goo blog サービス終了のお知らせ 

LKR日記

日常の身辺に起きる四方山な出来事を書き連ねたブログを始めました。
興味のある方は、お立ち読みください。

火打石

2013年02月02日 07時14分20秒 | アウトドア


 先日、アウトドア商品を取り扱う店舗で、「火打石」を購入しました。
名称は「LIGHT MY FIRE」、仕組みとしては、マグネシウムの金属棒に金属製のヤスリがついたものです。
でも、日本製ではなく、デザイン的にはスエーデンあたりかな、形が北欧系の車のカギに非常に似ていました。
 使用してみると、非常に人間工学的に配慮されており、さすがと思わせるところがあります。
それに、柄の部分に笛が施されています。
 
 日常生活ではほとんど使用する場面がありませんが、「無用の美」があります。

 今の時代、スイッチを押せば、明るくなったり、お湯がすぐ出たり、便利だらけですが、一昨年の3月11日のような事態が、またいつ来るかもしれません。

 「災害は忘れたころにやってくる・・・」寺田虎彦が書いたとか、書かないとか説はいろいろありますが、とりあえず最低限のことはできるようにしておきたいものです。

 もう少し暖かくなりましたら、キャンプでダッチオーブンを使用するときに、焚火を熾すの使ってみましょう。
気持ちは、縄文人の気分になるのではないかと思います。

30年前の山道具

2013年02月01日 06時31分56秒 | アウトドア

 先日、拙宅の屋根裏部屋を整理していたら、30年ほど前に購入した、ガスランタンとガスバーナーが出てきました。
 両方とも、EPIという名称で販売されていたものです。

ガスバーナーは10年ほど前に那須のキャンプ場に行ったときに、子供の花火の着火用に使用してから、錆だらけになり、ほとんど鉄の塊になっていました。
 ガスランタンも、一昨年の3月11日から2週間ほど使用していましたが、ガラスのグローブが破損してしまい、メーカーに問い合わせたら、「廃番なんで、パーツはありません!」とのことで、これも粗大ゴミになっていました。

 ところが、先日インターネットを検索していたら、山をやっていた人のブログに出ていました、私と同じような経験をしていろいろメーカーを調べて、廃番のグローブもコールマンの常用のグローブがびったり同じサイズということが判り、早速ネットで頼みましたら中1日で届きました。

 ホームセンターで298円のワイアーブラシを購入して、1時間ほど、錆だらけのガスバーナーとガスランタンを磨き、ガスパッキンを交換して、マントルも新しいのと交歓してみました。
 できました、新品同様です、グローブもスペア用に2個購入したので、たぶん私が暗い三途の川を渡るときまで大丈夫です。

 ここの所、昔に使用していたものを、修理して使用することが多くなりました。
今週は、フルートを修理しようと思います。
 銀製なので、銀用の研磨剤を使用して、1週間くらいかけて磨きだそうかと思います。

シェラカップ

2012年08月31日 07時08分23秒 | アウトドア

 シェラカップと聞くと、アウトドアーを趣味にしている人は「あれかー!」と思い出すと思いますが、知らない人は、見たことも聞いたこともないと思います。

 このシェラカップはもともと、アメリカの環境保護団体のSIERRA CLUBの会員用に配ったのが、そもそもだそうです。
 以前は山行というとホーローのカップだった時代が、1970年代から、輸入され、国産で作られました。

私は、コレクターでもないのですが、物置や食器棚を片付けていたら、底がこげたもの、何かの拍子で凹んだもの、加熱されて変色したもの、合わせてなんと23個も出てきました。本物は半分の11個、あとはチタン製や、ノベルティで貰ったものがありました。
これがあれば、コーヒーも沸かせるし、御飯も炊けるし、フライパン代わりにもなるし、23個もあれば、友達を呼んで、シェラカップで大勢の宴会ができるくらいです。
歳を取って、何かの都合で老人施設に入ることがあったら、いくつか持参しようと思っています。

私は仕事場でも、飲み物のカップに使用しています。
部下は、「なんですかそれ!」と変な物をみるような目つきで見ますが・・・

 でもやはり、腐っても鯛、オリジナルのデザインは輝きを失うことはありません。

榧(かや)の丸木舟・・・のことなど

2012年05月17日 22時14分43秒 | アウトドア
 
  私が住んでいる市の博物館に、縄文時代の丸太をくり抜いた丸木舟が保存されています。
  昭和の初期の頃に、河川改修工事の時に出土したものであると、説明には書かれており、木材は榧(かや)であると書かれています。
  縄文海進の時代に気候も現在よりは温暖であったためか、私の住んでいる東京湾から離れた内陸にも、その当時の貝塚が痕跡としてあちこちに残っています。
  榧でできた丸木舟は直径が70センチほどで、部分的に炭化しており、榧の木を火で炙ることにより、腐食を防ごうとした、縄文人の知恵なのかもしれません。
  丸木舟の前に立つと、この木を倒した人はどのような思いで木を切り倒したのか、鉄の道具が無かった時代に、石斧やどんな道具で伐採したのだろうか、と想像の世界に入ってしまいます。
  たくさんある木の中で、どうしてこの榧の木を選んだのか、火で炙ることをどこで学習したのか、そして丸木舟を使った漁猟の最中にどんな事故が発生して、この舟を放棄することになったのか・・・・。
  博物館の丸木舟の前にたたずむと、いつもこんな想像を巡らしてしまいます。

  現代に住む私は、友人たちから不要になったカヌーを貰い受けて3艇持っていますが、何百年も泥の中に埋もれて、保存されるような素材ではできていません。
  マッチが1本あれば、良く燃えてしまうような素材でできています。
 考えて見るならば、この榧の丸木舟はその本来の役目を終えた上に、安寧の場所を得ることができて、幸せだったのかもしれません。

ボーイスカウトのことなど・・・

2012年05月14日 21時42分38秒 | アウトドア
 
 昨日は、日曜日に都内まで出かけましたが、電車の中でボーイスカウト隊の集団に乗り合わせました。
 まだボーイスカウト活動が続いているのかと、電車の中でしばし感慨にふけりました。

 私がボーイスカウトに入団したのは、昭和37年の11月23日でした。
なぜ覚えているかというと、今から50年前の勤労感謝の日のことなのですが、秋の日差しが、乾いた埃っぽい小学校のグラウンドに差し込んでいたことが記憶に残っています。
 入隊したボーイスカウト川越第2団は、戦後の比較的早い時期に創設されていたためか、テントや野営道具はその当時でも、大体そろっていたように思います。
 いまでは、アウトドアギアーと称して、いろいろなテントやガソリンランプ、バーナー、シュラフがアウトドアショップや郊外型の大型店舗に行けばありますが、そのころはまだ戦後の雰囲気を残していたためか、「野営」とか「野外生活」という言葉のほうがふさわしかったように思います。

 今時病院でも使わないような、ホーロー引きの皿には確か「Occupied by USA」と書かれていたことがありました。
 テントは、今から思えば、朝鮮動乱後の進駐軍からのお下がりだと思いますが、キャンバス地に植物質のオイルがしみこんだ独特の臭いがしました、そして代々何故か「象の鼻」と呼んでいたのが不思議でした。
シュラフなんて気の利いたものなど無くて、母親がどこで聞いたのか、使い古しの毛布を半分に折ってファスナーを付けたものでした。
 この毛布のシュラフは、後年大学受験の時に夜中の勉強時には役に立ちました。
ある年、ジョンソン基地(現在の航空自衛隊入間基地)のボーイスカウト隊と交歓野営大会が開催されました。 その時の野営場というか今ならキャンプサイトと呼ぶのでしょうが、私の目にも敗戦国の惨めさが自覚できました。
 私たちのテントは、前述の進駐軍のお下がりで、テントの周囲には雨が降った時のことを考慮して深さ10センチほどの溝を掘り、炊事といえば、地面に穴を掘って大きめの石を数個拾ってきて作った竈に飯盒炊さんにカレーが定番のメニューでした。
 アメリカ合衆国の少年たちはといえば、同じくらいの年頃でも長ズボンに明らかに上等そうなジャケットを身にまとい、テントは完全自立型で、コットと言われる野外用のベットが中に設えてありました。
 食事はというと、今では量販店に行けば置いてあるコールマンのツーバーナーが青い炎を上げて分厚いステーキを焼いていました。
飲み物は我が隊は、水嚢という布バケツに汲んだ水を各自のホーロー引きのコップですくって飲んでいたのですが、彼らはCoca Colaのロゴが入った、緑色の瓶が山のように補給用のテントに置かれていました。
かの国は、兵站施設を充実させ、作戦を成功させることに戦略を持って望んだけれども、こういうことにも、兵站施設は必要なことなのですね。
 そのころの私たちは、各自の山岳縦走用のキスリングから、手ぬぐいで作った袋から米を出し、ジャガイモ、タマネギ、ニンジンを出して、地面に穴を掘った竈でカレーを作っていたのですから。
 最後の日に、プレゼントの意味なのか、コカコーラを1本もらって飲んだのはいいけれど、その薬臭い黒い液体を嚥下したときの感触をいまでも覚えています。
 その数年あとのことだったと思いますが、11月の感謝祭に進駐軍所沢兵站所(いまの航空公園のあたりだったと思いますが?)の合衆国のボーイスカウト隊に招待された時のことも、食べ物の記憶とともに生涯忘れることができない思い出です。
 11月の下旬で半ズボンが寒かった記憶がありますが、招待された進駐軍のカマボコ兵舎の中は飾り付けがしてあり、食べ物の臭いと、米国の少年達の体臭の臭いが混じり合って、アメリカとはこんな臭いがするものかと思ったものでした。出てきた料理が厚さ1センチはあろうかと思われる、大人の掌くらいの分厚いステーキ肉でした。
それに、いろいろな野菜と大きな肉塊がたくさん入ったシチュー、当時通っていた小学校で始まったばかりの自校方式の学校給食のシチューと比べると、こってりとした食感がしたのを今でも覚えています。

 その当時の我が家のご馳走といえば、毎月25日の父親の給料日に出る卵焼きが一番のご馳走でした。
 すき焼きなんてまだまだ、夢のようなころでした。
私は当然のごとく、ポケットから出した灰色の粗雑なちり紙からステーキがはみ出るのを承知で、大切に包んで家に持ち帰りました。