自燈明・法燈明の考察

日蓮を切っ掛けとして、仏教やこの世界に対する思索を始めました。

人生、流れを感じる事

2019年12月26日 15時56分21秒 | 思う事
 明日はのんびりして、午後から半休とって帰ろかなと思っていたら、今朝方に明日の夜に客先トラブル対応の予定が突っ込まれました。なかなか思う通りにはいかんもんですね。

 「人生とはそんなモノ」と大上段から構えて云う事では無いと思いますが、五十代を過ぎて、ふと自分の人生を顧みた時に、この人生というのは実に不如意でありながら、その底辺には何かしらの決められた流れがある様に感じてしまうのです。

 ここからは私の私見で書きますが、私は次男であり、私の人生、親の考えた事とは違う歩き方をして来ました。
 よく長男は親の期待を背負い、次男は好き勝手に生きるという話を耳にしますが、子供の頃の我が家で、我が兄弟もそれに近い感じの人生を歩んできました。

 私の兄は成績もそこそこ良く、高校生の時には進学校で生徒会役員にもなり、卒業後は専門学校へ進学、そこでもそこそこ成績が良くて、とある大企業に就職しました。
 一方で次男の私などは、高校は工業高校で、入学してから成績はだだ下がり。しかも物好きな事に、友人とバンド組んだりしてベース・ギターやドラムを叩きながら、適当な高校生活を送ってました。卒業後は何をトチ狂ったのか、デザイン学校に進み、そこを中退した後、紆余曲折を経てベンチャー企業のシステム開発会社に中途入社。そしてそこからまた紆余曲折があって、今の仕事をしています。まあIT関連企業ではありますが。

 亡父からは「瀬戸物は失敗したら、叩き割って作り直せば良いが、ヒトはそうはいかんな!」とよく言われ、まさに昭和世代を生き抜いてきた両親の思惑とは全く異なる人生を送り、ここまで生きてきたという感じです。

 ただ思うのは、私の場合、確かに傍から見たらふらりフラリの生活を送ってきた様に見えて、人生の大事なポイントで良き人に出会いながら、まるで綱渡りの様に仕事にめぐり逢い、今に至ってます。過去に創価学会で活動していた当時「これこそ信心の功徳だ!」なんて思ってましたが、活動止めてもこれは変わらずに、今に至る事を考えると、創価学会の信仰とは関係なく、こういう一見綱渡りの様な人生に見えて、実は何かしらの「約束事」の様に、人生の大枠がどこかで決まっていて、自分の選択により、それらの人達に巡り会えたのかとも思うのです。

 確かにこれまでの人生、けして平坦な道程ではありませんでした。何度も躓き、袋叩きの様にされた事もありますし、言われた通り登ってみたら、ハシゴを外された事も幾度か経験してきました。酷いときには「自分の心が壊れていくなぁ」という事を実感した事もありました。しかし生き続けていれば、どこかで人と出会い、次のステップへと移れるという事の様でした。しかもこのステップというのが、苦しい事を避けていたとしたら、絶対に出会えなかったであろうタイミングで全て出会ってきています。

 幾つかの過去世の研究をしてきた臨床精神科医のJLホイットン氏の書いた「輪廻転生ー驚くべき現代の神話」では、人は生まれる前に、そこで人生の出来事をある程度、自分で決めて生まれてきているという記述がありました。そしてそれは自身の魂の成長(というか成長の為に克服すべき課題を決めて)の為だと言います。

 ホイットン氏によれば、それがカルマの本質であり、仏教で語る宿業(カルマ)論ではありません。

 私なんかは、この年齢まで生きてきて、宿業論よりもこの話の方が、何か自分自身の中にストンと落ちました。つまり様々な経験、これは楽しいことや苦しい事を含めて全てがそうなんだと。大事な事は、目の前の出来事一つひとつにオタオタしない。常に自分の未来を信じて生きていく。そういう事なのでは無いでしょうか。

 ある人の話でこんなものがありました。それはどんなに苦しくても死んではいけない。生きていれば解決しない事なんて一つもないのだ。という言葉です。

 多分人生というのは、そういったモノなのかもしれませんね。


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間もなく年末

2019年12月25日 13時39分30秒 | 思う事
 「正月や、冥土の旅の一里塚、めでたくもあり、めでたくもなし」

 これはかの有名な一休和尚の詠ったものですが、もう今年も来週で終わりですね。仕事は今週の金曜日までなのですが、既に幾つかの仕事は「年越し案件」となってますので、それほどバタバタせずにいます。

 私は毎年年末に、昔からの友人家族と「忘年会」を家族ぐるみでやってまして、今年で確か十九年目になりますが、年々、この一年というサイクルが短くなってきている事を実感します。

 私がまだ子供の頃、世の中にはコンビニエンスストアというものもなく、銀行なんかもATMなんてありませんでしたから、両親ともこの時期になるとドタバタし始めていました。当時の私は、この時期になるとお年玉がいくら貰えるのかを気にしてまして、それで何を買おうか胸三寸していたりしたものです。

 子供の頃は一年のサイクルがとても長く、正月というのはそれなりのイベントとも思えたのですが、五十代に入り、こんなに早く正月がやってくるのかと感じています。

 この一年という区切りは、新たな気持ちで切り替えられる、大事なリズムなんですけどね。

 考えてみれば「一年」というのは、太陽系の主星てある太陽の周りを地球が一周するという事で、地球上では人間だけが、そのリズムを定期的なサイクルと理解して、一年ごとに「新たな自分」を意識できる生き物です。

 この一年振り返ってみると、あっという間に過ぎてきたと言う感覚と共に、良くもまあこれだけの事を乗り越え、経験してこれたものだという実感も、多少在ります。

 来年がどんな年になるのか、それは解りませんが、今年よりも有意義な一年にすべく、この年末の期間は大事に過ごしたいものです。


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神天上の法門

2019年12月25日 10時50分25秒 | 日蓮仏法再考
 日蓮は立正安国論で、国に正法を立てる事で国家が安寧になると考え、その内容を論としてまとめて最明寺入道(北条時頼)に上呈しました。この中で日蓮が述べたのは、国に正法が途絶えると、諸天善神は威光を無くし天上界に去り、国を導く聖人は国を捨て去り、結果として国に悪鬼や魔が入り込み、様々な災難が国に襲うと述べています。

 そしてこの諸天善神が国を捨て去り、天上界に帰る事を、後世の弟子たちは「神天上の法門」と呼ぶようになりました。しかしそもそもですが、諸天善神とは何でしょうか、天上界とはどこで、神々はとんな処に帰るというのでしょう。

 創価学会ではこの立正安国論を元に、各種の選挙活動をしてますが、実は依処である立正安国論のこう言った基本的な事については、何ら思索すらしておらず、単に創価学会会員の国会議員を国政に送るとか、地方自治体の議会に送れば安国になると言い、会員を扇動し続けています。しかし結果としては、その安直で会員が思考しない無責任な行動が日本の民主主義の根幹を破壊していて、会員葉その現実に気づくべきなのです。

 ここではこの立正安国論の「神天上の法門」について、少し私の考えた処を記事として書いてみます。

◆諸天善神とは
 仏教でよく言う諸天善神とは何なのでしょうか。例えは大梵天王とか帝釈天王はもともとがバラモン教で説かれている神々でした。大梵天王はブラフマーという神で、古代イントにおいては万物実存の根源とされたブラフマンを神格化したものです。帝釈天王は同じく古代インドの神であるインドラと同一の神です。また四天王(持国天・増長天・広目天・多聞天)も帝釈天に仕える神々でした。

 仏教ではこの様なバラモン教の神々も、仏教を守る諸天善神として取り込み位置づけをしたのです。

 これは日本に於いても同じであり、天照大神や八幡大菩薩というのも、元を辿れば日本の土着神でしたが、仏教が日本に伝来してから、仏教守護の諸天善神として取り入れられました。

 一言で「神」と言っても、ヤソ教(ユダヤ・キリスト・イスラム)の一神教の神と、バラモン教を始めとして日本の八百万の神に代表される多神教の「神々」は、本質的に異なる存在です。

 ヤソ教の神とは人間を創生し、その人間を導き、時には罰し破滅させ、時には護る。そして最後は「審判の日」に選別し、選ばれた者は天上界へ行き、それ以外は煉獄へと落される。つまるところ人間の「主(あるじ)」として存在している神と言っても良いでしょう。
 一方でアジアの宗教は多神教が多いのですが、それらの多くは自然界の中の様々な働きを「神々」と尊崇する事が起源であったり、また日本の場合等はそれ以外にも「祟り神」という神もありますが、やはり基本的には自然界の中の働きを神と見ていると言っても良いでしょう。

 この様な事から考えてみると、仏教の諸天善神とは、仏教を信じる人を守るという自然の働きや社会の動きを「神々」と呼んでいると考えても良いのかしれません。

◆諸天善神の住処
 また諸天善神に関する事を考察する上で、この善神は何処に住むのかという事がありますが、日蓮は御書の中に以下の事を書いています。

「今までは此の国の者ども法華経の御敵にはなさじと一子のあひにくの如く捨てかねておはせども霊山の起請のおそろしさに社を焼き払いて天に上らせ給いぬ、さはあれども身命をおしまぬ法華経の行者あれば其の頭には住むべし」
(新池御書)

 ここで日蓮は諸天善神は、日本人を法華経の敵にしないように必死に取り組んでいたが、霊山浄土で諸天が釈迦仏に起請(誓い約束した事)に背くことを恐れて、社(やしろ)を焼いて天上界に帰ってしまったが、法華経の行者がいれば、その頭に住むと語っています。この事を捉え直すと、諸天善神とは、本来は人の心の中に住むものであり、それが周囲の環境や社会等に反映して、人を護る働きの事とも思えます。仏教はどこまでいっても内道、つまり人の心の思想という事から言っても、その様に考えるべきだと思うのです。

 つまり諸天善神とは、人の心に宿る善性であり、それによる人々を守護する働きという事ではないでしょうか。

 日本国内の神社仏閣には、この諸天善神の像が数多ありますが、それらは全てこう言った人の心の中の善性をシンボル化したものであって、どこぞにその様な神々が居ると言うことでは無いと私は思うのです。

◆神天上の法門とは
 この様に諸天善神の存在を考えてみた時、神天上の法門とはどの様な事を指すのでしょうか。それを一言で言えば「心の内面にある、人の善性の穏没」という事では無いでしょうか。そして諸天善神が威光を増すために食す「法味」というのは、社会の中にある人の良き心や特性を伸ばす風潮でもあり、その為の仕組みや哲学なのでは無いかと思うのです。

 そういった事が弱くなったり無くなったりした社会は、人の為よりも自分のため、人を目的とはせず手段とする様な風潮がつよくなるのではないでしょうか。そして国や地域がその様になった時、そこには社会の安寧や平和というのがなくなるのは、ある意味で自明の理だと言えるでしょう。

 日蓮が鎌倉時代に指摘して責たのは、当時の仏教界が、人の内にある善性を見ることもせず、鎌倉幕府の進める文化政策に乗っかって、それぞれの宗派や出家者が我利我利で動いているという事であり、為政者自身もその様な事に気付きもしない。そういう事に対する事だと思うのです。

 そして現代の日本はどうかと言えば、市場原理主義(リバタリアリズム)を導入し、社会を利益最優先に舵を切り、政治の世界では宗教組織を利用して、それぞれの政治家が、己の保身を図ったりしているように、私の目には見えてしまいます。そこに人の心の中にある善性を熏潑するものは一切ありません。

 本来、立正安国論を語り、神天上の法門を語るのであれば、そういう処に目を向けなければならないのです。



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人生百年時代というけれど

2019年12月23日 09時50分48秒 | 思う事
 安倍内閣が「一億総活躍社会」を言い出して、日本高齢者学会が高齢者の定義を「七十五歳以降」という説をぶち上げていますが、人間なんてそんな便利なものではないでしょう。
 三十代の頃の私は、今から見ると変に思われるかもしれませんが、創価学会を命を掛けてやっていました。それこそ「いつ死んでも良い」と考え、よくいう処の「止暇断眠」で活動をしていたのです。
 当時は仕事もシステム開発関係でしたので、納期が近くなれば深夜まで作業もあり、知り合いと会社をしていた頃は、部下に仕事の指示をしてから一旦仕事を抜けて活動し、夜中に会社の事務所に戻って朝まで仕事。その後、朝日の上がる頃に帰宅して仮眠の後、シャワーを浴びて出勤するという生活をしてました。
 また一週間のうちで余裕が少しあったのは土曜日の午前中で、それ以外は休日とは言っても、朝から出かけたら夜中まで家に戻る事はありませんでした。

 こんな生活を二十歳から結婚するまでの三十五歳までの十五年間、やってましたので、四十代初めの頃には、あちらこちらの病院に掛かる事になってました。

 そんな生活を経験していたからかもしれませんが、五十代になってからめっきりと体力が衰えた事も実感する様になりましたが、そんな時に「一億総活躍社会」なんてフレーズを耳にしたので、この日本の社会の歪さを、実感として感じるところがあるのです。

◆老いの種類
 まだ五十代前半の私が「老い」という言葉を使うと、青二才のハナタレ坊主が何言うかと叱られそうに思うのですが、まあ私の考えている事について書かせてもらいます。

 一口に「年老いた」と言っても、幾つかの観点があると想います。

 一つ目は「肉体的な老い」というやつで、一般的に年取ったと言う場合、多くはこの肉体的な老いという事を指しますよね。具体的には夜中まで起きていられなくなるとか、体が固くなったとか、関節が痛くなったり、耳が以前より聞こえなくなる、目が霞む、あとはモノ覚えも悪くなるという様に、肉体的な機能低下はどうしてもついて回って来るものです。私なんかは子供と遊びに行った時、その後二日目に筋肉痛が出てきて、腰が痛んだりしたので、肉体的な老いという事を実感しました。

 二つ目は「精神的な老い」というやつで、やはり社会の中で多くの経験をして、また家族を持ったりした事も影響してか、どうしても「守りの体制」と言うものを取ってしまい、若い時の様にイケイケドンドンという感じにはなれません。また若い頃には後先関係なく、自分自身のポリシーで行動できた事が出来なくなります。周囲ではこれを「丸くなった」と感じられる様ですが、そうではなく精神的な覇気が無くなってきた一つの現れなのかもしれません。

 三つ目は「社会的な老い」というやつで、どうしても社会の中では本人の思惑とは別に、シニアという見方をされるので、若い時と同じ様な扱い方はされません。この背景には先に上げた肉体的な老いと、精神的な老いが関係しても来ますので、こればかりはどう仕様も無いという事です。具体的な例を言えば、若い時の様にチャレンジというのが、許容されずらくなってくる等があります。

◆四苦の内の「老苦
 この様に、自分自身が老いてきた事を実感したり、またそこから病院通いがあったり、入院したり。要は若い時とは異なる状況へと陥る中で、仏教でいう「四苦八苦」の中にある「老苦」というのが起きるのでしょう。しかし「一億総活躍社会」を掲げる今の政府の中に、こういった人の心に対する洞察がどれだけあって、このスローガンを作っているのかと言えば、全くその様な意識は皆無なのかと思いますが、いかがですかね。
 確かに江戸時代や明治・大正・昭和と時代が変わる中で、人々の平均寿命は伸びてきています。昭和三十年代であれば五十五歳あたりで定年退職という事でしたが、今の社会では六十五歳定年というのが一般的になってきましたので、十年は延長されています。しかし人間の持つ「老苦」という問題の本質に目を向けず、単に「高齢者も働きたがっている」とか「労働力の不足の補完」として、高齢者を利用するだけの為に、社会を作り上げようとした場合、人々の中に、新たな苦しみの種を撒くことになるのではありませんか?

 私は今の日本社会の進む方向に、その様な危惧を感じてならないのです。

◆高齢者の生きる社会
 高齢者になると、やはり若い世代や壮年世代と同じ様な事は出来ません。しかし長い人生経験の中で得た事を社会に還元する事は可能です。また高齢者に対する評価軸についても、高齢者に沿ったガイドラインが必要に成ってきます。これはつまり「人間」という事に社会として理解を深める事にも通じてきます。これからの日本社会に求められるのは、そういう人間に関する視点の転換と、社会の求める目標への見直しではないか。

 私はその様に考えるのですが、皆さんは如何お考えですか?


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正統な教団や教えは幻想

2019年12月20日 08時39分42秒 | 思う事
 「富士の清流七百年」
 これは私が創価学会で活動を始めた頃、先輩からよく聞かされた事です。日蓮大聖人から法水写瓶で、御歴代の御法主上人猊下に嫡々代々と血脈が伝わり、富士宮の大石寺で護られて来た教えを創価学会は根本にしている。だから新興宗教では無いんだと。そしてこれこそが唯一正しい教えなんだとも聞かされました。

 しかしそれから数年後、実は大石寺は大謗法の寺院で、歴代の貫首には稚児法主もいたり、釈迦仏像を作った貫首もいたり。また身延日蓮宗と合同で時の貫首か祈願したりという処だった。だから富士の清流なんて無かったし、創価学会の歴代会長も大石寺からいじめられてきたんだと聞かされました。そして言われたのが「創価学会こそが日蓮大聖人の仏法の正統継承団体なんだ」という事でした。

「大法要、仇を打てとの響きあり、君らの使命と瞬時も忘るな」

 これは戸田会長の三十三回忌法要で当時の池田氏の詠んだ和歌ですが、この言葉に当時の青年部も、心を熱くしたものです。

 そして現代では「大石寺の大本尊は受持の対象とはしない」「日蓮大聖人の顕した御本尊は全て事の本尊」「創価学会が本尊を認定する」「日寛師の教義は見直す」といい、「創価師弟三代の血脈」を唱え、永遠の指導者を制定、「先生」というのは池田氏の尊称と定めています。

 こうして始めの「富士の清流七百年」から「創価師弟三代の血脈」まで眺めてみると、何だかなぁーと私は思ってしまうのです。私も時々で、これが正しい教えなんだと信じてきても居ましたが、流石に四十代になり、壮年世代になって冷静に考えられる様になった時、この流れには大きな違和感を覚えました。またそんな視点で、例えは公明党の選挙活動を見ても、聖教新聞の啓蒙と呼ぶ拡販運動を見ても、ましてや折伏という新規会員の獲得活動を見ても、どれもがみな滑稽な感じがしたのです。

「斎藤さんは妙観講で信心すべきですよ」

 ある妙観講幹部とも定期的に対話をしていた頃がありましたが、その時にはそんな事も言われましたが、私は断りました。

「いやいや、そもそも僧侶を奉る信仰なんて興味ないし」

 私の仏教へ傾倒した原点は、やはり若い頃に見た知人の「死」であるし、人生の意味と言う言葉でいうと、少し違うのですが、この限られた人生の時間を有意義に過ごしたいという事でした。日蓮を現代に語り、声高に正統な組織を主張する宗教団体には、申し訳ないですが興味を持つ事はありません。何故ならばそれぞれが自分の組織が正しいと主張はしますが、あまりにも中身がスカスカなんですよ。まるで「麩菓子(ふがし)」みたいな感じです。

 禅宗が語る「拈華微笑」という言葉があります。これは初代付法蔵である迦葉尊者に対して入滅時の釈迦が花を捻って見せ微笑んだという話で、これにより迦葉尊者は釈迦から大事な事を受け継いだと言うのです。
 よく仏教では「師弟が大事だ」と言うような話があります。師弟とは教えを受け継ぐ為の人間関係とも言いますが、教えを受け継ぐというのは、とても大変な事だと思うのです。それは教える側の師匠もそうですし、受け継ぐ側の弟子にとってもです。

 一つ例えるならば、私も仕事では多くの人から様々な事を社会に出てから三十年以上に渡り、教わってきました。またその中の幾つかを後輩たち教えてきたつもりです。しかし人間の持つコミュニケーション能力というのは、実に貧弱なもので、例えは創価学会や顕正会、日蓮正宗では「文証」と言いますが、要は私の居るIT業界用語では「テキスト」と呼んでますが、そんな媒体しか人間は持ち合わせていないのです。

 言葉と言っても基本はテキストを発音したものであり、唯一違うのは抑揚とか、強弱を付けれる程度のものです。このテキストの不完全さを理解するのは簡単で、例えはこれを読んでいる人も試して欲しいのですが、貴方が人生で一番感動した映画を、その映画を知らない人に、文字や声で伝えることを考えてみればわかります。自分が感じた感動を相手に伝えるのはどれ程困難か、文字というか言葉は足りない媒体なのかを、直ぐに理解できると思います。

 私は人間の認識力は四次元だと考えています。空間(三次元)に時間という軸が足されますから。日常生活では常に四次元で動いている個々の人間が、相手に伝達するのは二次元(平面的)な能力しかないのですから、人から人への伝達はそもそも無理があると言うものです。世の中の全ての宗教で分派が起きるのも、これによる処が大きいと思います。

 またもう一つ。
 仏教とは帰納法ではなく演繹法の哲学です。帰納法とは複数の事象の結果からひとつの結論(真理)を証明するのですが、演繹法とは一つの大定理から、いくつもの事象を説明するというものです。
 一つの定理から多くの事象を説明するには、付随する様々な事柄を知識として持ち合わせていなければなりません。つまり仏教を学ぶのであれば、世の中にある多くの事を理解し、知識として得ていなければならないのです。創価学会の活動家幹部を見ても解りますが、その知識があまりにも貧弱な為に、一大定理すら理解もままならない中、多くの「珍説」が出るのも、この為だと思います。

 以上の事から考えると、一つの偉大な教えがあったとして、それを正しく理解して継承していけるかどうか、そこは組織や団体ではなく、個々の人間に関わってきます。だから「私達こそ正統後継の団体なんです」というのは、実に大きな詭弁だと理解すべきなのです。


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