自燈明・法燈明の考察

日本の神々で考える事

 本日(6/2)の東京の感染者数は34人、先ほど小池都知事は「東京アラート」の発動を宣言したと言いますが、所詮は地方自治体の首長の宣言なので、法的な事は何もなく、単なる「お願い」でしかない訳です。そもそも「緊急事態宣言の解除」の際、西村担当大臣は「まだ感染が終息した訳ではない」という発言にもある様に、日本としては経済的なギリギリな状況で「宣言解除」も疫学的というよりも経済的な事情で「解除」したに過ぎません。

 まだまだ感染症との攻防は続きますが、一人ひとりが賢く生活をしていく必要があるようです。

 さて、私は創価学会の活動を止めてから、日蓮の足跡を辿ろうと、巡れる処をめぐり、自分自身の目で様々な処を見てきました。


(北山本門寺 正面)

 今まで行った処を上げると、小湊清澄寺、身延山久遠寺、中山法華経寺、池上本門寺、小泉久遠寺、重須北山本門寺、鎌倉安国論寺、あと比叡山延暦寺にも足を運びました。

 以前であれば「謗法の地なんてとんでもない!」という、自戒の念もあったりして足を運ぶ事など無かったのですが、いざ創価学会の活動を止めてから、自分で日蓮の歴史を再度考察しなおす中で、実際に足を現地に運んで見てみなくては実感としてわからない事もあるのではないか。その様に考えて、これらの寺院を史跡として巡ってみました。

 足を運んで気が付いたのは、多くの寺院には「大黒天」とか「鬼子母神」といったものを祀っているという事です。重須本門寺は、日興上人が晩年に弟子を育成した場所であったと言いますが、そこにも「本化垂迹天照大神宮」という社が境内の中にありました。
 私が創価学会の中で教えられた事には、御本尊(大石寺貫首の文字曼荼羅)以外のものを本尊とする事は大誹謗である。と教わったのですが、例えば牧口会長が初めに入門しようとしたのは、重須の北山本門寺でした。まあ体よく本門寺から入門を拒まれ、結果として牧口会長は三谷素啓氏の手引きもあって、大石寺の関連寺院で入信するわけですね。

 日興門流の中では、大石寺だけが、こういった社などは無いのですが、少し歴史を調べてみると、過去には同じ様に社があったという話を聞いた事もあります。

 まあ、ここではこういった事の謗法論について語るつもりはありません。恐らく語った処で、現在の法華講や創価学会に関係する人達は、けして認める事も無いし、これから話す事は拒否感が強い事なので、対話にもならないと思います。

 最近、私が思う事なのですが、日本の精神風土とは、そもそもアニミズムが根底にあるのではないかと考えています。アニミズムとは、生物・無機物を問わないすべてのものの中に霊魂、もしくは霊が宿っているという考え方で、日本語で言えば「精霊信仰」と呼ぶのでしょうか。例えば日本の神道の中心となる神の「天照大神」というのは太陽を指しているという話を聞いた事がありますし、「八百万の神」というのも、日本国内にある様々な自然の姿を神として捉えての姿と言われています。

 創価学会等の中では「日本人は信仰に節操がない、何でも有難がる」という様な話もありましたが、本来、日本人は生活の周りにある自然や、その自然が織りなす現象の姿に神を見て、大事に生きてきた民族ではないのかな。

 その様に思うのです。

 作家の五木寛之氏は、外来宗教が土着するというのは、元々あった宗教と外来宗教が融合する事だと自著で語っていましたが、考えてみれば仏教は元々、インドで発祥した宗教であり、それが中国に伝来した時に、中国の儒教や道教といった、元々あった宗教や思想と融合した節が見て取れます。例えば創価学会の活動家の好きな言葉には「鬼神乱れるが故に万民乱れ」(立正安国論)というものがありますが、この鬼神にしても、元をたどると老師思想の墨家思想にあった「鬼神(世の中の悪を食らう鬼)」というものから出て来た可能性もあります。

 その仏教が朝鮮半島を経由して日本に流入し、日本国内では天皇を中心として朝廷を守るための「鎮護国家の仏教」というものとなり、律令制度の中で僧侶は官僧となり、国家の安寧を祈る事が僧侶の役目として定められました。

 また日本に流入してのち、本地垂迹という神仏習合思想によって、元々日本の神であった天照大神や八幡も「諸天善神」として、日本の仏教の中に加えられました。そもそも仏教とは「排除」する教えではなく「受け入れ・融合」する宗教であった事から、バラモン教のシバ神を大黒天とし、バラモン教やゾロアスター教のインドラと同一の神を帝釈天として諸天善神の中に加えています。

 こういった流れから考えると、日蓮門下の各寺院や、日興門下の各寺院にも、大黒天の社や天照大神の社があっても、何も不思議な事では無いのかもしれません。

 むしろ近年になって、それらの神々を単に「謗法」という二文字で排斥し、文字曼荼羅のみ本尊として定めてしまった思想に問題があったのかもしれません。大石寺の教義の元で、「謗法払い」と称して、各家にあった神棚を破却させてしまう行為、またそういった日本古来の民族的な文化のあるものに対して「謗法」という事で、一方的に忌避する事を教えた行為で、実は日本人の中にあった「大事な心」というものを破壊したのではないでしょうか。

 日蓮の文字曼荼羅には、仏教の諸天善神として多くの神々が認められています。これは「此の御本尊の中に住し給い妙法五字の光明にてらされて本有の尊形となる是を本尊とは申すなり。」(日女御前御返事)という意義を持っての事と言われています。ではここでいう「御本尊」とは、単なる文字曼荼羅の上の事かと言えば、実はそうではなく「此の御本尊全く余所に求る事なかれ只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり、是を九識心王真如の都とは申すなり、十界具足とは十界一界もかけず一界にあるなり、之に依つて曼陀羅とは申すなり」(日女御前御返事)とある様に、一人ひとりの心の中に本尊というのは存在するのであって、様々な諸天善神もすべて己の心の中に納まる存在であるという事であれば、単にその姿が外に出ているだけで、それを排斥する必要性が解りません。

 これら己心の中にある存在を「本有の尊形」とするか、しないか。日蓮の観点から言えば、そこは一人ひとりの御題目に対する理解であり、それを突き詰めていくと法華経の意義を体得した一人ひとりである事が問われるべきであって、形式的に外にある仏像の姿という様な事のみ拘り、排斥する必要は本来無いのではありませんか?

 いま、日本国内では新型コロナウィルスの関係、特にこの感染症対策に不甲斐ない政府の動きによって、ギスギスしている社会になっています。しかしこういう社会情勢であればこそ、本来、日本人の持っている精神的な特筆について、少しでも目を向ける必要性がある様に、私は感じているのです。

 もっと、日本の八百万の神を持った精神性を、省みる必要があるのではないでしょうか。



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