仁町から札幌まで車で1時間以上かけて通院しなければなりません。経済的・時間的負担は非常に重いものでした。
インターフェロンの治療は平成22年半ばまでの1年半に及びました。
その後、原告団団長としてこの裁判の準備をしていたのですが、昨年12月、再び肝臓ガンが再発しました。胆嚢を覆うようにガンが発生していたので、札幌で入院して開腹手術を受けることになってしまいました。
インターフェロンの効果があったと信じていましたし、この間に私の父親や親族が3人、相次いでC型肝炎を原因とする肝疾患で亡くなっていたので、「自分もいつまで生きていられるか」と不安に駆られながら、治療や裁判の準備にあたっていました。提訴の日には、病院から外出許可をとって記者会見に臨みました。
3月末に手術後のリハビリを終えてようやく退院できました。
しかし、退院してから1ヶ月少々しか経っていない5月始めに検査を受けたところ、また肝臓にガンが発見されました。
今は、どうしてこのような目に遭うのか、いつまで生きていることができるのか、恐怖と不安でいっぱいです。

(2)親族の感染
診療所の注射器の使い回しで、この裁判に参加した原告や、それ以上の方々にも重大に被害が出ています。
例えば、私の妻は、同じ診療所に通ってC型肝炎に感染しています。さらに、私の父親も、昨年C型肝炎が原因となる肝臓ガンで亡くなっています。
また、私の親戚も、三川の私の近所で暮らしている人たちはたくさんC型肝炎に感染しています。私の長兄の子、つまり従兄弟夫婦、そして、その子である長男夫婦と次男はC型肝炎です。父の次兄の2人の子ども、それぞれの妻もC型肝炎に感染しています。このうち4人は既に亡くなっています。うち2人は昨年相次いで亡くなりました。
このように、私の家族や私の親戚は、皆、同じ診療所に通って一家揃ってC型肝炎に感染し、ここ私が肝臓ガンになったのと期を同じくして、次々と亡くなっていっているのです。私の世代の一族は、あの診療所の注射器の使い回しいよって感染させられたC型肝炎ウイルスによって皆殺されようとしているのです。
しかしながら、あの診療所に通っていない子どもの世代にはC型肝炎感染者は一切出ていません。これは、私たち一族のC型肝炎感染が、遺伝的なものではなく、診療所での注射器の使い回しが原因であることの何よりの証拠です。
私の親戚以外にも、同じ地区に住んで同じ診療所に通っていた近所の人たちの多くがC型肝炎に感染しています。私たち一族と同じように、一族そろって苦しんでいる人がたくさんいます。
訴状では、由仁町の肝臓ガン死亡率がほかの地域に比べて2倍以上の数値を示していることが書かれていましたが、診療所のあった地域に限ってみれば、何十倍、何百倍もの高率で住民が肝臓ガンや肝臓疾患で命を次々と落としているのです。
私自身、医者は神様のように思っていました。現在も病気に苦しんで医者にすがる人はたくさんいるのです。C型肝炎の原因が、医者にかかったせいなら、許せない気持ちです。そして、そういう医療を放置してきた国も絶対に許せません。この裁判を起こす準備をしている間にも、由仁町で何人ものC型肝炎患者がなくなっています。私も、肝臓ガンを再発しており、いつまで元気でいられるかわかりません。
裁判所には彼らの無念をわかっていただきたいです。由仁・三川では、若くしてC型肝炎で亡くなった人がたくさんいたことをご理解ください。また、C型肝炎により発生する肝疾患による命の危険にさらされ苦しんでいるのはもちろんですが、世間からの差別にも苦しんできたことをご理解ください。そして、この恐ろしいC型肝炎の被害や差別はまだまだ続いていることも、ご理解ください。

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意見陳述②

2014年11月06日 10時13分08秒 | 意見陳述
意見陳述(第2回口頭弁論)
平成24年10月3日
黒澤 誠二

1 私は、原告番号2番の黒澤誠二です。私は、由仁町三川地区にあった診療所で、消毒されていない注射器で注射されたことによってC型肝炎ウイルスに感染しました。

2 まず、私がC型肝炎に感染した経緯をお話しします。
私は、昭和24年11月4日、札幌で生まれました。昭和43年に酪農学園機農高等学校を卒業しましたが、昭和44年に父が北海道千歳市に牧場を作ることになり、私達は有限会社黒澤酪農園を設立しました。黒澤酪農園は千歳市にありますが、千歳市と由仁町は隣接しており、牧場から三川地区までは約5キロメートルとすぐ傍です。
昭和45年の冬、私は知人の岩崎さんのお宅にいた際に風邪を引いており、岩崎さんから「隣に診療所があるから注射を打っていけ」と勧められ三川の診療所に行きました。診療所では、流れ作業のように患者さんが診察席に座るとすぐに医師から注射をされていましたので、私の順番はすぐに回ってきました。私が医師と向かい合って診察席に座った途端、その医師は「口を開けて」と述べて金属のへらを使って私の口を大きく開けました。そして「真っ赤だな」と述べた後、聴診器も当てずに「打つわ」とだけ述べてすぐさま私の腕の静脈に注射をしました。医師が使った注射器は、医師のすぐ傍のストーブ上に載っていたステンレスの入れ物に入っていたと記憶しています。ステンレスの入れ物には水が入っていて、何本か注射器が用意されていました。 注射された時は、全身が熱くなるように感じました。耳から始まって尻の穴、さらには風邪で痛かった喉も熱くなり、注射が効いているのだなと感じたことを覚えています。
私は、この診療所に同じ時期に3回通い、3度注射されたと記憶しています。私は、この3回以外にこの診療所で治療を受けたことはありません。
私達か億がいつも通っていた柳沢医院と岩崎さんの隣の診療所では、大きく異なる点がありました。柳沢医院では注射器を入れる容器には蓋がされていて、電気を通すコンセントにつながれて煮沸消毒がされていました。別の容器の中の注射器には青い光が当てられ滅菌消毒がされていました。
その当時同じ診療所でも随分違うのだなと感じました。
その後、昭和48年に結婚し子供も2人産まれ、酪農の仕事に励んでいました。
しかし昭和54年頃、たまたま健康診断で初めて肝臓の数値が異常だと指摘されました。昭和45年に診療所で注射をされてからすでに9年が経過していました。しかし、その頃私は「肝炎」という病気のことを全く知らなかったですし、気にも留めていませんでした。
その後平成元年の春に胆石が原因で手術をしました。この頃、私の義理の兄は肝臓が悪いと診断されて病院に通っており、開腹手術を受け苦しんでいました。私が手術をした際、医師から肝臓の数値が高いから検査した方が良いと勧められました。医師からはひょっとしたら肝炎かもしれない、輸血をした経験があるかと聞かれました。私は輸血をした経験がなかったので、ありませんと答えました。
約1ヶ月後、正式な検査結果が出て、医師から「非A、非Bの肝炎です」とはっきり告げられました。
この医師による告知をきっかけに私の人生は大きく変わりました。

3 次に、私がC型肝炎に感染したことにより、受けた被害についてお話しします。
私は医師から非A非Bの肝炎であると告げられた際、義理の兄の肝臓の病気で苦しんでいた状況を見ていましたので、深刻な病気だと受け止めました。肝炎になれば大体肝硬変や癌になると聞いていましたので恐怖を感じました。
その後、インターフェロンの投与を受け始めましたが、副作用でうつ、味覚障害、頭痛、吐き気、体の痛み、かゆみ、だるさといった症状が出始め、朝起きるのもつらい状態になりました。当時の肝臓の数値は200と高かったと記憶しています。私の酪農園では、その頃牛を130頭飼育しておりました。大変忙しく、毎日午前0時頃、遅い時には午前3時過ぎまで仕事をしていましたので体は悲鳴を上げていました。
私が肝炎に感染したのは、三川の診療所のたった3回の注射が原因だと分かったのは、平成2年頃のことです。当時、私が入会していた北海道ウイルス肝炎友の会南空知支部の会合で三川の診療所の話が出ました。
三川の診療所で注射された人に限って肝炎に感染している方が大勢いるということを聞きました。
私はその話を聞いて愕然としました。私もあの3回の注射が原因で肝炎に感染したのだと確信しました。「そういうのってありかよ」心から怒りを感じました。義理の兄も三川の診療所に通っていました。
三川の診療所で注射された当時は、牧場で飼っている牛に対して予防接種や採血のため注射をする際、使い捨ての注射器を使うのが常識でした。もちろんその理由は伝染病を防ぐためです。牛に対する注射でも使い捨ての注射器を使用しているのに、なぜ人間に対して使い捨ての注射器を使用しなかったのでしょうか。
その後、私は慢性肝炎の診断を受けました。
平成7年には義理の兄が47歳の若さで肝硬変が原因で死亡しました。兄の晩年はすさまじいものでした。肝硬変が進行し肝性脳症になり意識障害が原因で、運転中にバスと衝突しそうになったこともありました。死ぬ直前には吐血し静脈が破裂して目から出血をしていました。
私は兄の壮絶な死を目の辺りにし、恐怖心を現実的に抱きました。私の義理の父と母も三川の診療所に通って注射され、C型肝炎になりました。
私の妻やその兄弟二人も三川の診療所に通って注射されC型肝炎になりました。三川の診療所に通って注射された人はことごとくC型肝炎になっているのです。
私が経営している黒澤酪農園の牧場では、現在牛を130頭飼育していますが、家族4名だけですので人手に余裕はありません。
しかし、私には酪農という過酷な仕事に耐えられる体力が残されていません。
私の酪農の仕事は祖父の夢につながります。私の祖父の黒澤酉蔵は茨城県の大変貧しい家で生まれた後、足尾銅山鉱毒事件に関わった田中正造の弱者救済の精神に共鳴し、その運動に参加しました。運動に参加したため警察に逮捕されたこともあります。その後北海道に渡り札幌市山鼻で牧場を作り牛乳売りを始めました。その後仲間と雪印の前進となる組合を結成し、国会議員にもなりました、祖父は酪農に携わる人材を育てたいという思いで現在の酪農学園大学を設立しました。そのような祖父の働きが評価され民間人として初めて勲一等瑞宝章を受章しました。
私は祖父の酪農に対する思いを受け継ぎ、黒澤酪農園を引き継ぎました。しかしながら、私は自分の体が思うように動かず酪農に力を注げていません。患者の一人として、不条理な理由によってC型肝炎に感染した患者を救済したいと考え、多くの時間を裁判に費やしています。
祖父の酪農への思いを引き継ぎたいという、自分の思いとは異なる状況に、私は追い込まれています。

4 次に、私達原告がこの裁判に辿り着いた道のりをお話しします。
平成16年に主治医であった美馬医師から由仁町のC型肝炎患者に対する疫学調査を考えていると打ち明けられました。それを聞いて大変興奮したことを覚えています。三川のC型肝炎問題に光を当ててくれるのかと期待したからです。
平成18年にはC型肝炎問題を考える会が発足しました。
調査開始にあたっては障害もありました。調査を由仁町で実施するに先立ち町長に挨拶に出向いたところ、町長から「やりたいならどうぞ。但し風評被害は出すな。」と釘を刺されました。私達考える会は町からの支援は受けられませんでした。
当初三川地区を中心に調査を実施していましたが、大変深刻な状況であることが分かり、調査地域を由仁地区にも広げました。疫学調査の結果由仁町全体のC型肝炎患者の数は当初の予想を遥かに超えていました。感染者の自宅所在地は特定の医院の周りに集中していました。愕然としました。
平成22年7月に考える会で疫学調査の報告会がありました。私達考える会の会員は立ち上がり、裁判で国に救済を求めることを決意しました。
私達は協力してくれる弁護士を探し、原告団長の岩崎さんを中心として由仁町の方々に呼びかけました。106名が手を挙げました。
由仁町ではいまだC型肝炎患者に対する差別が根深く、自分が肝炎患者であると表明することは大変困難です。いまだに訴訟に参加出来ずC型肝炎患者であることを隠し続けている方がいるのも現状です。
裁判所に分かっていただきたいことは、私達原告はやっとの思いでこの裁判に辿り着いたということです。差別と闘いながら患者会を立ち上げ、4年の歳月をかけて疫学調査を進め、原告を募りました。私達原告の大半は高齢です。過酷な農業や酪農の仕事を続けながらこの裁判に参加しています。このことが如何に大変なことかを理解していただきたいのです。

5 私は、三川の医師のたった3回の注射によってC型肝炎に感染しました。長年のインターフェロン投与の副作用で大変苦しい思いをし、一時体重は14キロも減りました。しかし少しでも治りたい一心で耐えてきました。
私は先日の検査で慢性肝炎から肝硬変に進んでいることが分かりました。義理の兄が逝った時の顔が今もまざまざと蘇っています。私はまだ生きています。しかし、もっと大変な人もたくさんいます。原告は皆明日の命を懸けています。
車を運転する人は免許が必要です。国は医師に免許を与えてそれでおしまいなのでしょうか。免許を与えた医師の医療行為を国が管理監督する義務はないのでしょうか。国が注意喚起をしていれば医師は注射器の消毒を徹底したのではないでしょうか。
国の責任で生じた不条理を放置しないでほしい、きちんと救済してほしいのです。
裁判所には、良識ある判断をお願いするのみです。

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C型肝炎問題を考える会について

2014年11月06日 10時04分51秒 | 由仁・三川C型肝炎訴訟
この会が出来たのは、2006(平成18)年11月11日のことです。

1.この町は札幌市から東へ約42kmの所にあり、空知管内の最南端に位置し、ひょうたん型の農村地帯です。
北海道では最も肝がんの死亡率が高い地域(全国平均の3倍である)であります。
原因究明のため町長、斉藤外一(さいとう といち)氏は同年10月20日、庁舎で疫学調査について賛同してくれるばかりか、町の保健婦をつけてくれるとまで言ってくれましたが、結局それは実現しませんでした。
このため昔からの友人、黒澤誠二(黒澤酪農園経営)とともに、三川地域の疫学調査をはじめました。
11月末からはじまり、新聞折り込みチラシと、老人クラブの協力を得て、20才以上を対象に肝機能検査、肝炎ウイルスマーカー、腫瘍マーカーを調べました。
協力者は20才以上で210人、三川の住人の12.3%が疫学調査に参加してくれました(第1次調査)。
 この時はHCV抗体陽性者(既感染者および現在感染している者)には、すべて超音波の検査を家庭訪問の上行いました。
その後、由仁町全体の疫学調査は中断していましたが、決してあきらめた訳ではありませんでした。
 そんなある日、思わぬ出来事がおこりました。
三川の疫学調査からほぼ2年が経った2009(平成21)年2月5日、受診者の1人岩崎昭明(岩崎鉄工所社長)がやっと病院を訪れました。
 検査(超音波、CT)では大小4個の肝がんを認め、小さながんは経過を見ることにしましたが、岩崎のショックは計り知れないものでした。
病院にきた途端、がんと言われたのですから、死を宣告されたと同じ気持だったと言います。
黒澤は由仁で感染しましたが、由仁の生まれ育ちではなく、いわゆる外者でした。
黒澤は由仁町の肝がん多発の問題を解決するためには岩崎しかいないと考えていました。
また岩崎とは遠い親戚でもありましたので精神的に支え続けました。
 岩崎は大きな1個の肝がんをラジオ波焼灼術でつぶし、そのあと7月2日からはインターフェロン治療を開始しました。
発熱、食欲不振、鬱(うつ)状態などの副作用にも耐えながら、2009(平成21)年9月11日「C型肝炎問題を考える会 由仁」を発足させ、自ら会の代表になりました。
発足と同時に岩崎を中心に人の輪はどんどん広がっていきました。

2.前代未聞の町民による三川地区以外の由仁町の疫学調査も着手しました。
この疫学調査は2009(平成19年)年11月23日から2010(平成22)年4月2日まで続きました。
この時も三川の時と同じような項目の採血を行いましたが、超音波検査はHCV抗体陽性で、過去にC型肝炎ウイルスに感染し、自然によくなった者(20~30%)を除く住民を対象に行いました。
対象者は20才以上で、疫学調査の参加者は309人、約8.5%の協力がえられました(第2次調査)。
第1次調査では210人の参加者がいましたが、「輸血歴のない者」179人で、「輸血歴のある者 31人でした。
第2次調査では309人が参加し「輸血歴がない者」は261人で、「輸血歴のある者」は79人でした。
 したがって第1次調査と第2次調査の合計は519人で「輸血歴のない者」は440人、「輸血歴のある者」は、79人でした。
「輸血歴のない者」のHCV抗体陽性率は38.5%(179人中69人)、第2次調査では19.5%(261人中51人)第1次調査および第2次調査の合計では27.3%(440人中120人)でした。
疫学調査参加者からの聞き取り調査からは、由仁町の開業医から「山内医院を受診した者」「山森医院を受診した者」「山内医院または山森医院を受診した者」「山内医院も山森医院受診しなかった者」(輸血歴のない者)を区別し、統計学的に処理をしますと、町全体のHCV抗体陽性率27.3%(440人中120人)でありました。
山内または山森医院を受診した者のHCV抗体陽性率は45.8%(214人中の98人)でしたが、これに対して「山内医院も山森医院も受診しなかった者」は9.2%(220人中22人)でありました。
更に聞き取りを重ねますと、山内医院、山森医院では注射器や針の使い回しが行われていました。

3.疫学調査が終わるたびに由仁町では、岩崎昭明を中心に疫学調査の報告会が行われました。
そして2011(平成23)年2月22日「C型肝炎問題を考える会 由仁」主催の報告会で、裁判闘争を辞さないことが確認されました。
翌2012(平成24)年10月9日、国を相手取ったC型肝炎(注射器肝炎訴訟)訴訟の第一歩がはじまったのです。
被害者救済に西村武彦(道央法律事務所 現西村法律事務所)弁護士を始めとする弁護団が立ち上がりました。
その後、由仁在住者および由仁出身者を含めて100人を超える原告が集まり、翌2013(平成25)年3月15日、札幌地裁に提訴しました。
この間HTB女性記者の大奮闘がこの裁判大きな後押しになりました。
原告団団長には岩崎昭明、副団長には黒澤誠二、南川公江となり、「C型肝炎を考える会 由仁」の代表には吉田秀弘が就任、由仁・三川C型肝炎訴訟の体制づくりが出来ました。
提訴後、札幌の「C型肝炎問題を考える会」は一定の役割を果たしたとして解散し、「由仁・三川C型肝炎訴訟を支援する会」を、名称を由仁・三川訴訟に全力をあげることにしました。

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意見陳述③

2014年11月06日 09時15分27秒 | 意見陳述
意見陳述(第5回口頭弁論)
平成25年7月3日
吉田 真由美

私は吉田真由美といいます。昭和36年9月5日、由仁町古山で生まれました。兄弟姉妹はおりません。西三川で育ち、三川小学校、三川中学校を卒業しました。その後、岩見沢農業高校に進学し、さらに空知農業学園で学び、卒業後は、作物の育苗、管理、収穫といった農作業をしています。

最初にC型肝炎の感染が判明した以降の治療のことを説明します。
私がC型肝炎に感染していることがわかったのは、平成9年に札幌厚生病院で受けた農協の人間ドックでした。36歳にときです。
それから通院するようになり、平成17年、44歳のときから47歳まで足掛り4年のインターフェロン治療を始めました。始めは稲積公園病院、長沼町立病院で治療し、平成18年からは旭川の吉田病院、川島内科クリニックで治療を受けました。肝生検も2回しています。
この治療によって、私は徐々に当たり前の生活が出来なくなっていき、これは経験した者でないとわからない、辛いものでした。
副作用として、発熱に伴うインフルエンザ症状、食欲不振、倦怠感、動悸、息切れ、めまい、味覚障害、うつ病、脱毛など、挙げればきりがないくらい、たくさんありました。
インターフェロン1年目は、注射の後、痛み止めを飲みながら農作業はできましたが、正直なところ、身体はとてもきついものがありました。
2年目はインターフェロンの種類が変わり、さらに抗ウイルス剤の飲み薬が加わり、副作用は強めになり、仕事が出来る状態ではなくなり、入院もしました。副作用に耐えられなく、主治医に「辛いので中止したい!」と言ったり、夫には「治らなくてもいいから、とにかく止めたい。」と訴えられたりしましたが、夫からは「今、この治療法が最善なら頑張ってみれば」とか、「最後まで治療しないで後悔するか、やり通して後悔するか、どちらを選ぶ?」と言われ、ぎりぎりのところで考えて、なんとか最後まで治療を終えることが出来、その後治癒しました。
また、特定疾患の助成は受けていましたが、遠方のため、メインの病院と近くの治療用の病院2件ずつ通っていたので、医療費と交通費が負担になりました。治療を始めた平成17年は稲積公園病院と長沼町立病院の治療費で288,000円、平成18年は旭川の吉田病院、川島内科クリニックの治療費168,000円、2度の入院費が36万円、交通費も20万円かかりました。平成19年には治療費と交通費で368,000円、平成20年には156,000円かかっています。これらはインターフェロン治療の医療費だけであって、実際には平成9年から通院していますし、その他にも副作用で皮膚科や眼科にもかかっています。

次にC型肝炎がどこで感染したのかについて説明します。
私は輸血をしたことはありません。ですから、輸血で感染したということはありません。また私の夫はC型肝炎に感染していません。しかし私の両親は二人ともC型肝炎に感染しています。両親も私も山内医院で治療を受けていましたから、山内医院での注射で感染したと思います。山内医院以外でC型肝炎に感染するような事情は全くありません。
私はよく風邪をひく身体の弱い子供でした。小学生のときは、風邪をひく度に山内医院に行き、注射を打ってもらっていた記憶があります。身体が熱くなるホット注射を打った記憶もあります。
山内医院に玄関を入ると、向かって右側に待合の長椅子がありましたが、待合室というよりはただの廊下のような作りでした。
診察室は10帖か12帖はあったと思います。先生は口数の少ない先生でした。私の症状を少しだけみては、容器から注射を持ってきて注射をしていました。
先生が注射器をもってきた、そのステンレス製の四角形の容器からはかすかな湯気は上がっていたと思います。
山内医院には小学校の5年生頃まで行っていました。その後は由仁にある牧野医院や柳沢医院に行っています。
山内医院には、看護婦さんや事務員さんはいませんでした。奥さんが会計をしていて、薬も奥さんが出していました。

先ほども述べたように、私の両親と祖父母も山内医院にかかっていました。祖父母がC型肝炎に感染していたかどうかは分かりませんが、両親は共にC型肝炎に感染しました。
私は、これまで辛い治療を受け、世間の偏見で傷つくこともありました。何故こんな思いをしなくてはならないのでしょうか。偏見はあってはならないし、これからも絶対ないようにしてほしいので、私は裁判に参加しました。
私がC型肝炎に感染したと分かったときは、信じられないくらいショックで、わけがわからず「なぜ、私が・・・」という言葉が頭の中を駆け巡っていました。
その当時、C型肝炎はとても治癒率が低く、殆ど治らない病気と言われていて、いつ、ウイルスが暴れ、肝機能が悪化し、病気が進むのではないかという心配が常にありました。
そしてもうひとつ、気がかりだったのは、夫や子ども達に感染していないか、という不安でした。後に検査したところ、感染していないことがわかり、胸をなで下ろしました。また、知人にも唾液や同じカミソリの使用で感染するのでは、親戚からは、夫に移っていないかと聞かれ、情けなくなりました。
C型肝炎が治療の結果治癒したのですが、治癒した後の体調の良さに驚き、普通の身体がこんなに軽く楽だったとは思いもよりませんでした。感染していなければ、両親や夫、息子に仕事で負担をかけることなく過ごせたのではないかと思うと悔しいです。裁判所には、C型肝炎に感染して苦しんでいる原告の実情を理解していただきたいと思います。

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