ココロと機械

ココロの病を患う私の気ままなブログです

ペンタックスQ その後

2013-12-02 03:05:28 | ブログ

Q

買わない宣言をしたにもかかわらず相変わらず安いコンデジを
買い続け、もうこれでお終いにしようと思って買った(正確に
は買ってもらった)ペンタックスQ

さてミラーレス一眼でもないこの小さな「レンズ交換の出来る
コンデジ」だが意外と面白い。
まず何といってもカメラだと分る形をしているにもかかわらず
本当に小さく、仔猫のように手のひらに乗る。
にもかかわらず、ちゃんとした両吊りのストラップが付いてく
るのだが、それこそハンドストラップでいいような物だが面白
いのでキチンと両吊りにして、事あるごとに首から提げて出か
けてみた。

会う人間がことごとく「それ」に目をやり「ちっせ!」と言い
「おもしれぇな」と言う。
レンズ二本セットなのでもう一本ズームレンズ、これも引き伸
ばしレンズのように小さいのだが、こちらは単焦点のレンズよ
りも幾らばかりか大きく、この豆カメラとのバランスが悪い。

よって、このカメラにはこの標準に近い約47mm相当のレン
ズを付け放しにする事にした。
余ったズームレンズももったいないし使えるのでカバンの中に
放り込んでおく事にした。

少しづつ設定しながら撮っているところだけれど、コンデジと
思えば十分な性能でこれはこれでいいだろうと言う感じである。
素晴らしいわけでもないが、悪くも無い、こんな物でいいだろ
うと言う時はこれで済んでしまう。
何より大きな身体に豆のようなカメラを提げて歩いてみるのが
われながら滑稽で面白いのだ。

公園へ行く。
鳥でも狙うのであろうか巨大なズームレンズに大きな一眼レフ
の方とすれ違う。
「どうだすごいだろう」と言うような目でこの豆カメラを見て
すれ違っていく。
おとといこちらはあなたとは撮るもの目をつけるものが違うの
だよ、「どうだすごいだろう」と言ってからかい返してやりた
いのはこっちの方なのである。
そういう所が面白い。
こちらはこちらでここはこれで済んでしまうのでこれでいいの
だ。
ただのコンデジだが一応マイクロだかナノだか一眼と謳ってい
るだけあって、色々細かな設定が出来たりして、弄くって遊ぶ
のにも良かろう。
が、一つだけいうとすれば、電池の持ちが非常に悪い。
あっという間にカラになるのでお出かけの時には予備が必要だ。

コンデジで「みな一緒」と電池が各社で互換があると書いたが
これに限って一緒じゃないので、また新たに予備電池を購入せ
ねばならない。
とは言えこれはこっちの都合なので、仕方がないのだが。
ペンタックスK-5が異常に電池の持ちがいいのだけれど、こ
れはどうしたことか何とも大飯喰らいなのだ。
GRDⅣですらちっとも減らないのに(こちらの方が電池が大
きいのもあるが)ちょっと面倒くさい。
充電器が付属してくるのは良いが逆にUSBで本体直接充電が
出来ないと言う何とも歯がゆいところである。

裏を見たら、”HOYA”とあった。
ああ、そんな頃のカメラなんだよな、と思ったが「そんな頃」
にこんな性能だったとは知らなかった。
正直店頭で触った限りバカにしていたところもあった。
しかしいざ興味がわいて使ってみると、なかなか使えるし、皆
が面白がる。
縦横比が標準で3:2の所を見ても、「やる気」のあるカメラ
を作ったんだろうなとも思うのだ。

バカにされるのが楽しいバカにしていたカメラである。
気に食わないけれど付き合ってみたら結構気の合う人がいるが、
それと同じような感じだ。
願わくば広角のズームじゃないレンズを発売していただきたい
が、それは「あったらいいな」で、私の標準である広角は、使
い慣れたのがいつもあるので、これはこれでいいのだろう。

 

あと、マクロを・・・・。

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ニコンF6の結果

2013-12-02 01:26:58 | ブログ

067_2 逆光でも
先日十年近く寝かせてあったニコンF6を出したと言う記事を書
いた。
で、その結果報告なのだけれど、「笑っちゃうくらい楽チン」
極端に言えばそれで終わりだった。
何にもしない、露出補正も何もしない、ただ使いたい画角のレ
ンズと、使いたい絞りをあてがうだけで、「こう写るな」と言
うそのままのドンピシャの適正露出であった。

079暗い所でも

095 真っ白でも
これはこれでまあ何とも凄いことではあるし、ありがたいこと
ではあるけれど、なんにも考えなくていい、「凄くツマンネ」
なのだった。
元々ネガフィルムは輝度に対する諧調が広いので、デジタルカ
メラよりも似たような測光技術なら割り出した露出値から大き
く外れることは無いけれど、これには笑うしかなかった。

かえって、デジタルカメラの方が、ポジフィルムよりも扱いに
くくせっかく設定が出ても、結局その場その場で適応できない
ので面倒くさい。
もっとも、ポジフィルムは元々映画撮影用なので、紙に焼く事
を前提としていないので、諧調が狭いのではなくコントラスト
がきつい。
光に透かして見る物であり、決められた露出で撮る事を前提と
している。
それを紙に焼いて、きついコントラストの、よくある(あった)
「真っ黒な池に真っ赤な紅葉」とか「宇宙の果てのような紺碧
の空色」であったりをわざと逆に利用して(私から言わせれば)
おかしな写真を作っていたのだけれど、デジタルカメラで諧調
の狭さやコントラストのきつさが「普通に撮って出る」様にな
ってしまったので、写真用ポジフィルムのラインナップは消さ
れる一方である。

それが証拠に写真雑誌のコンテストや写真展のデジタルカメラ
の作品を見るがいい。
目がチカチカするようなどぎつい写真のオンパレードである。
何事も「やりすぎ」はつまらない、と言うか飽きる。
今では私のように(私でも普段何気ないものはデジタルカメラ
だが)フィルムで写真を撮る人は少ないだろう。
色々な掲示板やらブログやらを見ても、フィルムは「お金が掛
かる」とか「種類が無い」とか、そんなことばかり書かれてい
る・・・・が、そうだろうか。
F6は別として、フィルムカメラなぞ中古でもいい、デジタル
は新品もあっという間に「物足りなくなる」感じがするだろう。
実際はある程度の性能でもう十分なのだけれど常に新しいもの
の方が良いように思えるし、実際そうだろう。
フィルムや、フィルムの現像代などの運用費と、フィルムカメ
ラに比べて高価なそれ相応のデジタルカメラやパソコンやプリ
ンターを揃えることを考えたら、決してフィルム写真は高くは
ない。
通勤や買い物、たまのドライブなら自家用車を買うより全部そ
れらをタクシーに置き換えた方がはるかに安いのと同じである。

種類なんて、まだまだ幾らでもある、ただハナからやる気が無
いのか探そうとしないだけのことなのだ。
現像処理だってモノクロ自家現像でも薬品は幾らでもあるしカ
ラーフィルムだって近所のカメラ屋に放っておけば二時間で終
わるしオマケにCDに焼いてもくれる。

私は自分の「撮りたいもの」を撮る時はまだまだフィルムで撮
るつもりでいる。
フィルムによって、現像によって、好きなように簡単に色目や
諧調を選ぶ事ができるし、その諧調の広さが好きだからだ。
デジタルは、まだまだだと思う。
設定を自由にその都度替えられたり、諧調の広さも調節できた
り、RAWデータで持ち帰って、自分好みに色つけたり出来る
がそれはどうも写真ではなく作業のようで、「その時出た光景」
ではなくなってしまっているようでつまらない。
何とでもなってしまうのだから。

さてF6は、結局は超楽チンな「なんにもしなくていい」カメ
ラだと言う事で、これから楽したい時(は、大抵Uだが)の一
眼レフの場合に登場してもらうことになるだろう。
プログラムモードで撮ったら、子供でも素晴らしい写真が写る
であろう。
でも、やっぱり、重くて電池を気にしなきゃいけないと言う足
かせが邪魔をして、電池の要らない(又は入れなくても動く)
カメラでフィルムに焼き付ける方を選ぶのだろうな。
ゴツくて大きく重く電池を気にするカメラより、軽く何の表示
もないカメラの方が、よっぽどもって、楽なのである。

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わかりかねるもの

2013-12-02 00:11:04 | ブログ

060

お化けとか、神様仏様、怪奇現象、夢なんてのはどうしてそう
なるのか理屈がつく、そんなものは無いと言う。

しかしこんな私でもどうしても分りかねるのが「ひとけ」
つまりはあるはずのない「人の気配」がするということなのだ。
そう言うと、「それはきっと生霊だ」とか「霊は存在する」と
か騒ぎ出す人もいる。
そして私本人も、「常に頭の中にあるものの妄想」と理解は出
来るのではあるが、「ひとけ」だけはどうも完全に理解しかね
るところがある。

今がそうだ。
確実に人の気配がある。
こういう時は、必ずといっていいほど連れは死んだように眠っ
ているのだ。
俗っぽく言えば、「別の世界に迷い込んだ」とでも言おうか。
私の周りに今これを書いているこの今でも、「ひとけ」がする。
それは気配であったり、物音であったりするのだけれど、私は
今寝ぼけても混沌としている訳でもなく至って冷静である。

よく、電気を消して寝ようと思うと必ずテレビが「ビシ」と音
を立てるとか言うのがあるが、それは物理的現象であって、そ
ういう物音とは違う。
あきらかに「人がたてる物音」である。
例えば、わが家の前人は、私の部屋に来る前に必ず窓ガラスを
「コンコン」と二回叩いた。
それがそのまま再現されたり、抽斗を開ける擦音だったり、台
所でガラスを扱う音であったり、廊下を歩く、床板の軋みであ
ったり、酷いと箪笥の中から音がする。

さすがに箪笥にあたっては、何とも笑えるのだが、「この家に
今誰かいる」と言うのはその「癖」で誰だかわかるのだ。

最初に書いたように、それは白昼夢のような物で、潜在意識の
現れで妄想のような物であることは分っているのだけれど、そ
の「ひとけ」だけはどうしても理解しかねる。
それが全く不可解なことならいざしらず、「知った音」である
からなのだ。

分っていても理解しかねると言うのは、自分のそれに対する思
い込み、なのだろう。
「ああ、また来たな」と思って、それと仲良くしている自分が
滑稽である。

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