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パンの仏道日記

仏道の思いを自由気ままに、勝手に記す。
時事問題を考える。市民運動を推進する。

ごく普通の信仰がよいのではないか

2010-02-09 02:44:22 | 仏教
「その力は神の愛」 マザー・テレサ元秘書が講演 東京 - クリスチャントゥデイ という記事を見つけました。

【「自分にできることは、大きな愛のこもった小さなことだけ」。マザー・テレサは、神がともにおられるのだから、どれだけのことをしてあげたかよりも、その行為にどれだけの愛が込められていたかが大切なことなのですと、よく周囲に話していたという。】

私たちから見れば、マザー・テレサのなしたことは偉業である。【大きな愛のこもった小さなことだけ】がまさに偉業なのであろう。
神とともに、その大きな愛を実践されたのだろう。

玉城康四郎は、ダンマもプネウマも同じであるといった。
イエスもブッダもそれに基づいていたのだと。

玉城康四郎は最晩年、如来とともに生きることを実現した。それを終地と名づけた。
これは特別なことではなく、誰でも、終地を実現できるのだといい、他の人にもそのように生きることを勧めた。

如来とともに生きることは、マザー・テレサのような聖人として生きることを意味するわけではない。
その人の人格のままに、如来と二人連れで生きることである。
このことは決定的に重要なことである。
きわめて残念なことに、終地を神聖化してしまって、ブッダのようになれるとか、聖者のように生きれるとか、考えてしまう人が圧倒的に多い。終地の実態を無視し、自身の願望をそれに対し投影し、同一化してしまう。

ダンマに不徹底だから、その人のままなのであって、しっかりと徹底すれば、ブッダの同じであると強弁するのが大半である。なぜ、それを強弁するのか、私にはまったく理解できない。自身の願望、理想を打ち壊されたくないのでは?と思ってしまう。

なぜ、終地のありのままの現実を受け入れることをしないのだろうか。
終地は単に仏道の基本にすぎないにもかかわらず、それを高い理想として仰ぎ見る意味などまったくないではないか。
玉城康四郎を神聖化する人たちにまったく同感できないし、それは玉城康四郎のいったことを全否定することであることに気づかないのだろうか。

玉城はごく普通の人間である。
玉城は玉城のままに如来とともに生きた。それをわれわれに示した。これは誰にでもできると。

われわれは業熟体である。如来とともにいれば、業熟体による過ちを如来がおしとどめてくれるのだろうか。終地の実態から言えば、そんなことはまったくありえない。ごく普通の人間であるから。
如来が中心となり、自我が脇役になる状態は、自我の存在が無視され、または、軽視される。自我であるにもかかわらず、その状態を私であると見なしてしまうのだ。如来となってしまう。如来と私の区別が失われる。これが自我肥大なのである。
だから、如来の直接体験はこれが常に同居する。無縁どころか、いっしょなのである。
魔と浄土は一体なのである。
そのことに気づかず、正しい悟りを得れば、魔と無縁であるとか、魔を克服したという人は、まったくどうかしている。その人が立派な人格者であろうと関係しない。その陥穽に落ち込んで気づかないことは仏道上、きわめて愚かなことであるというよりほかない。

その意味によって、大乗経典は原始仏典の阿羅漢を盛んに批判するのである。

如来と一体化してしまった自我は、自らのその過ちを認めない。その過ちは業熟体のためであると考える。
自我は如来と業熟体の間で、引き裂かれ、本来あるべき自我の場所を保つことができない。
ときに自我はその間、上下する。
地獄に苦しめられるならまだましであるが、極楽で舞い上がってしまった自我は救いようがない。その傲慢さに一生気づくことはない。
大地に根付くことの大切さがきわめて重要になる。
自分が自分であることが大事なのである。
だからこそ、私はこのようにして、何度も繰り返し、説明するのである。
終地はその人のままに如来とともに生きることであると。それが仏道の基本であると。
まったく特別なことではないのだと。

これが理解できないで、終地を神聖視して、その実現を目指せば、先の愚かさの罠にはまってしまう危険が大きいのではないかと強く心配する。

ダンマの顕現の体験を得たことで、かえって、本来の道から、大きくそれてしまう。それではあまりにも酷いではないか。

そう思うからこそ、適切に発心し、大乗の仏を礼拝し、ごく普通の人の信仰で十分であるというのである。それが如来の御心に適っている。
悟りの体験を得たいという変な心が焚きついて、まったく奇妙な信仰にはまることは避けるべきではないだろうか。
それよりも、教義に縛られることなく、ごく普通の人たちのように、純粋な信仰に留まろうではないか。
大乗の仏を礼拝し、はるか無限の先のいつかは、自分もそのような仏になりたいという心を起こして、その仏に純粋な信仰心によって礼拝するのが如来の御心にかなっていると思う。そうではないか。

こころの時代 仏教の根底にあるもの 玉城康四郎

2010-02-08 01:27:29 | 仏教
すっかり、如来さまがお留守になってしまった。
検察の暴走のおかげでこんなことになってしまった。どうしてくれる?検察!(笑)

何か、また書きたいのだけれども、そう簡単にもとのペースに戻ることはできない。
今日は久しぶりに書いてみようと思いたった。何かのネタはないかな?と思い、ネットでネタを探してみていたら、よいページを見つけた。

以下、紹介。
仏教の根底にあるもの 東京大学名誉教授 玉城康四郎
 【これは、平成六年二月六日に、NHK教育テレビのこころの時代」で放映されたものである】と。それを文字にしておこしたものであるようです。
たいへん勉強になるので、ぜひとも、お読み下さい。

私が印象深く感じたものを以下、抜き出してみた。
【それはただブッダだけのご体験とか、或いは直結なさった聖徳太子だけのご体験というんじゃなくて、平々凡々の人間も、ブッダの教えをそのまま受け取って学んでいけば必ずこうなるんだ、と。これがブッダの経典の一番おっしゃりたいところです。それで一生懸命八十年の生涯に亘って、それを説き明かされたわけですね。】
【まったく反省してみれば、ウジ虫から一歩も出ない。わからんまま蠢(うごめ)いているんですね。】
【ひょいと自分が生きるという、何にもわからんウジ虫ですわ。これは離れられませんよ。】
【そういう論文を書いている時は、なんか高遠な世界だけにいるかというと、そうじゃないんですね。平生がウジ虫ですね。】
【業熟体ということは、言葉を換えれば、ウジ虫ということです。】

たいへんすばらしいことばである。
以下のことばは同意できない。
【何にもわからんね。それを教えて頂いた、ということが、もともと高慢心、或いはもともと我執の自分がそうならないで生きていける。仮にそうなろうとしたら、それをちゃんとならないようにしてくださる力を与えられている、ということが最高に有り難い。】
半分は同意できるが、半分はできない。その意味が何であるかは、拙ブログの以前のエントリーを熱心に読んでくださる方がいれば、既にお分かりいただけるのではないかと思いますが。どうなんでしょうか。
私の考えは以下のようになる。
如来が貫き、徹底しているとき、如来が中心になって働いているのであるから、自我の働きは脇役となっている。これを玉城康四郎がいうとおり、我執が飛び出すことをおさえて下さっているということはできる。しかし、それは、自我の働きが脇役となっているのであって、決して自我がなくなるわけでも、自我が変革されるわけでもない。このことが説明されていないと、というより、そのことに無自覚なのかもしれないが、それが説明されていなければならないほど大事なことである。

■■引用開始■■
金光:  そこのところでしょうか、親鸞聖人が晩年にうたわれたご和讃があるわけですが、その「地獄一定」とおっしゃった親鸞聖人ですが、有名な
 
     弥陀の本願信ずべし
     本願信ずるひとはみな
     摂取不捨(せっしゅふしゃ)の利益(りやく)にて
     無上覚(むじょうかく)をばさとるなり
 
これは八十五歳の二月九日の夢の中に、夜の夢の中に出てきたご和讃だそうですが。
 
玉城:  もう身体でそれを詠っていらっしゃる。身体で詠っていらっしゃるとか、「地獄一定」と。「地獄一定」これはもうほんとに凄いお言葉だと思います。地獄一定の自分が身体で無条件に、
 
金光:  摂取不捨の利益で、無上覚をば悟る。
 
玉城:  そうそう。
 
金光:  そこの世界は、もう「何宗だ、何宗だ」というようなことではなくて、それこそダンマそのものに包まれて生きている世界、と。
 
金光:  そう。私が、これが人間の言動だと思いますよ。それをブッダは教えて下さっている。その言動をこれから復活すると。甦らせていく、と。
 
金光:  そこのところに人間の業熟体の、人間の救われる世界がある、と。そういうことでございますね。
 
玉城:  そうだと思います。
 
金光:  どうもありがとうございました。
■■引用終了■■

玉城康四郎は最晩年の著書において、地獄と極楽は裏と表の紙一重の隔たりもない(趣意)といっています。
上記の無間地獄の体験よりも、平生の地獄に落っこちた苦しみの体験、無明・我執の業熟体に苦しむ玉城の姿の方がより深化している。ぜひとも、玉城康四郎の『仏道探究』(紀伊国屋書店に在庫あり。2010.2.8時点)を読んでいただきたい。絶版なようですから、古本で入手されるか、それができなければ図書館を利用して、お読みください。
玉城先生が亡くなる直前の論考は最高傑作で、先生の究極の到達点を明かしています。
これは本当に勉強になります。
手も足も出ない真っ暗闇の「私」にこそ、ダンマ・如来が顕わになり、貫いていくのです。体を貫き、脳天から上へ上へと向かって貫いていく。また、体から溢れて、ダンマが放たれていく。無限の空間へ向かって。
玉城先生は言わなかったかもしれないが、顔からも、目からも、肩からも、腕からも、手からも放たれていくのです。
この境地がしっかりと確定するようになれば、終地といってよいでしょう。
これは大乗の言う無生法忍です。
だから、これは仏道の基本の実現にすぎません。玉城康四郎の言うように、誰でも実現できるというのです。これは基本の実現にすぎませんから、はるか遠くの高みへと向かって、求道を開始することになるのです。道を完成したものが人を助けるという理解はまったくの誤りです。
ごく普通の人のままに、如来とともに、仏道を歩むのです。これは仏道の根本です。

われわれはひとりひとり、その実現をめざし努力する必要があるでしょう。
その実現を目指すとともに、仏乗に乗るためにも、発心をしなければなりません。
以前も、何度もいってくどいようですが、大乗の報身仏、阿弥陀仏や大乗の釈迦如来になることを目指す心を起こす必要があります。これはきわめて大事なことです。
いまだそれができていない方は、ぜひとも、その発心をしてください。

草木国土ことごとくみな成仏す

2010-01-23 12:35:13 | 仏教
未読である、田上太秀著『「涅槃経」を読む』を本棚から取り出して、パッと開いたところを見てみた。

親鸞の『唯信鈔文意』の
「仏性はすなわち如来なり。この如来微塵世界にみちみちてまします。すなわち、一切群生海のこころにみちたまへるなり。草木国土ことごとくみな成仏すととけり。」があった。

なるほど、深いことばだ。これは親鸞が如来に貫かれた境地から、そのように言っているのだろうと勝手に想像する。

先の本で、もうひとつ。
【一闡提にも仏性がある】と。
当然ですよね。一切は本来、法身であり、如来であるのだから。と同時に、業熟体である。
玉城康四郎は、【ダンマ・如来は業熟体に通徹してやまない】といっている。
これがわれわれの事実であるというのである。それに気づこうが気づくまいがに関係せずに。

仏教では最大の罪を謗法としていることはいうまでもないこと。
ダンマによっと、われわれは成仏するからで、それを誹謗し、拒否していては、その道を妨げることになる。それは決してしてはならないと。

『涅槃経』は、一闡提は仏法を信じる心を起こしさえすれば、もはや一闡提ではないという。
そうであるのだから、われわれが一闡提であるかどうか問わず、仏教徒であるならば、仏法を信じ、如来に帰依することが大事なはずである。

大乗の仏を夢物語の存在として否定し、歴史的存在者である原始仏典のブッダのみをリアルな対象として、そのブッダの得た解脱・涅槃のみが真実であると見なしてしまうのは、大乗の立場から見れば、小乗のあり方であり、発心できない人たち、さらにいえば、大乗を誹謗する謗法者ということになる。

私は大乗に基づくので、当然、小乗のあり方に立たない。
人にも発心することを勧める。
玉城康四郎のいう終地をブッダの解脱であるといい、それ以上のものはないと理解している人たちは、発心できていない人であり、大乗を壊す行為であると私には思える。
そのようなことは決してしてはならない。純粋な信仰している一般の人たちのそれさえ、壊す行為につながるものである。

アングリマーラ、『法華経』、発心

2010-01-18 19:01:11 | 仏教
昨日の夜、見た夢に、顔見知りの日蓮宗の女性信者さんが現れた。ともに仏道探求の旅に出るというものだ。
今日は、それを思い出し、何気なく、高橋勇夫『日蓮百話』を本棚から取り出してみた。
たまたま開いたページに、【アングリマーラ】の話が載っていた。

おもしろい縁だと思い、少し書いてみよう。
アングリマーラについて知らない方は、『ウィキペディア(Wikipedia)』をご覧下さい。リンクをはっておきました。

先の本では、日蓮の『三三蔵祈雨事』を採り上げている。
アングリマーラのような凶悪な盗賊であっても、釈尊との出会いによって、仏道に導かれたのだから、仏道への導き手は何より大切である。末法の世にあって、日蓮にあった縁を大切にして、法華経により生死の世界を離れるべきであると(趣意)。

三三蔵とは、善無畏、金剛智、不空で、真言宗の法師を指しているという。
真言による雨乞いは失敗で、あるいは、嘘っぱちで、天台、伝教大師の雨乞いは成功したという。

この日蓮の言い分は、真言の人が聞けば、ふざけんなと思うに違いない(笑)。
もちろん、私は、そのどちらも支持しないし、そんなこと、どうでもいいことであると思っている。

ところで、玉城康四郎は業熟体を説明するとき、アングリマーラの例を挙げて説明することが多かったことは、その著書を読んでいる方なら、お分かりのことであろう。

それは、以下のような趣意である。
ダンマの顕現を得た阿羅漢であるアングリマーラは、自らの過去の犯した業の報い(業熟体)、来世よって地獄で受けるべきものを、現世で、いま忍受することによって、月がこの世を照らすがごとく、ダンマが業熟体に通徹した、と。

この教えは、大乗『涅槃経』の転重軽受の教えにつながるものなのかもしれない。
 
【無生法忍】はそのようなものでなければならない。
つまり、ダンマが業熟体に徹底して、貫き、放散するようでなければならない。
それが【終地】である。

玉城康四郎は、それを【ダンマの相続者】である、といった。
この【ダンマの相続者】は【法華経の相続者】を意味するのかについて、私が検討したものを、以前のエントリー(5年まえに書いたもの)で紹介した。

ざっくりいってしまえば、終地に達しても、発心できなければ、仏乗に乗ることにはならないから、【法華経の相続者】となるわけではない。その理由を知りたい方は、既に、過去のエントリーで詳しく説明したので、興味のある方はそちらを見てください。

さて、アングリマーラと名を聞き、私が思い起こすのは、『法華経』の提婆達多である。
報身仏である法華経の釈尊は、過去世の菩薩の時に、『法華経』を受持した提婆達多に仕えたことの因縁で、仏になることができた。また、いまの提婆達多も、将来、仏になることが確定された境地にいる、と。
釈尊も、極悪の提婆達多も、仏乗によってこそ、仏と成るのであると『法華経』は言うのである。
『法華経』は報身仏となることを目指すことを説いているのであって、終地の実現をブッダの境地とはせず、それを目指すべきとは説いていない。
これは決定的に重要なことである。

『法華経』の法師となることは【金色の身体】の獲得であると私は理解した。これも過去のエントリーで紹介した。
この【金色の身体】は、他の人たちに【現一切色身三昧】を得させてこそ、可能となるというのである。実地の指導経験によってこそ、その指導者になれるというのである。
私はそのように理解した。
未来の、専門家を自負する者たちによる仏道は、これに着手すべきであると思うのであるが、どうなのか。

空海も日蓮も、即身成仏の重要性を主張した。
もし、それらの教えに基づく人たちが、単に、ダンマの顕現を得たことで足りるとしてしまうのならば、玉城康四郎による仏道探究の成果は、活かされないことになってしまう。

終地は仏乗であると玉城はいった。しかし、発心がなければそうはならないはずである。

明恵は法然に対し「発心を否定する」と批判したようである。法然の真意が実際は、どうであったかどうかは私は知らないが。

発心はきわめて大事である。
往生を願う気持ちも、その発心を含むものではないかと思うが…。

それは別にして、原始仏典の影響により、原始仏典のブッダの境地の実現を目指すことが発心であるということを平気で説く人たちには、大乗の立場から言えば、それは謗法であるとしかいいようがない。きわめて恐ろしい行為である。

ダンマの顕現を得ていようといまいとに関わらず、正しく発心することがきわめて大事である。
それは別に難しいことではない。
ごく普通に、純粋に仏に対し礼拝、合掌することである。

河合隼雄著『ユング心理学と仏教』岩波現代文庫を見つけた

2010-01-17 00:30:57 | 仏教
今日は、本屋さんへ寄ったのですが、よい本を見つけました。
河合 隼雄 (著), 河合 俊雄 (編集)『ユング心理学と仏教』 (岩波現代文庫 〈心理療法〉コレクション V) です。

この旧版の単行本のものは既に持っていて、昔、楽しく読ませていただいた。とてもいい本です。今回、文庫として新装(新刊、今日発売)。解説を末木文美士(仏教学者)さんが書いている。

なんと、そのなかで、玉城康四郎のダンマの顕現を挙げられている。ナイス!偶然。
末木さんは、河合隼雄さんの、意識のレベルを下げていくことが、玉城の全人格的思惟と似ているという。
立ち読みで、末木さんの解説(その量、10ページ前後だったかな?記憶によると)をざっと読ませていただいたが、ほぼ同意できるものであった。

この本はきわめて勉強になるので、ぜひともお読みすることをおすすめする。
ただ、私は『大乗起信論』自体を信用していないので、河合さんのその解説には、どうなのかな?と思う部分もあったと記憶している。大分、昔に読んだので、もし、それをいま読んでみるならば、当時の考え方とは違ってくるかもしれない。機会があれば、また読んでみようと思う。

とても勉強になるので、ぜひ、みなさんにも、読むことをおすすめします。もし、よかったら。

ちなみに、以前のエントリーでも、この本を引用させていただいている。
ダンマ・如来と自我、ユング心理学 - パンの仏道日記
上記のエントリーは、いまから2年前に書いたもの。手直しせずにそのまま掲載しました。