自燈明・法燈明の考察

崩壊しつつある予感の中で

 最近ブログの更新頻度がかなり下がっていました。これは私が趣味に没頭していることが大きな要因で、趣味のブログの方ではかなり頻繁に更新を行っています。
 本当ならば趣味のブログではなく、このご時世なので動画のブログ(vBlog )として上げたいところなのですが、動画用のカメラを購入したり、動画編集したりという、お金も暇もより必要となるので、そこは二の足を踏んでいる状況です。

 前置きはともかく。皆さんは最近の報道やSNSを見ていて何か感じたりしませんか?
 立て続けに報道される物価上昇、政府が発表する無作為にも見える増税、進む少子高齢化、諸々の国の課題に余りにも的外れで無策な政府。しかも最近では国内で立て籠もりや強盗、発砲事件もありました。そんな社会状況にも関わらず、総理は子息を総理秘書官にしてますが、その息子が余りにも稚拙な行動ばかりする。こんな幼稚な三十代も、総理の地元では次期国会議員となるわけですから、情けないにも程があるというもの。

 世界に目を向ければ、ロシアが一月で終わると言っていたウクライナ侵攻は泥沼化し、極東アジアでは中国とアメリカの覇権争いが続き、情勢は不安定化しています。またLGBTQという、生物の根幹の意識をおかしくするような運動も起きています。

 私が若い頃、四半世紀にも渡り「広宣流布」という創価学会の理念に共感し、命がけで組織活動をしてきたのは、こんな社会にする為では無かったのですが、創価学会が発展し、公明党が政権与党となり四半世紀近く経過、蓋を開けたらこの始末です。私が若い頃に語り合ったのは、「公明党が政治のイニシアチブを取ったら、凄い事になるぞ!」という事でした。でもどうでしょう、これだけ国がグダグダになるのは、日本の戦後史でも類を見ない事ですし、良くもまあ、創価学会としてこれだけ日本の民主主義を破壊しまくったモノだと思います。この事を青年部時代に共に活動してきた今の地元幹部に話をしても、恐らく理解できない事でしょう。彼らの思考は既に手段の目的化が進み、物事への捉え方がおかしくなっていて、その事すら本人達は理解できない状況なのです。

 この日本の課題を解決するには、すでに頓服の様な速攻で効果のある「処方箋」は存在しません。例えば政治的な問題を解決するにしても、政権与党が「糞(クソ)」であれば、野党は「吐瀉物(ゲロ)」の様な存在です。政治的問題を解決する方法の一つは「政権交代」なのですが、すでに日本の政治状況は「糞を選ぶか、それとも吐瀉物を選ぶのか」という状況までなってきており、これでは政治的な白けも進行すれども、みな諦めモードにもなるというものです。これを解決するには、日本人として歴史観からまずは見直し、そこから教育を見直していく事しかありません。しかしこれはとても時間を要するもので、そもそも歴史観すら長年の戦後教育の中で壊されてしまい、教育現場も崩壊に近い状況です。

 私が思うに、今の日本を立て直すには、「霊性」という事をまずは真面目に考えなければいけないのではありませんか?

 今の時代、世の中は「唯物主義」に傾き過ぎていて、目に見える事のみ囚われてしまい、目に見えない事をあまりにも軽視しているのではないでしょうか。
 ただこの「霊性」という言葉ですが、大きく誤解を受ける危険性のある単語でもあります。今の社会の中には「スピリチュアルな事」が静かに深く浸透していますが、この言葉はこのスプリチュアルの単語と同義として扱われてしまう危険性もあり、そこからカルトを肯定してしまう言葉にもなってしまいます。しかし私が言いたい「霊性」とは、人間の心の根源に存在するものであり、それけして「目には見えないし、また現在の科学では解釈する事が出来ない事」という意味ですを指します。

 言葉というのはとても難しい事ですが。

 例えば人は何故この世界に生まれてきたのか、そして何のために生きている間、喜怒哀楽や毀誉褒貶の八風に翻弄されていくのか、そしてその先に「死ぬ」という現実により、本人の意志とは関係なく、この世界から切り剥がされてしまうという事。そしてその先には一体なにがあるのか。

 こういった事について、一人ひとりが意識をして、考えていくという事が、今の時代には求められている事の様に思えますし、それ等の解答を得るために人は「霊性」という事について、真摯に考えなければならないのではありませんか?

 例えば法華経の「広宣流布」ですが、この言葉は何も一つの宗教団体の教勢拡大を指す言葉ではありません。日蓮正宗や創価学会は、この四文字の言葉の解釈を我田引水し、あたかも一つの宗教が拡大する事を指す言葉だと信者たちに教えてきました。しかしどうでしょう、創価学会が大きく拡大し、日本国内においても集票力がダントツ一位の組織になったとして、結果が今の日本社会なのです。何か間違えていると思いませんか?

 そもそも宗教の教えにしても、基本は経典だと言いますが、その文字面だけですべてが正確に伝授されるなんて安易なものではありません。文字に書かれた事を個々の人は様々解釈していきますが、そこには百人百様の解釈が生まれてくるものであって、本来、その教えの本義からかけ離れた事が往々にして生まれてきてしまいます。

 法華経に説かれている眼目とは「久遠実成の釈尊」という考え方です。その内容については、このブログのこれまでの記事でも多く言及してきましたが、これは人の心の本質の姿を顕している事だと私は解釈しています。しかしそれはけして「可視化」されるものでもなければ、現代科学で証明できる事でもありません。しかし個々の人が、そういう事に思いを馳せながら、自分自身の「心」と対峙して、その自分自身を理解しようと働きかける事が、今は大事な事だと言う事だと思うのです。

 今の崩壊しつつあるような社会では、一人ひとりがこういった事を、もう少し真面目に真剣に考えない限り、出て来ている問題は解決する事は出来ない様に、私は思えます。

 この「霊性」という事に立脚して、日本人であれば日本の歴史、他の国であればそれぞれの民族の文化と歴史を考えていく事で、世の中の動きは少しずつ変わっていくのではないでしょうか。そしてそれを法華経では「広宣流布」という四文字で示しているのではありませんか?

 今の人類社会で問われているのは、そういう事だと私は考えています。


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