十訓抄 第十 才芸を庶幾すべき事 三十七
大斎院と申す宮の御所の内に、女房に物申されむとて、蔵人惟規、忍びて參りたりけるを、侍ども見つけて、あやしと思ひけるに、隠れてたれともいはざりければ、門を鎖して、とどめけるに、
神垣は木の丸殿にあらねど
名乗りをせねば人とがめけり
とよみけるを、かのたづねらるる女房、院に申しければ、許されけり。
※蔵人惟規 藤原惟規が蔵人になったのは、寛弘4年。
※大斎院 選子内親王。村上天皇皇女。天延三年(975年)から長元四年(1031年)まで賀茂斎院を務めたので、大斎院と呼ばれる。
※木の丸殿天智天皇が筑前の朝倉に作った御殿。
新古今和歌集巻第十七 雜歌中
題しらず
天智天皇御歌
朝倉や木のまろ殿にわがをれば名のりをしつつ行くは誰が子ぞ
よみ:あさくらやきのまろどのにわがをればなのりをしつつゆくはたがこぞ
意味:筑前の丸太で仮に作った宮殿に朕がいると自分の名前を告げながら入ってくるものは、何所の家のものであろうか
備考:斉明天皇の御時百済救済の西征の際、皇太子として同行したと伝えられている。神楽歌が天智天皇作と伝えられたもの。十訓抄第一 可施人惠事一ノ二には伝承話を掲載。