自燈明・法燈明の考察

立正安国論①

 先週は週のうち三日間は外で仕事をしていました。
 外に出るのは二か月ぶりでした。何しろ仕事とは言っても、二月後半からですが、朝から晩まで自宅に籠り、人と打ち合わせをするのも、資料を作るのも、連絡とりあうのも自宅のパソコンの前でしたので、久しぶりに外出して仕事をするのは、精神的にはかなり疲れが溜まってしまい、帰宅後にはグロッキー。

 こんな事では社会復帰も大変なんでしょうね。

 さて、立正安国論について、読み終えました。正確には数年前に自分で一度、読み進めた内容を再読し、多少、添削したものですが、以下のサイトに先ほど公開しました。


 こうして読んでみると、自分自身の考えを文書にする事の難しさを改めて感じたりもしましたが、今回、再度この「立正安国論」を読み込み感じた事について、少しブログで書いていきたいと思います。

 毎度の事ですが、誰に言われた訳でも無く、自分自身の時間を費やして、こうして資料に向かい、自分自身で様々な事を考えて文書にしていますが、我ながら良くやっているもんだと思います。何故、こんな事をしているのか、自分でもよく解らないのですが、まあ自分自身がやりたいと思ってやっていますので、もしお暇のある方がいたら、お付き頂ければ幸いです。



◆立正安国論の題号について
 この立正安国論の日蓮直筆のものは、中山法華経寺に保管されており、国宝に指定されています。日蓮の一生はこの立正安国論に始まり、立正安国論に終わるといわれています。

 考えてみれば1260年(文応元年)に、この書を認めて当時の実権者である前執権の最明寺入道時頼(北条時頼)に上呈ましたが、この内容の骨子というものは、先日、このブログで取り上げた「唱法華題目抄」にも述べられているものです。
 そして日蓮が亡くなる時、1282年(弘安五年)に池上兄弟の館において、最後に講義したのもこの立正安国論であったと言われているのです。

 日蓮が波乱の人生の幕開けをしたのも、この立正安国論を幕府に上呈してからであり、その生涯の最後に講義したのも、この立正安国論というのですから、日蓮が生涯をかけて訴えたかった事が、この立正安国論に書かれている内容なのでしょう。

 日蓮が生まれたのは1222年(承久四年)。後鳥羽上皇が鎌倉幕府の北条義時に対して討伐の兵を挙げて、結果、上皇側が敗北したという「承久の乱」の翌年に日蓮は誕生しました。

 日蓮が生まれた地は、安房小湊(現在の千葉県鴨川市小湊)の片海という場所と言われています。日蓮自伝考の山中耕一郎氏によれば、「片海」とは「片方が海」の土地で、恐らく半農半漁の生活していた土地ではないかと言われていますが、けして裕福な家柄では無かったと言われています。領家の尼の所領内に日蓮の実家は居を構えていたと言われ、後に地頭の東条景信が、この領家の尼の所領に手を伸ばしてきた際に、日蓮はその裁判の手助けをしたという記録もある事から、恐らく朝廷と幕府の二重支配という、当時の社会構造に多くの矛盾点を感じて日蓮は育ったのかもしれません。

 立正安国とは「正を立て国を安んじる」という意味ですが、日蓮は当時の仏教界の混乱に、この国が抱える多くの矛盾点の原因を見ていたのではないでしょうか。

 当時の政治体制とは「政祭一致」の体制であり、その政治の基本的なところに仏教は関係をしていました。ではその仏教を取り仕切る仏教界はどの様な姿であったのか。

 鎌倉幕府は、関東の鎌倉に幕府を開きましたが、その鎌倉を都の京都に負けない位の文化都市にしたいという政策があった様です。その事から京の都から多くの僧侶を招き、寺院を建立したと言います。日蓮が鎌倉に来た当時、けして庶民の生活は安寧なものでは無かったと思うのです。災害も続き、地方では天候不順で飢饉なども頻発していました。当時の京の都でさえ、死肉を食らう少女が居たというくらいの状況です。

 その中で鎌倉幕府は仏教界に対して様々な援助を行い、寺院等を建立していました。まあ現代流に言えば、こういった寺院の寄進・建立も「公共工事」の側面があったようです。

 日蓮が立正安国論で切り込みたかった処とは、そういう幕府と仏教界の関係に対して、切り込みを掛けたかったのではないかと思うのです。

 日蓮の生きた鎌倉時代。民衆の中に仏教は念仏宗を中心として浸透を始めていました。僧侶の役割の本来の目的は「鎮護国家の為の仏教僧」であったはずです。しかしその僧侶が本来の「鎮護国家の仏教」の筋目を考えず、自分達の権益維持を考え、幕府もその様な僧侶を優遇し、財政をつぎ込んでいく。

 日蓮の「立正安国」という事は、単に自分の主張通りに幕府を諫め、回心させるという事ではなく、そういった本来の目的を亡失した仏教界に対しての厳しい指弾の意味合いもあった様に思えてなりません。

◆正法について
 立正というのは「正を立てる」という事から、創価学会や日蓮正宗では「御題目を弘める」という事だと解釈する向きもある様ですが、立正安国論を読む中で理解できる事は、日蓮は対告衆と言われる最明寺入道に対して「御題目を唱えろ」とか「自分の説く教えに信伏しろ」という事を、一言も言っていません。

 立正安国論で徹底的に責めているのは、法然房源空の弘めた「念仏宗」に対して、徹底的な破折を行っています。その理由は、この念仏宗により日本の中にある既存の仏教は破壊されている様について取りあげ、それが結果として仏教を破壊している事であると述べています。

 日蓮がこの立正安国論で主張しているのは、法華経を中心とした仏教の再構築であり、それを破壊する宗派を「誹謗正法(謗法)」と断じて、その宗派に対する供養を止める事を主張していました。

 要は「正しい仏法解釈」を打ち立てる事を求め、社会の基本法である仏法を正す事で、社会の安定を求めたのではないでしょうか。これは先の当時の幕府と仏教界の間にある、仏教本来の目的の「鎮護国家」を忘れ、なあなあの権益の絡んだ関係性を正すという事を、実は日蓮は考えていた様にも思えます。

 そういう事から、立正の正は「正しい法」ではなく、「正しい仏法解釈」という意味合いがあるのではないでしょうか。何か日蓮が特別に正しい法を打ち立てたという事ではなく、大乗仏教の本来の在り方を示し、そこに立ち返るべきという事を求めていたと思うのです。

(続けます)

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