自燈明・法燈明の考察

唱法華題目抄➂

 今日は天気が冴えません。朝から空はどんよりと曇っています。火曜日で今週も既に仕事も始まったわけですが、テレワークなので仕事場は自宅。こいいう時に、どうもモチベーションを維持するのは難しいですね。

 さて、今回は唱法華題目抄について考えていきます。唱法華題目抄については、以下のURLに少しまとめています。そこでの内容は大した事はありませんが、参考として考えてもらえたら幸いです。


 さて、前の記事ではお題目「南無妙法蓮華経」を唱える事で、全ての人はその功徳力で成仏できると、日蓮は説いたわけですね。「唱法華題目」とは、そういう事を述べた御書なわけです。ただし法華誹謗があるならば、法華経を信じようとも結果として堕地獄となるとして、この事からこの唱法華題目抄の中でも、法華誹謗の法然房源空が残したという念仏思想を徹底して指弾するわけです。



 この日蓮の思想については、本抄で語ると言うよりも、立正安国論の時に考えるとして、今回は「唱法華題目」という事について、もう少し考えてみたいと思います。

 そもそも本尊の前で読経・唱題するという事に、どの様な意義があるのか、そういう事について日蓮の考えが述べられている御書が「木絵二像開眼之事(法華骨目肝心)」です。
 ちなみに法華講の人は創価学会の御本尊を「偽本尊」だと言うために、この御書を良く引用しますが、実はこの御書はそんな御書ではありません。この詳細については別に語りたいと思いますが、今回は読経・唱題という事について考えてみたいと思います。

滅せる梵音声かへつて形をあらはして文字と成つて衆生を利益するなり、人の声を出すに二つあり、一には自身は存ぜざれども人をたぶらかさむがために声をいだす是は随他意の声、自身の思を声にあらはす事ありされば意が声とあらはる意は心法声は色法心より色をあらはす、又声を聞いて心を知る色法が心法を顕すなり、色心不二なるがゆへに而二とあらはれて仏の御意あらはれて法華の文字となれり、

 ここではまず「滅せる梵音声」と、入滅した仏の声をいいますが、それを形として文字となって利益するという事を述べています。
 また人が声を発生するのには二つある事を宣べ、一つは自分では考えてもいないが、人を誑かすために声を出すという事だと言います。ここで「誑かす」と言いますが、人を動かすためという意味であり、そこからこれを隋他意の声だと言います。
 もう一つは、自分の思いを声として表す事で、意(心)は心法、声は体(色法)で、要するに心の働きが体を動かし声として現れていると言います。
 そして人はこの声を聴いて、その心を理解するといい、これは体(色法)が心(心法)を顕しているのであるとして、肉体と心が不二という事ですが、心と体の二つとして現れ、そこに仏の思いが現れているとして、この仏の思いが法華経の文字となっていると言うのです。

 お題目を唱えるというのは、自身の声で唱えますが、そのお題目の声が先に説明したお題目の意義を含んだ仏の声であるという事で、それを自身が聞く。これが唱題の意義であるという事ではないでしょうか。そこから考えるのであれば、お題目を呪詛の呪文の様に何も考えずに唱え、百万遍・一千万遍という事で、数を稼ぐような唱え方も、日蓮の言う「唱法華題目」とは異なる様に思うのですが、どうでしょうか。

 こう考えてみると、日蓮系でお題目を唱える意義について、もう少し丁寧に信徒に教えるべきだと思いますが、いかがでしょうか。「蛍光灯の仕組みを知らなくても、スイッチを入れれば電気が灯く」といった雑な教えだけをしたのでは、日蓮が考えたお題目を唱えるという事が、何か違うものになってしまうのではないかと、私は思うのです。


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