自燈明・法燈明の考察

正法について考えた事➂

 創価学会もそうですし、日蓮正宗もそうですが、「正法」とか「絶対正義」なんて事を語る以前に、自分たちが正しいと言う前提の教えについて、少し思いを馳せるべきではないでしょうか。

 さて正法について続きです。

➂本迹相対
 法華経は本門と迹門という部分に分かれています。迹門とは序品第一から従地涌出品第十五まで、本門とは如来寿量品第十六から普賢菩薩勧発品第二十八までとなります。



 法華経は他の大乗経典と比べて何が優れているかと言えば、日蓮は開目抄で以下の様に述べています。

「但し此の経に二箇の大事あり倶舎宗成実宗律宗法相宗三論宗等は名をもしらず華厳宗と真言宗との二宗は偸に盗んで自宗の骨目とせり」

 法華経には「一念三千」という教理が説かれていると言いますが、この一念三千について明示する為には「二乗作仏」と「久遠実成」という二つの事(これを二箇の大事と呼んでいます)が明かされていなければならないのです。

 少し振り返りの意味を込めて。
 二乗作仏とは「声聞・縁覚」という2つの境涯の人も成仏出来る事を法華経で明かした事を言います。釈迦の弟子で舎利弗や目連など、阿羅漢の弟子たちは法華経以前の大乗経典の中では、ひたすら「お前たちは成仏できない」と、釈迦から叱られていたと言います。

 この様子について開目抄では以下の様に書かれています。

「此等の聖僧は仏陀を除きたてまつりては人天の眼目一切衆生の導師とこそをもひしに幾許の人天大会の中にしてかう度度仰せられしは本意なかりし事なり只詮するところは我が御弟子を責めころさんとにや」

 釈迦の二乗の弟子たちは、釈迦を除くと人々の大導師とも思える様な人達なのですが、その弟子達を釈迦が責め殺すが様に、人々の前で「お前たちは成仏できない」と叱り続けたというのです。

 しかしこの二乗の弟子たちは、法華経の迹門で次々と成仏の記別(未来になって成仏する事の約束)が与えられたのです。つまり二乗でも成仏が叶うという事を明かしました。これにより全ての人達に成仏の可能性がある事が明かしたのです。しかしその成仏の「仏」という姿については、未だ始成正覚という、釈迦は菩提樹の下で「悟り」を開いて仏となったという、そのままだったのです。

 本門になると如来寿量品第十六で、釈迦は実は五百塵点劫という想像も出来ない過去に既に成仏していた事が明かされ、娑婆世界の中で様々な仏の姿として人々に説法教化してきた事を明かします。そしてこの事で、始成正覚の釈迦も久遠実成の釈尊である事を明かし「本当の仏の姿」を明確に明かし、その活動も常に菩薩道を行じてきた事、また存在する場所も娑婆世界であった事を明かしました。

 この本当の仏の姿と、その活動の場を明確に顕した事で、天台大師智顗が一念三千として示した教理が完成したと言っても良いでしょう。

 この事から仏が始成正覚の立場で説いた部分を迹門、久遠実成の仏の立場で説いた部分を本門と分類しています。

 内外相対では宗教の分類を、大小・権実相対では経典の分類。そして本迹相対では経典の内容を比較分類し、そこで「一念三千」という肝要の法門を完成させた重要な事が述べられた箇所が大事だ示しました。恐らくこれは私見ですが、天台大師智顗の主張した内容とはここまでになっているはずです。

 天台大師は「五重の相対」という事をそもそも述べていませんが、この五重の相対で、五番目の事は日蓮独自の解釈(比較相対)であると考えています。しかしこれについて日蓮宗と日蓮正宗では異なっています。

 「一念三千の法門は但法華経の本門・寿量品の文の底にしづめたり、竜樹・天親・知ってしかも・いまだ・ひろい・いださず但我が天台智者のみこれをいだけり」

 日蓮はこの事について開目抄ではこの様に語っていますが、その解釈が異なっているのです。

◆教観相対
 日蓮宗では教(文上に書かれている事)と観(文底にある関心)の相対があり、法華経の経文上の展開によって示された奥にある事(一念三千)を、観心を実践し理解する事が重要であると述べたと解釈しています。確かに法華経に説かれている内容を天台大師は「一念三千」として打ち立てましたが、それが自身の中にもあるという事を体験として理解する事が、一番の肝要であるという事なのでしょう。

◆種脱相対
 日蓮正宗では、仏が衆生を導く手順として種(下種)・熟(修行)・脱(悟り)の三益を用いると述べ、法華経とは五百塵点刧の久遠に下種した弟子を脱(開悟)させるものであるとしています。しかし末法の時代の人々は、釈迦とは無縁の下種を受けていない人々であり、その為には日蓮の文底下種の仏法が必要であるとしています。
 この事から日蓮正宗では、釈迦仏法を脱益仏法と呼び、日蓮仏法を下種仏法と呼んでおり、この末法では久遠元初の仏てある日蓮の下種仏法こそ肝要だとしています。

 日蓮宗と日蓮正宗、何れの説が正しいのか、私は完全に双方の主張を完全に理解している訳ではありませんので、当然の事、断定なんて出来ませんが、今の段階で考えている事を書いてみます。

 まず「下種」という言葉、これは「仏種を下す」という意味ですが、仏とは万人の心の基盤として恒に存在すると私は理解しています。そういう意味で言えば「仏の種」とは何なのか、私は理解出来ません。また「脱(開悟)」と言いますが、法華経において明かされた久遠実成の仏とは五百塵点刧という久遠に既に「開悟」した事で、その久遠の仏が人々の心の奥底に恒にあると言う事は、既に「悟りを開く」という概念も消失したと思うのです。
 もし「開悟」という事があるとすれば、各人が心の奥底にある「久遠実成の釈尊」を「自覚」する事であり、自覚出来なくても、それを信じること(これを以信代慧と私は理解しています)が大事だという事ではないでしょうか。

 そういう事から考えてみると、三益(種熟脱)という事を私は理解できないのです。

 また「五百塵点刧の当初」という、久遠元初についてもおかしな理論だと思います。法華経如来寿量品第十六では、久遠(五百塵点刧)については以下のように説かれています。

「一切の声聞・辟支仏、無漏智を以ても思惟して其の限数を知ること能わじ」

 これは最高の智慧を以てしても理解出来ない事だと言う事ですが、詰まるところ五百塵点刧という久遠の時間は、既に議論の域を超えたものだという事です。
 にも関わらず「五百塵点刧の当初から見たら、五百塵点刧は昨日の様な時間」と言う事自体、法華経にある事を無視した理屈だと私は思います。

 またそんな久遠元初に本仏として日蓮を置くことは、法華経にある「久遠実成の釈尊」の意義を壊すばかりでなく、これを信じた人達に、釈迦が説いたという仏教を軽んじる姿勢すら植え付けてしまいました。

 創価学会では「日蓮仏法の団体」と言いながら、その会員が仏教の基礎的な事に無関心でいるのも、実はこの下種仏法と呼ぶ種脱相対を語る日寛師の教えが影響しているのは間違いないと思うのです。

 そういう意味からも、私は五重の相対の五番目とは、教観相対の方が日蓮の本意に近いと思うのです。

 また近年になり「八重の相対」という、私から見たら珍説も創価学会の元活動家の中で、語られ始めていますが、これは種脱相対の上にある事から、この八重の相対については語るべき内容でも無いと私は考えています。

(続く)




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