今日の関東地方は涼しくて過ごしやすい陽気でした。とは言え、天気は曇ってスッキリしてませんでした。こんな陽気のなか、私は家族と出かけていましたが、車も多くなりましたね。
世の中はシルバーウィークなので、あちらこちらに出掛けているのでしょう。でも新型コロナウィルスの感染症は未だ終息していないので、十分に気を付けて過ごさないといけません。
さて今日の本題です。私の嫁は地区婦人部長をしていますが、その動きを見ていると「進む会」の拡大とか、なにやら政治的な動きをし始めています。麻生氏も10月解散説なんて以前に漏らしてましたが、もうそろそろ選挙の動きになるんでしょうか。来年には東京都議会選挙もありますから、公明党(創価学会)には微妙な時期ですね。
日本の歴史を見ると、国政に関わる人間で日蓮門流だった人物がそこそこいます。NHK大河ドラマ「麒麟が来る」で話題になりましたが、斉藤道三も日蓮宗の元で出家しましたし、大石寺の山門を寄進したのは江戸幕府6代将軍・徳川家宣の正室、天英院でしたね。また幕末に薩摩藩の島津家も大石寺に関係していた節もありますが、これは徳川幕府に近づきたいからという事があったようです。
近代で言えば、ニニ六事件の首謀者の青年将校達の精神的支柱であった北一輝、国柱会の田中智学、そして帝国陸軍の将軍で「世界最終戦論」を著した石原莞爾も日蓮を信奉していたのは歴史的な事実です。そして牧口会長、戸田会長、池田会長の系譜で公明党が結党し、その政党は今や日本の政権与党に喰い込んでいます。
なぜ日蓮信奉者は、この様に国政等に喰い込んで来るのでしょうか。そしてその一部は日本の進む方向を狂わせてしまう事に加担すらしています。これは何故なのでしょうか。
ここからは私の完全なる私見です。
日蓮は法華経を中心とした仏教界の構築を目指しました。これは立正安国論に見えています。そしてその事により国家を安寧に出来ると確信、時の鎌倉幕府とは対立しました。まあ、正確に言えば鎌倉を京の都に負けない文化都市とする事を考えていた幕府の要人と、それに連なり権勢を得ようとしていた鎌倉仏教界から日蓮は睨まれ、対立してしまったのです。
そこから日蓮の生涯とは、幕府・鎌倉仏教界との命がけの闘争の生涯になったのです。
日蓮は天台教学を足場として法華経を「身読」、自身は末法の法華経の行者であり、法華経に説かれている地涌の菩薩の上首、上行菩薩の再誕という自覚のもとで生涯を送りました。そして「種種御振舞御書」という、いわば自伝ともいえる書簡の中で、以下の様に語っています。
「此れはそれにはにるべくもなし教主釈尊の御使なれば天照太神正八幡宮も頭をかたぶけ手を合せて地に伏し給うべき事なり、法華経の行者をば梵釈左右に侍り日月前後を照し給ふ、かかる日蓮を用いぬるともあしくうやまはば国亡ぶべし」
(種種御振舞御書)
ここでは自身(日蓮)を用いるとも「あしく(悪しく)うやまはば(敬えば)国亡ぶ」と述べています。これは一義的には、教主釈尊の使いであり、日本古来の神である天照大神や八幡大菩薩でさえ、信じ伏す立場である私(日蓮)を粗雑に扱うのであれば。という意味に読み取れます。しかし一方で、日蓮が「あしく(悪しく)」という事を使うのは、単に「粗雑」という意味合いだけなのでしょうか。
例えば日蓮が「悪法」と「正法」という言葉を使う時、悪法は「悪い法」と解釈します。しかしそれは何故「悪法」であるかと言えば、法の真意をくみ取らずに「間違えた解釈」をもって法の真意を曲げて解釈する事を悪法と言っています。その様に考えるのであれば、日蓮を「悪しく敬う」という事についても、日蓮の真意をくみ取らずに、間違えた解釈を以って敬う事を指す事にはならないのでしょうか?
日蓮の生涯とは常に権力側との闘争でした。ある人の言葉を借りれば「常に刃の下に身を置いた生涯(何時殺害されるか分からない)」という人生でした。また僧侶であり、日蓮自身、理論的な思考の人物であった事から、他宗の僧侶や時の幕府を相手には常に「文証・理証」をもとに「現証」という事を重要視をしてきました。
正しいものは、勝つ!
勝つ事で正しさを証明する!
自身の持つ理論武装で、相手を組み伏せる!
日蓮の歴史的評価とは、常に「独善性」と「排他性」という色で観られています。そして近年の創価学会の活動により「勝他(他者に勝れる)性」という角度で語られもします。
「仏法は勝負!」
「正義は必ず勝つ!」
「勝ちまくれ!」
でもですね。果たして日蓮が生涯をかけて残したかった事は、そういう事だったのでしょうか?
私が先に述べた日蓮門流で「一部は日本の進む方向を狂わせてしまう事に加担」するという要因ですが、実はこの日蓮の本意に関する無関心さ、誤解があるのではないでしょうか。その結果として「用いぬるともあしくうやまはば国亡ぶべし」という、日蓮自身の言葉をそのままの事を現出してしまうのではないか。
最近、その様に感じてしまうのです。
日蓮の生涯は、確かに鎌倉時代の僧侶としては「破格」です。いや、鎌倉時代の僧侶というより、日本の歴史上にいた名僧の中では、型破りと言っても良いかもしれません。しかし、そういった外の姿ではなく、日蓮の内面について、もっと深く調べて理解する必要があるのではないか。そしてその上で、日蓮の残した教えという事について、考え直す必要があるのではないか。
その様に思うのです。
まあこういった事は、何も日蓮門流だけに該当するものではなく、世の中にある宗教全般に言える事だと思いますが、そういった事についても吟味する必要がある様に、私は考えているのです。
今の日本は混乱と凋落の一途を辿っていると感じます。そしてそこには創価学会(公明党)の関与が大きく影響しています。功徳という御利益を主眼とし、宗教活動として選挙を行う。これは結果として民主主義の根幹に対する破壊行為です。
今一度、日蓮という事についても考えてみる必要があるのではないでしょうか。