創価学会では「御本尊」と言えば、今でも堅樹院日寛師が栃木県の浄圓寺に与えた文字曼荼羅を御形木本尊として授与しています。2014年11月の教義改正で、弘安二年の大本尊を「謗法の地」にある事から、受持の対象とはしないとしましたが、その後、創価学会として新しい文字曼荼羅を出すかと言えば、未だに出していません。
堅樹院日寛師によれば、各家庭に安置する文字曼荼羅は「義理の本尊」てあり、それは枝葉だとして根源ではなく、あくまでも根源は弘安二年の大本尊であると定めています。だから創価学会の活動家が安置している御本尊も、日寛師の教えによれば、その根源は弘安二年の大本尊になる訳です。
その日寛師の教えを2014年11月に原田会長は否定をしました。しかしその日寛師の文字曼荼羅を未だに御本尊として授与している事に、創価学会の活動家幹部たちは、何ら矛盾を感じていない様です、これは今の創価学会の教学的な意識が、その程度であるという事を表しています。
まあ理屈はともかく、功徳(ご利益)が得られれば何ら問題ないと思っているので、活動家幹部達は、この事を特に問題視すらしない訳ですね。原田氏も教義改正の談話で「学会員は多くの功徳を受けてきた」という事を根拠に、創価学会が御本尊認定の権能があると主張していましたからね。
つまり創価学会が持つ広宣流布の団体の自覚というのも、教学的な事ではなくて、ご利益体験の多さを背景にしているからですが、これの考え方が、実は創価学会は日蓮の思想性からは既に乖離をしている事を如実に示しているのです。
日蓮は唱法華題目抄で語ります。
「但し法門をもて邪正をただすべし利根と通力とにはよるべからず。」
唱法華題目抄では法華経以外の聖人や賢人が、物凄い能力を示した事をあげ、それらの人々がいて様々な教えがあるにも関わらず、何故、法華経を大事にしなければならないのか、という質問に対してこれは回答した言葉です。
法を語る人が如何にすごい人であろうと、人並みはずれた能力を示そうと、その法の正邪については法門を以って正すべきである。これが日蓮の考えであったのです。
各人の御本尊に自行化他にわたる題目を唱えて絶大なる功徳を受け、宿命転換と人間革命を成就し、世界広布の拡大の実証を示してきたのです。
まさに、これが会員が実践し、実感しているところなのであります。
創価学会は、大聖人の御遺命の世界広宣流布を推進する仏意仏勅の教団であるとの自覚に立ち、その責任において広宣流布のための御本尊を認定します。
まさに、これが会員が実践し、実感しているところなのであります。
創価学会は、大聖人の御遺命の世界広宣流布を推進する仏意仏勅の教団であるとの自覚に立ち、その責任において広宣流布のための御本尊を認定します。
上に示した言葉は原田氏の見解ですが、ここで「功徳の実感」を元に自分達が「仏意仏勅の教団」であるとし、そこに御本尊認定の権能があると言っています。しかし日蓮の言葉を以って考えるのであれば、創価学会として本来、自分達に御本尊認定の権能があるというのなら、法門を以って語るべきなのです。
でもここで少し考えなければならない事があります。
唱法華題目抄では、日蓮の考えていた「本尊と行儀(修行)」について、語られています。
「問うて云く法華経を信ぜん人は本尊並に行儀並に常の所行は何にてか候べき、答えて云く第一に本尊は法華経八巻一巻一品或は題目を書いて本尊と定む可しと法師品並に神力品に見えたり、又たへたらん人は釈迦如来多宝仏を書いても造つても法華経の左右に之を立て奉るべし、又たへたらんは十方の諸仏普賢菩薩等をもつくりかきたてまつるべし」
日蓮は本尊について法華経八巻、もしくは一巻、もしくは一品、もしくは御題目を本尊として定める事が、法師品と神力品に見えているとあります。そして余裕があれば、釈迦仏や多宝仏を(文字として)書いたり、(仏像として)造ってもよく、それを法華経の左右に奉るべし、とあります。また余裕があれば十方の諸仏や普賢菩薩も同様にしても良いと述べています。
これを見ると、本尊とは信仰の際のシンボルでもある様です。そして日蓮もその事を、後に自身が顕した文字曼荼羅を取り上げ、以下の様に述べています。
「爰に日蓮いかなる不思議にてや候らん竜樹天親等天台妙楽等だにも顕し給はざる大曼荼羅を末法二百余年の比はじめて法華弘通のはたじるしとして顕し奉るなり、是全く日蓮が自作にあらず多宝塔中の大牟尼世尊分身の諸仏すりかたぎ(摺形木)たる本尊なり」
(日女御前御返事)
この日女御前御返事では「法華弘通のはたじるし」と述べ、文字曼荼羅も「日蓮が自作にあらず」と明確に言っています。この文字曼荼羅は日蓮が自作ではなく、あくまでも法華経にある姿をシンボルとして表現したものだとここで言っています。だからそもそも「御本尊の認定」なんて言葉は変な話なのです。御本尊認定の権能というのは、本来、日蓮門下では存在しない事であり、単に宗教団体の都合上、自分達が勝手に主張しているに過ぎないのです。
まあ、そもそも何故、創価学会がその様に主張するのか。そこには対宗門に対する対決姿勢と、会員活動家を「文字曼荼羅」の元に縛り付けておきたいという、創価学会独自の思惑もあるのでしょう。
またこういう事を語ると、今度は宗門から「御本尊開眼の権能」とか「法魂」という様な血脈主義の事が語りだされるのですが、その件については、別の機会に書いてみたいと思います。
唱法華題目抄を読んで考えた事については、今回で一旦終わりとしますが、最後に宮沢賢治氏が、自身の手帖の中に記載していた文字曼荼羅について紹介します。
宮沢賢治氏は国柱会に属して、日蓮の仏教思想を元に様々な物語をこの世界に残しました。そしてその物語は現代でも多くの人達に読まれ、様々な事を人々の中で語り続けています。
宮沢賢治氏が人生を生き抜いた背景には、恐らく日蓮の仏教思想があり、彼の思想背景を支えたのには、この手帖に記されている文字曼荼羅でもあったのではないでしょうか。
本尊なんていうものは、そういう存在で十分だと私は最近、考える様になりました。