パンの仏道日記

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ダンマ・如来と自我、ユング心理学

2009-07-04 22:41:04 | 仏教
以下の記事は、いまから2年前に書いたものです。いまとはちょっと考え方は違っているかもしれませんが、手直しせずにそのまま掲載します。


ユング派分析家の河合隼雄先生の『ユング心理学と仏教』において、次のようにあります。
「心理療法の場で、私は大日如来を中心におき、その意を推しはかる気持ちで発言してはどうかとかんがえるのです。
いわば、中心に沈黙があり、その沈黙の顕れとして言葉があるのです。」

このことは禅定の基本をあらわしているものと思われます。

河合先生は先の著書で、自身では、意識の空化の経験はないとおっしゃています。また、真如をわかろうとすれば、禅定に入って修行しなければならないいだろうといい、それは、身体の在り方に関係する知であろうと。
さらには、次のように述べられます。
仏教に関心がなかったけれども、心理療法の体験が仏道修行の類似のものになっていたのではないかと思う。心理療法の体験を重ねていくうちに、仏教をある程度理解できるようになってきた。ただし、まったく自己流の勝手な考えによっていることはいうまでもない、とおっしゃています。

河合先生のいう大日如来の中心におくことは、私が先に述べた禅定状態の如来が中心となると同じものと考えられます。

また、河合隼雄著『心理療法入門』では、
「自分を「道」の状態にすることなど到底言えないが、因果的思考や操作しようとする姿勢を放棄して、できる限り自分の意識のレベルを下げてクライアントと向き合っていると、自然治癒の状況が生じやすい、と言うことができる。
ただ、そうは言っても、クライアントの問題意識や全体状況のなかで、治療者も通常レベルの意識における応答が必要なときもあるので、状況に即して、自分の意識レベルを変えることが必要である。ここのところが、ひたすら修行を目指している宗教家と異なるところだと思われる。」とあります。

因果的思考や操作しようとする姿勢を放棄して、できる限り自分の意識のレベルを下げることは、禅定の入る際の必須なことです。そのようにするからこそ、如来が中心となるのです。河合先生は禅定修行の経験がないにもかかわらず、心理療法の体験から得た、禅定の基本を身をもってご存知であることに私は驚いてしまいます。

先の、「状況に即して、自分の意識レベルを変えることが必要である」とありますが、禅定に習熟しますと、如来が中心のままに、物事を考えたり、話したりすることは十分可能です。ただし、自我が活発になってしまうとそれは不可能となってしまいます。

クリシュナムルティのいう観察者なしの観察は自我の働きが静まり、沈黙が中心となった状態での観察を意味するものと考えます。その観察はやはり、自我にほかならないのですが、沈黙が中心になっているかいなかが通常のそれとは決定的な違いがあるといえると思います。

ラマナもアートマンとしてある状態に住しているわけですが、質問者に受け答えするラマナは、アートマンに住するラマナの自我にほかならないでしょう。アートマンに住するかいなかが問題なのです。

盤珪についても同じです。仏心の働くままに、説法するとしても、その説法する主体は盤珪の自我にほかなりません。

ユングは、ラマナのことばはインド精神の最高のもので、インドの人ばかりではなく、西洋人にとっても意義深いものと評します。ただ、「われ」の意識が果たす役割の重要性を認める必要がある、といいいます。

なるほどと思わずにはいられません。ラマナはアートマンに住することの徹底さは他の追従を許さないものと思われます。その偉大さは間違いないでしょう。問題は自我の果たす役割の意義を認めるか否かということになるでしょう。

ユング派分析家のウォルター・オダージンク著『瞑想とユング心理学』では、禅が特徴として、純粋意識、というべきセルフのウロボロス元型だけを活性化する。個人的無意識を無視するために、悟りの体験を持ちながら、幼児的、暴力的な個人的心を持つことさえある。ユング心理学はこの個人的な心を発展させ、全体的となる技法があり、その問題に対して、対処することができるとあります。

プロセス指向心理学の創始者アーノルド・ミンデルは『自分さがしの瞑想』において悟りの落とし穴について述べています。
悟りを最終目標として、それに到達すればすべての問題が解決する考えは、東洋の瞑想の誤解であり、そこから、うぬぼれが出てくることがあります。他人をレベルが低いとか、幼稚とかみなす傾向があるといっています。
また、東洋の瞑想は対人関係の問題についてなおざりにしがちであるといいます。

オダージンクさんとミンデルさんがいっていることは、まさしくそのとおりではないかと思うのです。
大乗経典においても、悟りの体験者に対して慢心の罪は五逆の罪よりも重いとまでいうほど厳しく戒めています。
その矛先は自身にも、もちろん向けられているでしょうが、主に小乗の阿羅漢たちに向けられているようにも感じられます。
他人のそれには敏感であっても、自身のそれには気づかないことは大いにありうることです。
個人的な心の問題については手付かずのままということになるのではないでしょうか。幼児的、暴力的な個人的心を持っていないなどとはいえない。また、対人関係の問題についても、葛藤を抱えたままであるでしょう。

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4 コメント

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Unknown (q.n.)
2009-07-16 21:56:55
「悟りを最終目標として、それに到達すればすべての問題が解決する考えは、東洋の瞑想の誤解であり、そこから、うぬぼれが出てくることがあります。他人をレベルが低いとか、幼稚とかみなす傾向があるといっています。」そんなところにとどまっていてはいけない、と師は - 道元であれ大拙であれ - 言っているにもかかわらず、たくさんいますよね、そうした小人は。嘆かわしい… 『自分さがしの瞑想』、探し出して読んでみます。
q.n.さん、コメントありがとうございます。 (パン)
2009-07-16 23:12:21
q.n.さん、コメントありがとうございます。
ご意見に同感です。
残念なことですが、そのような傾向を持つ人がたくさんいますね。本当に残念なことです。

ミンデル著『自分さがしの瞑想』は実を言うと、私はほとんど読んでいないで、なるほどと思った先の部分だけ抜き出したので、その全体についてはほとんど無知です。何か申し訳ない気持ちです。ごめんなさい。

よろしかったら、また遊びに来てください。
Unknown (q.n.)
2009-07-17 00:06:45
前コメントには「自戒をこめて」と付記すべきかと思いましたが、そう記すとあたかも私が悟りを得て、かつ、ここでいう低次元にとどまっていない人物の物言いような、そんな印象を与えてしまうかもしれないとと思い付け加えませんでしたが、もちろん断るまでもなく、私はあだの一凡夫です。一凡夫のたわごとでも受け止めていただけるなら、是非ともまた - 『自分探しの瞑想』を読んだあとでも - 伺います。話は違いますが、「自分探しの」というの「自分を遠く打ちやって」みたいな文句であればもっとよかったと思います。失礼しました。
q.nさん、ありがとうございます。 (パン)
2009-07-17 01:21:54
もちろん、私もごく普通の人間です。

悟りの体験を何度も繰り返し得て、生きている間に、それを究極まで徹底できたとしても、その人は「その人のまま」、ごく普通の人間である、と私はそう理解しています。これは玉城康四郎氏もそのように考えていたものと思います。私の場合、それをもっと極端に思えるほど強調しています。仏教の常識から見れば、かなり異端でしょうね。

私のブログは、まさしく「一凡夫のたわごと」なのです。とても好き勝手放題で、かなりいい加減なものです(笑)。

「自分を遠く打ちやって」ですか。q.nさんは禅にお詳しいようですね。私は禅について無知なので、勉強になりました。ありがとうございました。

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