彼女とラーメンを食べた。
我々は日頃究極のラーメンを追い求めてあまり多くはないが有名といわれるような
ラーメン屋に何度か足を運んでいる。
しかし、どれもこれも物足りない。ものによってはカップラーメンの和風だしパックのにおいが
プンプンする。「うまい!」という「感動」を受けるにいたっていない。食べるたびに
「うーん いまいちだなぁ。こんなんで行列作れるかい!」という代物ばかりだ。
我々はまたしても感動と希望を求めラーメン屋に足を運んだ。そしてそれはまた絶望へとかわった。
そこで彼女が言った。
「ラーメンはもともとそんなにおいしいものじゃないんだ。ラーメンという食べ物には限界があるんだ。」
私ははっとした。そうだ、まさにそれだ。結論から言うと、ラーメンに「うまい!」という「感動」を求めすぎていたのだ。ラーメンはノスタルジックなものなのだ。ラーメンが我々に与えられるものがあるとすればそれは「懐かしさ」であり「安堵」であり「感動」ではない。しかし、我々はラーメンがあたかも高級料理であるかのように錯覚し、たとえばおいしいエビチリを食べたときの「うまい!」という感動、未知の味に触れたときの感動をラーメンに求めていたのだ。記憶をたどってみると、確かに舌に鮮明に残るラーメンの味というものを私は覚えていない。ラーメンを食べてうまいさしみでも食った時のような衝撃を感じたことはない。ばーちゃんにつれてってもらった洋食屋のエビフライに感動したことこそあれ、ラーメンで似たような体験はない。だが我々はラーメンを「おいしいもの」だと思っている。記憶が美化されているのだ。
もともとラーメンは陳腐な食べ物だったはずだ。あまりに身近に存在し、金のないときはラーメンのお世話になる、そういう存在だったはずだ。
その昔の記憶が美化されているのだ。ラーメンは味噌汁に近いともいえる。本当にうまい味噌汁というものが我々はなんなのかうまく想像できないのが普通ではないだろうか。うまい味噌汁を口にしてもそこにあるのは感動というよりむしろ途方もない安心感といったものではないだろうか。どんなにうまい味噌汁があろうともそれは所詮我々日本人的感覚で「味噌汁」でしかないのだ。イセエビでもボンと入れれば別だろうが、味噌汁は高級料理足り得ないのではないだろうか。イメージとして。
ラーメンにもそのイメージは付きまとうはずだが、いつしかその記憶は美化された。そこにうまく入り込んだのがこの「ラーメンブーム」である。卵が先かひよこが先かだが、ブームによって美化されたのか、あるいは我々の日常からラーメンが遠くなりつつあって美化されたのか、理由はわからないが、「おいしいラーメン」を追い求めるという風潮が生まれたのは事実だ。
つまりラーメンブームによって人々は「美化されたラーメン像」を追い求め、やたらめったら凝ったラーメンに行列を作ってまで群がるのだ。しかし、多くの人は感じているのではないだろうか、本当にうまいラーメンにまだであっていないと。
そう、出会うはずもない。真の三角形は存在しないというイデアのように究極のラーメンなど存在しないのだ。イデアを求めているのだ。だからこそ、人は更なる高みを目指してまた行列に並ぶのである。いつしか人々の心の中に「ラーメンの本質は懐かしさである」という思いがよみがえるかもしれない。すると、この加熱しきったラーメンブームは次第におさまっていくのではないかと思っている。徐々にシンプルなものを求めるようになり、近所の廃れかけたラーメン屋で食べた一杯に至福の喜びを感じるようになるかもしれない。近所のラーメンをすすったその瞬間、もっとも強い「感動」を覚えるかもしれない。
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