パンの仏道日記

仏道の思いを自由気ままに、勝手に記す。
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草木国土ことごとくみな成仏す

2010-01-23 12:35:13 | 仏教
未読である、田上太秀著『「涅槃経」を読む』を本棚から取り出して、パッと開いたところを見てみた。

親鸞の『唯信鈔文意』の
「仏性はすなわち如来なり。この如来微塵世界にみちみちてまします。すなわち、一切群生海のこころにみちたまへるなり。草木国土ことごとくみな成仏すととけり。」があった。

なるほど、深いことばだ。これは親鸞が如来に貫かれた境地から、そのように言っているのだろうと勝手に想像する。

先の本で、もうひとつ。
【一闡提にも仏性がある】と。
当然ですよね。一切は本来、法身であり、如来であるのだから。と同時に、業熟体である。
玉城康四郎は、【ダンマ・如来は業熟体に通徹してやまない】といっている。
これがわれわれの事実であるというのである。それに気づこうが気づくまいがに関係せずに。

仏教では最大の罪を謗法としていることはいうまでもないこと。
ダンマによっと、われわれは成仏するからで、それを誹謗し、拒否していては、その道を妨げることになる。それは決してしてはならないと。

『涅槃経』は、一闡提は仏法を信じる心を起こしさえすれば、もはや一闡提ではないという。
そうであるのだから、われわれが一闡提であるかどうか問わず、仏教徒であるならば、仏法を信じ、如来に帰依することが大事なはずである。

大乗の仏を夢物語の存在として否定し、歴史的存在者である原始仏典のブッダのみをリアルな対象として、そのブッダの得た解脱・涅槃のみが真実であると見なしてしまうのは、大乗の立場から見れば、小乗のあり方であり、発心できない人たち、さらにいえば、大乗を誹謗する謗法者ということになる。

私は大乗に基づくので、当然、小乗のあり方に立たない。
人にも発心することを勧める。
玉城康四郎のいう終地をブッダの解脱であるといい、それ以上のものはないと理解している人たちは、発心できていない人であり、大乗を壊す行為であると私には思える。
そのようなことは決してしてはならない。純粋な信仰している一般の人たちのそれさえ、壊す行為につながるものである。

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