昨日の続きを書きます。
・「又云く南無妙法蓮華経の南無とは梵語妙法蓮華経は漢語なり梵漢共時に南無妙法蓮華経と云うなり、」
ここで南無は梵語(古代サンスクリット語)で妙法蓮華経は漢語であると言い、南無妙法蓮華経は梵語と漢語が合わさった言葉だと言います。鎌倉時代の世界観は三国(インド・中国・日本)なので、お題目とは日本国内のみではなく「梵漢共時」と言う様にインドや中国にも共に通じているという事を表現しているというのです。
・「又云く梵語には薩達磨芬陀梨伽蘇多覧と云う此には妙法蓮華経と云うなり、薩は妙なり、達磨は法なり、芬陀梨伽は蓮華なり蘇多覧は経なり、九字は九尊の仏体なり九界即仏界の表示なり、」
また妙法蓮華経というのは梵語では「薩達磨芬陀梨伽蘇多覧(サツダルマフンダリキャソタラン)」と読むと紹介しています。そして「薩」とは「妙」、「達磨」は「法」、「芬陀梨伽」は「蓮華」、「蘇多覧」は「経」と訳された事を述べ、この梵語の九字は九尊を著していると言います。
九尊とは胎蔵界曼荼羅の中台八葉院に配置される五如来と四菩薩を指します。
[五如来]大日如来・宝憧如来・阿弥陀如来・開敷華王如来・天鼓雷音如来
[四菩薩]普賢菩薩・文殊菩薩・観音菩薩・弥勒菩薩
胎蔵界曼荼羅とは密教にある曼荼羅の一つで大乗経典の400体に登る多数の諸尊を象徴的に顕したものだと言われています。ここで「九尊」とは、そこの意義を引用しているのかもしれません。そしてこの梵語九文字によって九界即仏界を表していると言うのであり、妙法蓮華経にはそういった意義もあると述べています。
さてここで何故、胎蔵界曼荼羅に関係する九尊という言葉を引用したのでしょうか。日蓮の御書にはその外「虚空蔵菩薩」という事もありましたが、密教的な言葉を引用している箇所が散見されます。創価学会や日蓮正宗などでは「真言亡国」と呼び、真言密教を否定しますが、密教とは「秘密の教え」という意味もあり、日本国内では当時、「真言密教」と共に「天台密教」という事も存在しました。密教とは平安時代に日本へ伝来してきましたが、仏教の中では、最新の教えと捉えられていたものであると言われていて、日蓮も比叡山でその修学をしてきたので、そういう事から引用していたのかと思います。
まあこの部分は、妙法蓮華経にはそういった意義も具わっているという紹介で、その程度の内容ではないかと思います。
・「妙とは法性なり法とは無明なり無明法性一体なるを妙法と云うなり蓮華とは因果の二法なり是又因果一体なり経とは一切衆生の言語音声を経と云うなり、釈に云く声仏事を為す之を名けて経と為すと、或は三世常恒なるを経と云うなり、」
ここで妙とは「法性」だと言います。この法性とは諸々の事象の本質を指し、諸法実相を指す言葉です。また法とは「無明」だと言い、煩悩に囚われ仏法の本質を理解できない状態を指すと言います。そして妙法という事で無明法性が一体である事を表しているというのです。これは煩悩即菩提にも通じますね。
蓮華というのは華の中に種のある植物で、この事から「原因と結果」が共にある事を指し示すという意味があり、その事から「蓮華は因果の二法」と呼んでいます。この因果とは因(修行)と果(成仏)は常に一体である、どちらが先にあるものでは無いという事です。
つまり人々の生活の中(無明)に法性(諸法実相)があり、そもそもこれらは分離して捉える事は出来ない。そして修行と成仏も別々ではなく、人々が向上しようとする思いの中に同時に具わっているというのです。これを総じて「妙法蓮華」という言葉で表現されているというのです。
そして経は「一切衆生の言語音声」であるといい、人々が違いに交流しあう事を指していると言います。つまりこういった事を人々が語らい、生きるという事が経の文字で示されていると言います。これを天台大師は「声仏事を為す」と解釈し、三世(過去・現在・未来)に変わらぬ事だと解釈をしていると言うのです。
・「法界は妙法なり法界は蓮華なり法界は経なり蓮華とは八葉九尊の仏体なり能く能く之を思う可し已上。」
法界とはこの世界を表す言葉なのですが、それは妙法蓮華経そのものであると言います。これは別にある「当体蓮華抄」にも述べられている内容です。つまり私達の生きるこの世界が妙法蓮華経で指し示され、表現されている世界であると言うのです。また蓮華が中央にありますが、それは八葉九尊(胎蔵界曼荼羅で現わされた諸尊)でもあると言い、よくよくこの意義を考えてみる事を述べて終わっています。