自燈明・法燈明の考察

創価学会が本来信じるもの➂

 昨日書いた記事では、日蓮の文字曼荼羅についての私見を書きました。確かに日蓮の文字曼荼羅とは独創的なものかもしれません、しかしそれは単なる御利益を得るための「お札」という様な扱いでよいのでしょうか。人間には「思考を具現化する」という能力があると私は常日頃から考えています。多くの宗教では「祈る事」を教えますが、この祈る事によって、人の中にある「思考を具現化する」という能力が発動し、「祈りが叶う」という体験を得られるのかもしれません。でももしそうであれば、その能力によって、本来大事な事が見えなくなってしまうという事もあるのではないでしょうか。

 日蓮の文字曼荼羅は、日蓮の捉えた一念三千という思想をシンボル化したものという事を、前回の記事では書かせてもらいました。けしてこの文字曼荼羅は御利益を得るための「お札」や「掛け軸」では無い。これが私の考えです。

 こうなると、教義はどうなのでしょうか。創価学会は元々が日蓮正宗大石寺の信徒団体(講)として始まった事から、その持つ教義というのは大石寺の教義に準じた内容であったはずです。しかし2014年の教義改正で創価学会は以下の様に述べました。

日寛教学や、相伝書等についても、慎重に研究を重ね、より普遍的な創価学会教学の構築へ一層の前進を図りたい。

 ここで大石寺の基本教学である日寛師の教学について、創価学会として見直しを図るという事を言っていますが、今に至るまで具体的に研究を重ねたとか、普遍的な教学などというのは確立されていません。恐らく今の創価学会では、日蓮正宗の論客と対論になっても勝つ事は出来ないでしょう。ただ教学を見直すという事であれば、しっかりと本義を見直しして欲しいものですが、その際に御書なり経典をしっかりと紐解き構築してほしいものですね。



 さてここで経典という事について、少し私の考え方を書いてみます。

 日蓮の考えている本尊とは文字曼荼羅だと大石寺教学では述べています。しかし一方、日蓮在世の門下の中では釈迦仏立像などを本尊として、日蓮に開眼供養の相談があったようで、それに関する日蓮の御書として「木絵二像開眼之事(法華骨目肝心)」というのがあります。この御書は日蓮正宗では創価学会への偽本尊の破折の論拠として用いていますが、よく読んでみると日蓮の仏像に関する考え方が解ります。

仏に三十二相有す皆色法なり、最下の千輻輪より終り無見頂相に至るまでの三十一相は可見有対色なれば書きつべし作りつべし梵音声の一相は不可見無対色なれば書く可らず作る可らず

 仏は衆生を化導するのに全人格で向かいます。その事を私は「三十二相」という言葉に見て取ります。この三十二相というのは仏の姿を端的に表現したものですが、現実にこの姿があったとすれば、それは人ならざる化け物の姿にも見えます。しかし一つ一つの相の意義を考えてみると、そこに「全人格」という事が見えてくると思うのです。
 この三十二相の中で、仏像や仏絵像で表せないものが「梵音声」という事で、是は仏の声であり言葉ですが、日蓮はその事をここで述べています。

仏滅後は木画の二像あり是れ三十一相にして梵音声かけたり故に仏に非ず又心法かけたり、生身の仏と木画の二像を対するに天地雲泥なり、何ぞ涅槃の後分には生身の仏と滅後の木画の二像と功徳斉等なりといふや又大瓔珞経には木画の二像は生身の仏にはをとれりととけり

 釈迦滅後には木で出来た像や絵として描かれた仏の姿があり、それぞれに三十一の相が書かれていますが、梵音声という相は仏像や仏絵で表現出来ません。その結果、仏像や仏画には心が備わっていない事となり、その点を見ても生身の仏と木絵の仏像というのは、まったく違うものになっていると述べています。だから何故、釈迦が涅槃に入った後、生身の仏と木絵で作られた仏の功徳が同じだと言うのか、大瓔珞経のも仏像が劣っていると書かれているだろうと日蓮は、まず自問するのです。

木画の二像の仏の前に経を置けば三十二相具足するなり、但心なければ三十二相を具すれども必ず仏にあらず人天も三十二相あるがゆへに

 そこで木絵の仏像の前に経典を置けば、この仏の三十二相は具足すると言います。ただ何の経典を置くのかによって異なるのであると、ここでは言っています。

木絵の三十一相の前に五戒経を置けば此の仏は輪王とひとし、十善論と云うを置けば帝釈とひとし、出欲論と云うを置けば梵王とひとし全く仏にあらず、又木絵二像の前に阿含経を置けば声聞とひとし、方等般若の一時一会の共般若を置けば縁覚とひとし、華厳方等般若の別円を置けば菩薩とひとし全く仏に非らず、大日経金剛頂経蘇悉地経等の仏眼大日の印真言は名は仏眼大日といへども其の義は仏眼大日に非ず、例せば仏も華厳経は円仏には非ず名にはよらず三十一相の仏の前に法華経を置きたてまつれば必ず純円の仏なり云云

 ここでは木絵の仏像の前に、どの様な経典を置くかによって、仏像の意義が変わってくる事を述べています。仏経典以外を置けば、その仏像は仏教以外の存在になるし、仏教の経典でも、それぞれ置く経典によって、それぞれの仏の意義になると言い、法華経を置く事で「純円の仏」の意義になると言うのです。

 つまり仏像とは言っても、その梵音声としての経典を置く事で、その木絵の仏像は生身の釈迦と同じ事になると言うのです。

 これには「なるほど」と思うのですが、そこで一つの疑問がわきます。では経典だけ置いた時には、そこに仏の意義というのは存在出来るのでしょうか。

 日蓮は本尊として法華経を置く事を、唱法華題目抄では述べています。

問うて云く法華経を信ぜん人は本尊並に行儀並に常の所行は何にてか候べき、答えて云く第一に本尊は法華経八巻一巻一品或は題目を書いて本尊と定む可しと法師品並に神力品に見えたり、又たへたらん人は釈迦如来多宝仏を書いても造つても法華経の左右に之を立て奉るべし、又たへたらんは十方の諸仏普賢菩薩等をもつくりかきたてまつるべし、行儀は本尊の御前にして必ず坐立行なるべし道場を出でては行住坐臥をえらぶべからず

 ここでは法華経の経典、もしくは題目をもって法華経を信じる人は本尊とすべきであり、余裕があれば釈迦仏像などを描いても置いても良いと述べています。こうなると経典が主体であり、三十二相と言っても三十一相については、それに付属する程度のものでしかないという事にもなります。しかしそれでは経典だけを以て仏の化導の姿や働きなどは再現できるという事なのでしょうか。

 人は言葉や文字だけでは、全てを伝達する事は出来ません。人が人に伝達するという事で考えると、経典だけで伝達するというのは、とても困難な事です。だから仏教自体も、釈迦滅後に部派仏教へと分派してしまいました。

 よく創価学会や日蓮正宗の関係者は「法論」や「対論」と言って、経典の端々を使いながら、相手の論点の問題点を指摘します。そしてそういった経典の扱い方が、経典に対する姿勢であると思い込んでいたりします。しかしそもそも仏教では、仏は全人格を以て衆生の化導にあたるとすれば、経典だけを切り取り、その文字だけをもって内容が理解できると言う事は無理があるのではないでしょうか。そうなると、経典に対してどの様な姿勢で向かうのか、そこについても問い直さなければならないのではありませんか?

 人の思想や想いというのは、文字だけでは伝達する事は不可能です。釈迦は常に「対機説法」で法を説いたと言いますが、そこには文字以前に仏と人々との間での「前提」もあれば、当時の人々の「機根」や置かれている状況が大前提である訳です。経典で説かれた言葉とは、そういう「背景と大意」が前提としてあった文言であるはずです。

 教義に対して相対するのであれば、そういった事にも思いを巡らさない限り、仏教の中にある「本義(本来の意義)」というのは、理解出来ないのではないでしょうか。要は経典も仏の三十二相のうちの一相である「梵音声」という事であれば、自ずとその様な事を指すのではないでしょうか。

 こういった事についても、よくよく考えてみなければならないと思いますよ。

(続く)


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