自燈明・法燈明の考察

憲法記念日に考える事

 今日、とは言ってももう夜中ですが、本日は「憲法記念日」ですね。この時期になると日本の中では「護憲派」と「改憲派」で毎回議論が巻き起こります。
 その議論の中で中心になるのが、護憲派は憲法改正は日本の軍国主義化につながり、結果として日本は戦争する国になってしまうという事を主張し、改憲派は日本が少しでも軍備を持って独自に自国を守れる国にしなければいけない。そんな議論が常に交わされているのではないでしょうか。

 私が小学生から高校生、そして二十代の頃まで教わった憲法の話というのは、日本は太平洋戦争で国民が悲惨な経験をし、またアジア諸国にも多大な被害を及ぼしてきた。その経験から戦後、日本は憲法九条を定め、戦力の放棄を高らかに謳い上げ、不戦の誓いをして、そして戦後の平和国家となれたんだ。この憲法があったからこそ、太平洋戦争以降、日本は戦争を起こさないし、戦争に巻き込まれないで来れたんだ。そんな話でした。

 しかし四十代を過ぎた頃、改めて世界の状況を自分なりに調べ、考えた結果として、この若い時代に教わって来た事は正確ではないという事を理解するに至りました。

 そういう意味から言うと、私自身は改憲派に属するものになると思います。

 まず初めに、私は日本国憲法の前文に大きな問題があると考えています。この事はこのブログでも過去に触れてきましたが、改めてここにその部分について述べてみたいと思います。

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。

 まずはこの憲法前文の赤字部分について。
 今の人類社会の各国の国民というのは、この前文にあるように「平和を愛する諸国民」という心は当然の事、持ち合わせて居ます。むしろ「平和を愛しない」「平和を不要とする」という国民はかなり少数でしょう。そしてこの憲法前文では、日本の国家、そして国民はその「平和を愛する諸国民」の公正と信義に信頼して、自分達の安全と生存を保持しようと考えているというのです。

 これだけ読むと「ふむふむ、なるほど」となるでしょう。しかし忘れてはならないのは、人類発祥の時から、人々は常に平和を求めてきました。しかしそういった人々の思いとは別に、その人々の権益代弁者だる国家やその指導者の下、つねに戦争は行われてきたという現実を、私たちはまず理解しなければならないと思います。
 一つ、具体的な例を挙げましょう。アメリカ合衆国の中で生きているアメリカ国民は、日本人よりも恐らく戦争の悲惨さを理解していて、だからこそ平和という事を求めていると思います。しかしアメリカ合衆国という国家は、太平洋戦争以降も常に戦争を欲して世界各地で戦争をしてきています。いくらアメリカ国民が平和を求めようと、アメリカ合衆国という国家は戦争を起こしてきたのです。

 戦争を起こすのは常に国家であり、国民が起こしている訳ではありません。

 そういった国民(諸国民)に幾ら公正と信義を求め、そこに日本国や日本民族の生存を保持しようと決意したところで、けしてそんな事は叶う事ではないと思いませんか?
 考えなければならないのは、こういったずれた認識のために、その「諸国民」の利益代弁者としての外国(国家)によって、結果として日本という国家、そしてそこに住む民族は徹底して利用され、搾取される危険性を孕んでしまう訳であり、それをこの日本国憲法ではどの様に防ぐ事が出来るのでしょうか。

 憲法というのが国家の理念を示すものであれば、この国際社会の中にひしめき合う国家の中で、日本国が、どの様に立ち居振る舞いするかについて明確に記すべきであり、「諸国民」というあいまいな事を示し、そこに国家や民族の生存を保持するなんて事は書くべきではないと思うのです。

 また戦争とは常に国家外交と共にあります。国家間で権益がぶつかり合い、外交交渉が決裂、もしくは折り合いがつかなくなった時点で戦争というのは発生します。今の国際社会において、その外交のための「カード」として軍事オプションが存在します。であれば日本は他国と対等な交渉をする上で、この軍事オプションを放棄するのは間違いです。そして軍事オプションを持つ為にも、憲法上には「軍司法」についても明記すべきなのです。
 世界各国の軍隊というのは、各国の国内法の枠外に存在し、国際法上で行動できる組織です。それが故に国内法とは別に「軍法」を定め、その軍法を司るために軍事法廷(軍法会議)を設置し、その軍法を軍隊に遵守させるために軍警察(憲兵)組織を持っています。

 よく日本の護憲派は自衛隊を軍隊と呼びます。確かに自衛隊の組織体制や装備は世界でも有数の軍隊でしょう。しかし彼らの法律的な身分は飽くまでも「国家公務員」であって、軍人ではありません。何故なら自衛官は軍司法の下で動く訳ではなく、どこまでいっても原則的に日本国内の刑法などの法律の下で動いているからです。

 こういう事も憲法には当然の事、明記をしなければならないでしょう。

 確かに日本国憲法には国民主権が示され、基本的人権の尊重が示されています。しかし平和主義に関しては、言葉が悪いのですが、あまりにも理想主義的な色合いが濃く、現実に即していません。故にその部分については再考されるべきではないでしょうか。この軍事オプションを持つ事、そしてその上で国家間で平和の関係を築くための理念を、日本国としてどの様に考えるべきなのか。それは単に「加憲」なんてレベルで済む話ではないのです。

 あと一つ。

 いま日本国内の改憲を主張する人達は、日本が軍事オプションを持つ事、そしてその為に必要であれば国民を如何に統制すべきなのかを考え、中には「愛国心」や「忠誠心」の様な言葉を論じ、あたかも戦前への安易な懐古心を煽る言動をする人達もいます。ただ今の日本で如何に「軍事オプション」を持とうとしても、国家間の外交交渉を担い、その軍事を明確に理解し、軍隊を指揮統率できる政治家が、果たして日本にどれだけいるのでしょうか。そういう観点の議論は何もされていません。簡単に言えば、日本の政治レベルで「シビリアン・コントロール」が果たして出来るのでしょうか。

 実は憲法で示すべき平和主義も、そういった国家としての能力の上にこそ成り立つべきであり、単に軍隊を持ち、安易な懐古主義などで解決できる問題ではないのです。そこについても、改憲派の方々にはより一層の問題の深堀をして欲しいと思っています。

 そもそも平和主義、国際社会の平和というのは、単に一国の憲法で実現できるレベルの問題ではありません。人類が根源的に持ち合わせて居る「カルマ(宿業)」と向き合わなければ、実現できない問題であり、それをたかが一国の憲法の問題とオジやに議論すべきものでありません。そういう事を少しは知るべきではありませんか?


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