OTA(Now On The Air)

JF3TBMの無線道楽雑記帳。その他、社会随筆も不定期に掲載。明日の活力にと、スパイスの効いたサプリのような。

●近隣の『見えない戦跡』<1>。

2024年06月27日 | 町歩き

大東市には『かつて、三洋電機の工場があった』のは、まあまあ知られています。三洋があったところは『三洋町』という地名まで付き、同社が撤退しても『三洋電機前』という交差点名が残っています。

【写真:ここが『戦跡』とは、誰も知らない】
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◆松下航空機跡。
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松下電器が軍需産業に駆り出されたのは、

かつて、NHKの朝ドラでも放映されていたのは、

多くの方がご存じと思います。

 

その一部が、現在の大東市にありました。

 

▲三洋電機の跡地。ここに『松下航空機』があった。

 

大東亜戦争当時『北河内郡』の『住道町界隈』は、

鐘紡、松下航空機、松下無線などの『軍需産業』で、

いろんな人が『徴用工』やらで従事していました。

 

松下航空機では『明星』という『木製飛行機』が製造されました。

 

木製飛行機は『敗戦色が濃くなった、資材不足』の苦肉の策でした。

本来『軽量化』すべきところ『木製』ゆえに『重量が増す』ということで、

明星の『艦載爆撃機』から『練習機』に転用された、ということです。

 

松下航空機から、南西に約2kmほどのところに『盾津飛行場』がありました。

 

おそらく、工場から盾津飛行場まで運んで、

練習機を飛ばした・・・のでしょう。

大東市の場合、戦時下の人口が少ない上に、

文献がほとんど残っていないため、

近隣の戦跡を探すのには、ちょっと苦労します。

 

松下無線は・・・。

 

航空機に搭載する通信機を製造する軍需工場の会社で、

阪奈道路の上り線『寺川』付近にあったと聞き出せました。

まだ『ウラ付け』が取れていないので『何とも言えない』のですが、

松下航空機から、現在の府道・八尾枚方線を通って、

盾津飛行場へと運んだのではないかと推察しています。

 

となれば、八尾枚方線は『元、軍用道路だった?』と。

 

八尾方面に関しては『大正飛行場(現・八尾空港)』の予備滑走路を、

のちに『府道へ転用した』という経緯もあり、

軍用道路だったのは、あながち間違ってはいないと感じます。

 

軍関係施設だったところは、たいていが戦後に『公営住宅』が建っています。

 

・松下航空機跡:三洋電機と朋来住宅

・松下無線跡:寺川住宅

・盾津飛行場横の練兵場:春宮住宅、機械団地、トラックターミナル

・鐘紡工場跡:住道駅前住宅、大東四条畷消防組合消防本部、サーティーホール、ベルパーク

 

大東市内には、爆撃の跡などは見つけられませんでした。

 

とはいえ、これだけの軍需工場があったのですから、

戦争が長引けば、空襲の危険もあったと考えられます。

ちなみに、FM大阪、FM802、NHK-FMの送信所がある『飯盛山』には、

 

防空監視哨の建物が、山頂に残っています。

 

これは『敵機来襲』を早く見つけて、

中部軍管区(現在の陸上自衛隊・中部方面隊:伊丹市)に伝達し、

大本営へ報告が上がったのだろうか・・・と考えています。

 

追い追いと、近隣の戦跡を紹介していきます。

 

毎度おおきに。ほんじゃーね!!

 

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※記事は、表現と言論の自由に則ったエッセイで、
 公人を除き、登場する個人・団体名は全て架空のものです。
※時事問題については、筆者個人の考えです。
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●まちづくりって、何スかねぇ?。

2024年06月25日 | 町歩き

アマチュア無線で『記念局』というのが、しばしば出ています。ほとんどが『カードはワンウエイで送ります』とか言っています。記念局のおおかたが『市政〇〇周年記念』だとか、アナウンスしています。私は、記念局をほとんど呼びません。なんか『しらこい(しらじらしい)』というのか、記念局って、運営は大変だとは思うのですが『まち』の『本質』が『本当にわかっているのかな?』と感じるからです。『まちづくり』とかも、非常に違和感を持っています。なぜなら『すでに「まち」は「あるから」』です。私は、趣味で『まちあるき』をしますが、しばしば『まちづくり系の方ですか?』とか聞かれます。なんなん?『~系って?』とか感じます。まちづくりは『不動産屋や建設会社の仕事』ですから、私は『単に、まちを深掘りしているだけです』と答えています。

【写真:なぜ、ここに『駅』があるのか・・・も、深掘りしたらおもしろい】
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◆しつこいですが『まち』は『すでにあるもの』です。
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まちづくりの定義を知っていくと、大抵が・・・活性化を目標にしています。

 

・人づくり、とか

・コミュニティづくり、とか

・公共施設の建設、とか

・循環バスの運行、とか

・観光、祭り、イベント企画、とか・・・のことを言うようです。

 

まちは『つくる』というより『深掘り』していくものです。

 

・なぜ、ここに『まち』をつくったのか?

・最初に『まち』をつくったのは、誰?

・それが、旧石器時代なのか、縄文時代なのか、あるいは、もっと後々なのか?

 

そこに『まち』をつくった先達の思いが、必ずあるはずですね。

 

そして、その後の展開があります。

いろんなものが『結節』して『まちの原型』ができたはずです。

私は『まちの原型』の中に『まちの未来がある』と感じます。

 

ここまで、伝わっていますか?。

 

まちの原型は、その『まち』の『存在理由そのもの』です。

これが『わかることこそが大事』だと考えます。

まちは『活性化』させるようなものではなく、

そこに住む人々の生活の拠点として『安定化』させることこそが大事です。

 

・便利にしたり

・賑わいを『演出』したり

・効率化したり

・人を集めたり

 

それが最初からあったとは思えません。

 

最初にあったものは『生活そのもの』です。

さらに『その生活の安定化』です。

まちには、自然に沿った『役割』が見える『共同体』がありました。

 

そこでの生活は『交感神経』ではなく『副交感神経』が主導します。

 

・ゆるやかなふれあいがあって

・落ち着いて生きていける状況が先決です

・生活拠点としての『まち』は『活性化』ではなく

・安定した生活圏としての『維持』が最重要です

・集金システムのような『観光』は、二次的なものであるべきでしょう

 

私が行う『まちあるき』とは・・・

 

・歴史の時代区分や

・政治

・経済

・文化・・・などを『個別領域』で『切り離す』ことはしていません。

 

全体的で循環的な視点から『深掘り』すると、

まちの存在理由が、おぼろげに見えてきます。

なぜ、ここに人が集まって『まち』ができたのか・・・。

 

人は、自然と共同体によって生かされてきました。

 

かつて、それぞれの『家』には『何らかの自給自足や生産活動』があり、

その『過不足』を補うために『贈答』がありました。

安定供給が必要ならば『業(なりわい)』が『産まれ』ました。

 

それが、本来の『産業の姿』だと実感します。

 

産業の原点は自分の『役割』が見える、

『ムラ』『集落』といった『共同体』が、

基盤になっているはずです。

 

まちあるきの本質は『まちの深掘り』。

 

原型である『まちの存在理由』から出発し、

それぞれの役割が見える『共同体』を『再構築』することです。

従って、自分が生活している身近な規模での『自給自足』や、

あるいは『協同作業』や『助け合い』を『仕組むこと』です。

 

・まちの『存在理由』を知ること

・そこから『将来』『未来』を『展望する』こと

・その未来展望を『肌感覚』『五感』で感じ取ること

・素人でも、浅学菲才も承知の上で取り組んでみる

・まちを『真摯』に捉え、確かめる『ひとつの見方』

 

ここから、詳しい人に叱正や助言をいただく

 

共同体とは、煩わしさもありますが、

それに勝る『生活の律』がありました。

昭和40年(1965)頃から、

自然や共同体が次第に消えて現在に至ります。

戦時中の隣組を模した『形だけの「町内会」』はありますが、

正直なところ『あっても、なくても、どっちでもいい存在』です。

 

今の『大人の幼稚さ』や『倫理観の欠如』は、この頃から始まっています。

 

▲河内街道沿いの、お寺(大東市内)

 

なぜ、ここに『お寺があるのか?』の存在理由もあるはずですね。

 

毎度おおきに。ほんじゃーね!!

 

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●大阪の観光政策は、コケると思いますよ。

2024年06月22日 | 町歩き

天王寺に『七坂』があります。七つのうち『一番、風情があるなあ』と感じるのは、口縄坂です。口縄とは泉州弁で『へび』をさすとのことで、坂の上からみたら『へび』に見えたから『口縄坂』と名付けられたとか。

【写真:口縄坂は、織田作之助が何度も通ったと記されています】
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◆大阪の人も、もっと地元を知ったらいかがですか?。
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口縄坂がどこにあるか、

大阪の人が、どれだけ知ってはるのかな・・・?と感じます。

天王寺界隈だけでも、商業施設以外に見どころはたくさんあります。

まあ、地元民からみたら『石ころ』みたいなもんが、

その歴史や由来を知っていたら『もうちょっとマシな観光政策になる』でしょう。

 

近松門左衛門のお墓がどこにあるか、知らん大阪人の方が多いです。

 

私は、観光地・京都で育ちました。

 

大阪も、観光に力を入れたいようですが、

なんとなく、甘いなー・・・と感じます。

 

・名所

・土産物店

・飲食店

 

ここらが、京都は『タッグ』を組んでいます。

 

大阪は、はっきり言って『ばらばら』です。

観光をわかっていない行政が『テキトー』にやるものですから、

観光客が、わらわら押し寄せています。

 

儲かっているのは、免税の電気屋とか、そんなんばかり。

 

・大阪城

・通天閣

・たこやき

・串カツ

・吉本

 

これだけが大阪じゃないでしょうに。

 

京都のオーバーツーリズムは、

早くから対策を取っていますし、

問題が起きれば、割と早く手を打っています。

 

大阪は、ヨソモンの集まりだから、やっぱり遅いと感じますな。

 

毎度おおきに。ほんじゃーね!!

 

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●天王寺かいわい(2)

2024年06月19日 | 町歩き

茶臼山の東側、谷町筋を北上すると『おかしな坂道』に出くわします。これは、上町大地でせき止められた雨水などが『洪水』をたびたび起こすため、奈良時代に『和気清麻呂』が『治水工事』をした『残骸?』です。近鉄河堀口駅あたりから開削を始め、今の谷町筋あたりの岩盤が固く治水工事は中止されました。その名残が、天王寺商店街の北側、茶臼山の東側にあります。車では、あまり気づかない坂道ですがね。

【写真:この坂道は『奈良時代』の名残です】
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◆天王寺区だけで、まる1日案内できそうです。
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町歩きの一番の楽しみは『歩いたあとのビール』です(笑)。

 

冗談はさておき、奈良時代の名残が『こんな形で残っている』って、

知っていましたか?。

ほとんどの方は『へー、ほー、知らんかったわ!』です。

 

▲ソ連のレーニンが来たから『伶人町』というのは、いつも言う『ウソ』です。

 

伶人町を案内する際には『ここにレーニンが来た!』と言います。

すると、参加者は『えぇ!ホンマかいな!』と驚愕。

そのまま信じ込まれたらこまるので『うそでんがな、伶人とは雅楽する人です』と追加説明。

 

要は、伶人たちが多く住んでいたから『伶人町』っちゅうだけの話で。

 

そういえば、荘厳な『君が代』も雅楽ですな。

 

さて、この石垣の穴ぼこ、何やわかりますか?。

▲戦時下の『グラマン』が『機銃掃射』して弾丸が当たった跡です。

 

大阪大空襲は、とかく焼夷弾の絨毯爆撃を想像します。

しかし、米軍は執拗に『動くものはすべて撃て』と、

戦闘機に搭載された『ガンカメラ』で機銃掃射を、

帰還後、上官に報告しなければならかかったのです。

 

えげつないことしよるですな、アメ公は・・・。

 

個人個人のアメリカ人は『フレンドリーで明るい』印象ですが、

国家としてのアメリカは、どうしても好きになれません。

相も変わらず、ロシアとウクライナを停戦にも持ち込めず、

むしろ、ロシアとウクライナの戦いが長引くことで『儲けている』わけです。

 

今の日本の円安、韓国のウォン安も『軍事(武器輸出)のため』なのが見え隠れ。

 

私が、アマチュア無線で『ARRL系のAWARDに熱心ではない理由』も、

過去の戦争、今の戦争や紛争に『いっちょかみ』して儲ける点が大きいです。

 

毎度おおきに。ほんじゃーね!!

 

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●天王寺かいわい。

2024年06月18日 | 町歩き

Photo Book(写真集)の第二弾は『地域別』&『テーマ別』で制作します。私が、最初に『大阪町歩き』に参加したのは、今から20年以上前。そこで、非常に印象深かった『天王寺かいわい』から、再取材を始めました。真夏になると、たぶん熱中症でぶっ倒れる?かも。なので、今のうちにロケや撮影、製版・印刷関係者との打ち合わせを詰めています。真夏は、夏枯れが怖いですが、クーラーの効いた部屋で『ムセン三昧』したいので(笑)。

【写真:普通の人なら、あべのハルカスを写すでしょ】
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◆このブログであべのハルカスを紹介する必要、ないので。
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ムセンマニアの人は、あべのハルカス移動とかが流行っていました。

今は、あまり耳にしなくなったので『無線禁止』になったのでしょうか。

まあ、そんなことは『どうでもいい』として。

 

町歩きやPhoto Bookは『ほー、へー、知らんかったわ』を言わせるのが大事。

 

私の『町歩きの師匠』でもある『大阪案内人』の『西俣稔氏』が、

2022年10月に急逝され、何か、彼の気持ちを伝承していきたいと思っています。

そのために、私なりの『表現』と『コミュニケーション』で、

継承できたらいいな、とか、厚かましくも思っています。

 

さて、下の写真、何やと思いはります?

 

▲谷町筋に立っている『石碑』です。

 

この道しるべみたいな石碑の『下の方』が黒ずんでいますね。

これは、大阪大空襲のときに焼夷弾から炸裂した、

ナパームに引火して、大阪中が火の海になった『油火災の焦げ』です。

 

こんなのが、天王寺区、とりわけ谷町筋あたりにたくさん残っています。

 

▲茶臼山そばの『統国寺』にある『ホンモノのベルリンの壁』です。

 

どうやって移設したのかは聞いていないのですが、

私が最初に統国寺を訪れた2003年ごろには、

すでに移設されていました。

 

17日の撮影は、夕方でお寺の門を閉められる寸前・・・。

 

取り急ぎ、写真撮影の許可をいただいて、

数カット撮影してきました。掲載写真は『その一部』です。

 

1,権威は好きじゃない

2,戦争はいけない

3,大阪でタクシーを通じ『新・大阪案内人』として訴求していきたい

 

そのような思いから、Photo Book(写真集)を出版していきます。

 

年金受給者になったら、

ライフワークで、大阪の歴史を多少は案内できるように、

日々、研鑽を重ねていっています。

 

毎度おおきに。ほんじゃーね!!

 

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