自燈明・法燈明の考察

本尊書写について

 連休もまもなく終わります。私は今回、十一連休を取ってはみましたが、どこかへ行ったというのは、先日、山梨県の湖に一人で釣りに行ったくらいで、あとは自宅で動画三昧の日々でした。ただこれだけボーッと過ごす事は久しぶりで、かなり肩の荷が降りた感じがしました。来週からまた怒涛の仕事(とは言っても在宅ワークは変わらずですが)があるので、その前に良い息抜き期間が取れたと思っています。

 さて今回は久しぶりの記事になりますが、少し日蓮の文字曼荼羅について、思う事を書いてみたいと思います。お時間のある方はお付き合い下さい。



 創価学会では、今は堅樹院日寛師の文字曼荼羅を授与していますが、過去には日顕師、また日達師の文字曼荼羅を授与していた時期がありました。正確に言えば日蓮正宗が下附していた文字曼荼羅を、創価学会としても受けていたもので、第二次宗門問題以降、創価学会は宗門から破門され独自の伝手をもって、栃木県常圓寺所蔵の日寛師の文字曼荼羅を独自に複写、授与を始めたわけです。

 創価学会とは元々が日蓮正宗の信徒組織であり、その事から本尊についても当然、日蓮正宗のものを受けていたものであり、その宗門から破門されたら、当然、本尊の下附は止められてしまいます。宗門にしても、自分たちとは違う組織と判断すれば本尊を授与する義務は無くなります。
 それから数年間、創価学会では授与する本尊も無いことから、いわゆる「折伏」という活動は無くなり、「会友拡大」という緩い活動をしていました。しかし池田氏は「心配ない」と常に会員に語り掛け、その先にあったのが浄圓寺所蔵の日寛師の本尊の授与だったのです。

 この常圓寺の日寛師の文字曼荼羅を、創価学会として「入手」してから、また御本尊授与の活動が再開されました。ただこの当時、創価学会の中でも散発的にですが、本尊論議というのが、青年部(特に広宣部)を中心に行われていました。それはどうせ宗門と袂を分けたのだから、創価学会独自の本尊を作っても良いではないか、という類のものでした。具体的には池田会長が本尊書写をしても良いという議論でした。(ちなみにこの論議と言っても、私の周囲にあった話で全国的に議論があった訳ではありません)

 第二次宗門問題の当時から、宗門は「(日蓮から代々血脈を受け継ぐ)法主が開眼供養していない本尊は偽本尊だ」という主張を述べていました。一方、創価学会では「法主の開眼は不要。生死一大事血脈抄にある信心の血脈以外、特別な血脈など無い」という主張から、創価学会としてこれまでの実績(本尊授与数など)を元に、「和合僧団の総意に基づき」日寛師の御本尊授与と行うと言っていました。

 この当時の創価学会の主張では、真に日蓮大聖人からの「信心の血脈」を受け継いでいるのは創価学会であり、日蓮正宗は日顕師が大謗法を犯した法主であり、その法主に率いられた宗門には信心の血脈は既に無く、創価学会こそが日蓮大聖人からの正統な仏法を受け継ぐ団体だと言っていました。だから「真の日蓮正宗とは創価学会なんだ」という事も、その当時、組織的に内部では言っていたのです。

 宗門の主張する「法主のみの血脈」は無く、文字曼荼羅に御題目を唱え功徳が得られるのは「信心の血脈」によるものだ。また歴代法主は一閻浮提総与の大御本尊を書写しているだけ。この御本尊は相貌にこそ意義があれ、その相貌を書写できるのであれば、誰が書写しても構わない。だから池田先生が書写したとして、一体何が問題あるのか。

 これが当時の内部の議論だったのです。

 しかし創価学会として踏み切れなかったのは何故なのか。これは当時の創価学会の中でも御本尊(日蓮の文字曼荼羅)については、かなり機微な議論であり、理論的に池田先生が書写して問題がないとして、もしそれを実行すれば、恐らく「創価学会の信心」に疑問を持って創価学会から脱会する人達が多数出てしまうだろう。だから当面は日蓮正宗の法主の書写した本尊で無ければならない。そういう事だと考えていたのです。
 要は創価学会としては「日蓮正宗の正統教団」という筋だけは違わず、その路線の上で「日顕宗」と宗門側を責めたてる事との整合性を重要視していました。つまり本尊の書写は貫首(法主)の権能だとして、そこは侵さず、その貫首が書写した本尊を複製するという立場を以て、整合性を持つ事にしていたのです。

 しかし2014年11月に創価学会は会則改正に伴い教義改正を行いました。そこでは創価学会の御本尊を認定するのは創価学会にあるとしました。また日寛師の教義についても「日寛上人の教学には、日蓮大聖人の正義を明らかにする普遍性のある部分と、要法寺の法主が続き、疲弊した宗派を護るという要請に応えて、唯一正統性を強調する時代的な制約のある部分があるので、今後はこの両者を立て分けていく必要がある。」と言い、「日寛教学の一大秘法、六大秘法という用語は、今後用いない。」としました。
 日寛師の三大秘法や六大秘法とは一大秘法である「本門の本尊(一閻浮提総与の大本尊)」を開いた義の論であり、創価学会としてはこの日寛師の述べた一大秘法が「本門の本尊」であるという記述は日蓮の御書には無いから用いないとし、この日寛師の論を破却しました。これにより大石寺の大本尊(一閻浮提総総与の大本尊)も、日寛師の本尊も、また日蓮書写の本尊も、総じて「本門の本尊」であるとしたのです。そしてその上で、何れを本尊とするのかは、創価学会が認定するとしたのです。

 しかしそれから数年以上経過しましたが、創価学会としては浄圓寺日寛師の文字曼荼羅を「御本尊」としたまま、今に至っています。まあ認定権は創価学会にあるとしたので、そこ自体は問題ないと考えているのでしょう。

 ただどうなんでしょうね。いくら「屁理屈」を積み重ねたとして、道義としてこの有様は正常なものなんでしょうか。

 賢樹院日寛師の教学は、それまでに日辰師の教学を押しのけて、大石寺を中心とした富士門流の中心教学となったものです。これは日寛師の生涯かけての研鑽の賜物であったはずです。それを後世の創価学会が安易に解釈変更し、今後その中心義である一大秘法・三大秘法・六大秘法を用いない(捨て去る)と言いながら、その日寛師の本尊をそのまま本尊とし続けるのは、やはり日寛師に対して大変失礼な話ではありませんかね?

 またもう一つ。既に大石寺とは異なる宗教団体となったのですから、何時までも大石寺の歴代貫首が書写した本尊を用いるというのも、これは道義的にはおかしな話ではないでしょうか?
 例えて言えば、オウム真理教の麻原彰晃を尊師とはしない!と言いながら、麻原彰晃の写真を拝んでいたら、それはオウム真理教と変わりないではありませんか。日蓮正宗を未だ「日顕宗」と言いながら、その日蓮正宗の貫首の書写の本尊を、未だ本尊として祈る対象としているのは、道義的な理屈に合いません。

 日蓮直筆の文字曼荼羅は現在のところ、約123体あると言います。しかしそれらはそれぞれ所蔵寺院等があって、勝手に印刷する訳にも行かないのでしょう。また123体あっても「十界曼荼羅」の形式のものは限られています。また日興師の本尊も探しているという話もあったりしますが、未だ日寛師の代わりになる文字曼荼羅を、創価学会として見つけていないやにも聞きます。

 この際なんですから、創価学会として、池田大作の名前で文字曼荼羅を作れば良いのではありませんか?

 「人法一箇」という意義に拘るのであれば、中心首題は「南無妙法蓮華経 日蓮在御判」で構わないでしょう。また二仏並座や四菩薩の構図も解っている事です。菩薩や二乗、その外に勧請する諸天善神等も解っているではありませんか。最後に「池田大作之奉書」とでも書いて、従来の大石寺貫首の記載部分に記載すれば、それで本尊は「一丁上がり」となりますよ。

 もう教学的にグズグズな創価学会なんですから、本尊も大石寺から別団体として、新たに制定してみてはいかがでしょうか?

 池田先生が「ご存命中」の内に、やっとくべきでは無いかと、私なんかは推察致します。


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