自燈明・法燈明の考察

永遠の指導者―牧口常三郎会長考②

 さて、先日につづいて牧口常三郎会長の事について、書いていきます。
 創価学会の原点ともいえる初代会長の事を、創価学会ではまともに教えていない。これはどうみても組織としてはおかしな話なのです。

 私が活動の一線から離れたのは十年以上も前の話。青年部の時には、それなりの立場にいましたので、活動から離れた時に、地元組織の中に様々な噂を提供したようで、幾人かの先輩が私の処にやってきました。先輩の多くは地元の区幹部とかでした。しかし中には活動から離れた先輩もいたのです。

 活動から離れた先輩も、離れた理由は私と同じ理由でしたが、その原因に対する視点が違っていました。先輩の殆どは「創価学会が人間を見なくなり、人間味がなくなった」と言い、その理由については「池田先生の御心を忘れた幹部ばかりになった」と嘆いていましたが、私は違いました。

 私が考えていた原因とは、そもそも創価学会の思想性に問題があり、池田先生と言ってもその思想の上で指導をしていた訳であって、創価学会の問題とは、そんな根の浅いものでは無い。そう思っていたのです。

 だから活動を離れた先輩とも距離を置きながら、様々な事を自分なりに調べ、ここまでやってきたのです。

◆大日本皇道立教会との関係
 最近になりネットでも多く取り上げられてきた事で、一部では認知されてきていますが、牧口会長は明治44年に設立された「大日本皇道立教会」という団体と関係していました。


※写真前列中央は秋月左都夫、後列左端は牧口氏、後列右から2人目は児玉誉士夫氏(戦後右翼のフィクサーと呼ばれた人物)

 この大日本皇道立教会の目的は「南朝を正統とし、その皇道に沿った教育を行う趣旨」として設立されたとされていますが、設立された明治44年には天皇暗殺を企てて幸徳伝次郎、菅野スガら十二名が処刑されるという事件が発生していました。(大逆事件)この事件の背景には室町時代にあった南北朝という事から天皇の正統性に対する問題がありました。首謀者の幸徳秋水が主張したのは「いまの天子は、南朝の天子を暗殺して三種の神器をうばいとった北朝の天子ではないか」という事で、この発言が法廷で為された事をキッカケに国定歴史教科書「南北朝正閏問題」がおこるに至ったと言われています。

 この教会と関係した当時、牧口氏は白金尋常小学校の校長を務めていた時代で、「人生地理学」の著作を通じて、新渡戸稲造や柳田邦夫、また国粋主義者の志賀氏との交流もあった様です。それらの人脈を通じて、教科書に関連する問題もあった事から、この教会に参加していたのではないでしょうか。

 この皇道立教会については、ネットでは創価学会の母体はこの教会という説も飛び交っていましたが、私はそれは無いと思います。確かに写真に写っている秋月氏も創価学会の設立に関与していますが、それだけで即、この組織が創価学会の源流と決めるのは聊か早計だと思います。

 ただこの大日本皇道立教会で得た人脈も、後の創価学会が関係する人脈(例えば戸田会長と岸総理の関係等)も出来たという事は、容易に想像する事が出来ます。(まあ戦後右翼のフィクサーもいましたけどね・・・・この教会には)

◆国柱会への接近
 先の皇道立教会との関係は大正時代の話ですが、同じく大正時代に牧口会長は国柱会にも接触を図っていました。実はこの辺りの牧口会長の行動の記録はあまり残っておらず、明確な事が解らない事も多いのですが、竹中労氏の「庶民列伝―牧口常三郎の生きた時代」によると、大正五年(1916年)に、田中智学氏の講義を聴講するために国柱会館に通ったという記載がありました。

 この国柱会は、大正時代から昭和初期(戦前)にかけて、活発に活動をしていました。国柱会の会長の田中智学氏は、もともと身延派日蓮宗の僧侶だったのですが、出家の立場では限界を感じ、還俗して在家という立場になり、在家により日蓮宗の伝統的な宗門を改革する事を目指して設立した団体でした。団体の目的は、分派した各法華宗・日蓮宗宗派の統一、更には法華一乗のもと全宗派、全宗教の統一(一天四海皆帰妙法)のための宗教革命、ならびに皇祖皇宗の日本国体を法華経のもとに体系化することでした。

 最近では自民党の三原じゅん子参議院議員が「八紘一宇」という言葉を国会で述べて、議論を呼びましたが、その言葉も田中智学氏の言葉です。

 この国柱会には著名な会員が居ました。代表的なところでは宮沢賢治(詩人)、近衛篤麿(政治家で近衛文麿の父)、石原莞爾(陸軍軍人)、北原白秋夫人です。
 牧口会長は「人生地理学」という事を研究していましたが、これは地政学的な内容で、国土とそこに住む人々というものが研究対象とした学問でした。日蓮は「立正安国論」で、同じく国土とそこに住む人について論じていますが、牧口氏はそういう日蓮に興味を持ち、日蓮の仏教に接近したとも言われています。

◆三谷素啓氏との出会い
 牧口氏が日蓮正宗に入信したのは昭和4年(1929年)、三谷素啓氏という人物から折伏されて入信したと言います。この三谷氏は常在寺に所属する「大石講」の幹部だと言われています。この事については、評論家の平野計氏によると、以下の様だと言うのです。

「三谷氏の日蓮正宗教学の理解は日蓮正宗の主流派の教義解釈と違って、明治初年に日蓮正宗の中でおこった有力な異端的在家運動である完器講の系統といわれる。」

 この三谷素啓氏については、作家の柳田国夫氏が「故郷七十年」と題する文の中で、以下の様に触れています。

「富士山の麓にいくつか日蓮宗の寺があるが、牧口君はそのうちの本門寺というのに参り出した。その原因として三谷という一人の面白い人物が介在していた。
どうも正体の判らない変った人物で、盛んに嘘をついた。
ところがいくつかの珍しい妙薬をもっていて、大して大きくない塗り薬とか、煎じ薬とかであったが、それが不思議に良く効いた。
それで私はいつか聞きに行ったことがある。
貴方どうしてそんなにたくさんいろんな薬の秘密を知っているかといったところ、やはり嘘の返辞をした。

 シナの牛荘(ニュウチャン)から何十里とか何百里とか入った所に旧いお寺があって、いろんな珍しい物が伝わっているのみならず、大変な書物をもっていた。

そんないかにも私の喜びそうな話をしてから、三谷はそこにしばらくいて、そこで覚えて来たというのだが、聞いているうちにでたらめが判るような話ばかりであった。
それが本門寺の信徒だったわけである。
 牧口君とは早くから知り合っていた間柄らしく、牧口が私に『一度三谷君に会って御覧なさい、三谷君の所に面白い薬がありますよ』といって紹介してくれたのが最初であった。私もその薬の恩恵だけは受けているが、その成分は少しも知らせてくれなかった。その男が牧口君を仏教の方へ導いていった。」

 この柳田国夫氏の文によれば、牧口会長は「本門寺」を訪れた事になっていますが、これは「北山本門寺」の事であり、大石寺の系統ではありません。この事について、先に引用したブログの管理人の大木氏は以下の様に書いています。

「35年ほど前にこの文章を初めて読んだときは柳田の勘違いかと思ったのだが、その後、昭和51年に、北山本門寺の僧侶、故・早川達道師に聞いた話では、牧口は昭和2年ころに何度か北山本門寺を訪れている。
創価教育と日蓮について自説をいろいろと話して、
「本門寺の信徒になりたいといったが、あなたの考えは日蓮聖人の教えとは違う、といって帰ってもらった」
ということであった。」

 つまるところ、牧口氏の持論は北山本門寺には受け入れられなかったという事であり、後に常在寺信徒となり、そこで大石寺のもとで創価教育学会を設立したものという事なのでしょう。

 こういった牧口初代会長の歴史を知る人は、創価学会の活動家の中には一人もいないでしょうね。それは即ち自分達の根源を知らないという事なのです。


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