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パンの仏道日記

仏道の思いを自由気ままに、勝手に記す。
時事問題を考える。市民運動を推進する。

玉城康四郎、死後、共同体の統治を目指す

2010-02-22 03:40:51 | 仏教
この世を去った玉城康四郎はいま、どうしているのだろうか。
玉城康四郎の著書を読んだ方なら、ご存知のように、玉城は輪廻の存在を肯定していた。

玉城の著書において、自身の死後においての長い長い仏道の道のりのスケジュールを示している。玉城の著書の読者はよく知っていると思われるが、念のため、以下に、それを記しておこう。

玉城康四郎『ダンマの顕現』
…つまり共同体を統べることである。私はこのことこそ、『華厳経』全体の集約的に推進していくべき菩薩の営みであると確信した。
 しかし、この世ではその目標にはありつけない。次の世もその次の世もなおむずかしかろう。学ぶべきことは山積みしているからである。社会科学、自然科学、そしてさまざまな人生経験を積まねばならなぬ。けれども、道の大本を体で明確に実証することだけは、この世で成し遂げなければならぬ。もしこれを三段跳びに譬えるなら、この世だけでなく、幾世も幾世も助走する。そして十分助走した揚げ句、ホップ・ステップ・ジャンプと跳ぶ、その跳躍がすなわち共同体の統治に入ることである。そしていかなることがあっても、道の大本からおのずから生まれてくるものでなければならない。この見解は、その後、年とともに深まり、今日では、これからの長い長い道程のスケジュールとなって定着している。


私はある玉城康四郎を尊敬しているという仏教者から、次のような趣旨のことを聞いた。「玉城は既に、涅槃に入った。死後ということも、輪廻ということもないのだ」と。
私はそれを聞いて大変驚いた。どうして、そのような勝手な理解をするのだろうか、と。
自分の見解としていっているのなら、その意味としてわかる。しかし、玉城の考えを理解して、それを否定したうえで、自身の見解を述べているわけではなかった。私は、その方に、老婆心から、玉城は輪廻の存在を肯定しており、死後も仏道を歩むと考えていたことをやんわりと伝えておいた。こんなことをするのは、相手の面目を潰し、相手から憎まれて損なことは十分わかっているが、一応、言っておくのが筋であると思ってした。その後がどうであるかは私の知るところではない。それは自由であろう。

さて、以前のエントリーで紹介した、玉城のことばの【実際、われわれ凡愚のものは、ともかく死んでみなければ、死後の世界のあるのかないのか、皆目わかりません。】というように、われわれは死後、どうなるかはわからない。
ただ、われわれは如来の世界・浄土・涅槃を実際に体で実証することができる。
玉城の上記のことばの【道の大本を体で明確に実証することだけは、この世で成し遂げなければならぬ。】ことを玉城康四郎は最晩年、終地の禅定を実現した。
それは、慈悲喜捨の四無量心の放散、つまり、ダンマの放散である。これがブッダの禅定であると玉城が明言したことは玉城の著書の読者なら、周知のことであろう。

われわれは生きているあいだに、この体でブッダの禅定・終地の禅定を実現できる。玉城はそれを実現したし、ブッダがいうように、誰でも実現できるものと力説した。
われわれにも、当然、できるのである。
それは特別なことではない。
聖人や立派な宗教者になることを意味しない。
なぜなら、終地の実態とは、その人のままであるからである。
その人のままに、如来と二人連れとなって、仏道を歩んでいく。これが玉城康四郎が示した仏道である。これを一仏乗といったのである。本来は仏乗しかないのである。

死後の玉城は、仏乗の乗って、仏道を歩まれていることだろう。浄土においてか、穢土においてかはわからないが。
ダンマによる共同体の統治を目指して、幾世も幾世もかけて、学び続けていくのだろう。

玉城はしっかりと発心している。
終地の実現を目指すことが発心であるということを平気で説く人たちに多く出会ったことがあるので、どうしてそう考えるのか、いつも驚かされるわけだが、上記を見てみれば、彼らのその考えはまったくデタラメなことであるといえる。
大乗を壊すもので許しがたい極悪行為である。大乗経典の主張する立場からすればだが。

どう考えるかはいうまでもなく、本人の自由であるから、そう考えたい人は勝手にしなさいというしかない。

私は仏乗に則る立場であるので、今後も、他の人たちに仏乗に則ることを勧める。
ぜひとも、他の皆さんにも、より多くの人たちに、発心だけはしてもらいたい。
発心し、終地は仏道の基本にすぎないと思って、その実現のために、日々の勤行によって、如来を体感することを深めてもらいたい。
ご存知のように、玉城康四郎は、自身に合った行道を気長に実践すれば、必ず、確定した境地に達することができると著書のなかで述べている。

発心と行道の実践はきわめて大事である。
この二つは必ず具えていきましょう!

玉城康四郎、最晩年、仏乗を説く

2010-02-20 23:48:18 | 仏教
玉城康四郎『仏道探究』より、以下、引用する。

実際、われわれ凡愚のものは、ともかく死んでみなければ、死後の世界のあるのかないのか、皆目わかりません。死の不安は最後までつきまとってはなれません。この不安を除くものこそ、「生前にもブラフマンと一つとなり、死後にもブラフマンと一つになる」というあのブッダのの言葉です。
なぜか。ブッダの禅定を学びつづけていくうちに、入定ごとに顕わになってくるのは果てしなき宇宙そのものです。すなわち、ブラフマンです。いいかえれば如来の世界です。まったく形を離れきった、いいかえれば、この世を根絶した、生きているままでもっとも深く安らえる世界、つまり如来の国土、いいかえれば浄土です。死後にはそこに生まれること必定です。
これは入定時のことですが、出定して日常にあるときも、心が静まってくると自然に如来が憶念されます。すでに如来が私の体に通徹しているという事実に出会うと、おのずから浄土に安らいます。…(略)


…広大無辺の慈悲喜捨の四無量心が十方世界に満ちわたると説いてある。これはもはや小・大乗を包んだ、後にいうところの一仏乗と同じであることは明らかです。しかも、ブッダだけでなく、ブッダの説法とおりに行じていけば誰でもそうなるといっておられます。

では、実際にそういう弟子がいたのでしょうか。その一人として舎利弗(…略…)を挙げることができるでしょう。…(後略)

「舎利弗は世尊自身の子であり、ダンマより生まれ、ダンマより現われ、ダンマの相続者である。」
その一節は、その際述べましたように、初・中、終の三地の終地であり、大乗であることはいうまでもありません。…(後略)


以上、付け加えて説明する必要がないほど明らかであろう。
終地の実現がダンマの相続者であり、一仏乗であるということが。
いうまでもないが、若干の補足を加えるならば、次のようになる。
これはこれが完成というのではなく、死後にも、浄土に生まれ、仏乗に乗って、仏道が進められていく。あるいは、普賢行によって仏乗の乗り、仏道が進められていく。

私は、この玉城が指摘する終地に達した舎利弗が、法華経に登場する舎利弗とどういう関係にあるのか、検討した。玉城は他の著書のなかで、既に、このつながりを指摘しており、法華経の舎利弗へとストレートにつながっているという趣旨のことを述べている。これに注目して、私も考察してみたのである。それをこのブログで既に紹介した。関心のある方はご覧下さい。

そのことを端的に言えば、終地の舎利弗は自我肥大の状態にあり、影を認めることができていない。竜女を見下し、竜女が法華経を相続する高い境地にいる菩薩であることをまったく認識することができていない。
そのような舎利弗は法華経の釈尊の指導によって、正しく発心し、誓願を起こす。
終地を実現し、法華経を聞き、適切に発心した舎利弗は、無限に渡る時間をかけて、自身の仏国土を建設へと向かうのである。この完成が報身仏となることである。

仏乗に基づくことはこのようにシンプルである。
しかし、法華経は自身のことを経文で、難信難解の経典であるといっている。
さて、現代においても、どうなのか。法華経のいうとおりなのか。
いまこそ、法華経の原点に立ち返り、そこから出発して、さらに探究を深めていくことが必要なのではないかと思う。

如来の主師親の三徳

2010-02-19 16:50:01 | 仏教
本棚にある本を手に取り、パッと開いてみた。
そこには、日蓮の「釈尊の主師親の三徳」のことばがあった。
釈迦如来のみ、その三徳を具えているのであって、阿弥陀仏や薬師如来は他土の仏で、その三徳すべてを具えているわけではなく、主ではあるが、師、親ではない、と日蓮はいう。

そういう考え方もあってよいだろう。
しかし、如来のすべては「主師親の三徳」を具えているのであって、それに差別はない。
娑婆世界のに生まれた仏として、この世界に生きるわれわれと縁があるという点はわかるが、如来に差別はない。ただ、如来はそれぞれ法身でありながらも、その誓願によって、特性が違っているといえるだろう。

さて、先の本の次の項目には、「日蓮は日本第一の法華経の行者なり」の宣言がある。
この日蓮のことばに、なんとも、大胆不敵、豪胆、勇猛果敢さ、絶大の自信に驚かされる。
私は日蓮の信者ではないが、この日蓮の法華経の行者としての生涯を知り、その比類なき勇敢さと行動力、不屈の忍耐力に、ただただ驚かされるばかりである。武士という感じが強い。
私はそのような日蓮のことが好きである。戦闘的であるばかりでなく、とても人情味がある。人間味が溢れているように私には感じる。

「法華経の行者」を日蓮の教えと別として、どの宗派にも属さない私が、玉城康四郎の教えていることに沿った現代の世界に適応することばでいえば、
終地を実現して、さらにすすんで、仏乗に乗ることである。
これは玉城康四郎の教えていることに共感するものであれば、誰でも、それを実現できるはずである。そう、玉城康四郎は力説した。

日蓮のような凄まじい行動など、私にはできないし、そのつもりもないが、
仏乗に乗るということはできる。
これは、その人のままに、如来と二人連れとなって、生きることである。

人それぞれの個性があって、生き方もさまざまである。
その人がその人にしか生きられない個性的な人生を生きる。
仏道もそのようであるだろう。ユングは個性化の過程を歩むことの大事さを述べた。

そのことに宗派の違いは関係しないだろう。
仏乗あるのみ。一仏乗。仏乗に乗って、究極の完成である仏智を具えた報身仏へとなるための長い長い歩みが始まる。われわれも、釈迦如来や阿弥陀仏のようになり、浄土を持つ。その願いを持つことが大乗の菩薩には求められている。
われわれ凡人でも、いつかは仏になると経典は教えている。
その教えに従って、如来を純粋に帰依していこう。教義に縛られずに、その虜にならず、純粋な信仰心で。

仏乗に乗ろう!

2010-02-17 01:28:21 | 仏教
ダンマの顕現を体験したことを自慢する奴は最低であると前回、批判した。
当然のことである。単なる体験にすぎないものを、威張るどおりはまったくおかしいことである。
終地に達したとしても、それは同じである。それを威張るのはまったくおかしい。
その人がその人のままであることに変わりがないのにも関わらず、何を理由に威張るという
のだろうか。

ダンマの顕現を体験しただけで、先生面する人たちの神経が私にはまったく理解できない。
きっと、このような人たちは先生となっていい気分でいたいのだろうと私は勝手に想像する。もし、そうであるなら、これほど下劣なことはないと私には思える。それに無自覚であるとすれば、なお酷い。目も当てられない酷さだ。

その人がいかに人格者であろうと関係がない。
師の資質を具えてこそ、師であるというのに相応しい。
その師の資質が何であるのか究明されないままに、ダンマの顕現を得たというだけで、あるいは、それに熟達し、終地となったというだけで、そのまま師となることが自明であると見なされている。その愚かしさに、まったく気づいていないことは、あきれるほどの愚かしさ、喜劇であるとしかいいようがない。

それを私ははっきりと指摘するわけであるが、必ず、猛反発を受ける。
それも単なる感情的な反応レベルであり、このような人たちの存在とは一体何なのかと頭を抱えてしまうほど、きわめて残念な事態である。

このような類の人たちには、何の期待もしていない。勝手にすればと突き放すだけである。

このような類の人たちが圧倒的に多いわけであるが、ほんの少数の人たちは、その愚かしさに気づいている人たちもいる。そのような人たちこそ、これからの仏教の希望の存在であると私は思っている。

終地の実現は誰でも可能であると玉城康四郎はいった。
にもかかわらず、その実現はきわめて難しいものであると玉城の言葉を完全否定いることを平気で言う奴がいる。何という愚かしさだ。自分がそれが困難なことを理由に、他人にもそうであると勝手に決め付けているのだ。自分の見解であるならば、玉城は言葉を否定した上で、述べるべきであるが、まったくそうしていない。自分は玉城の弟子であるから、正しいのだと言わんばかりである。まったく、愚かである。

それが困難となっているのは、その人の独自のわけがあってのことであろう。

また、終地の実現を焦るあまりに、まったく終地を実現していないにもかかわらず、それを実現したと誤認してしまっている人もいる。これもたいへん困る。それでは、その誤りを自ら訂正することが難しくなってしまうだろう。

終地は誰でも実現できるものであると思って、ひたすら、如来の実感を体で学んでいく。ひたすら学んでいく。終地を実現しても、何のこともない。その人のままであることをいまから、よく知って、それを決して理想化、神聖化してはならない。
仏道の基本を身につけたということにすぎない。それだけのこと。それを失わないように、今後も、それを大事にしていくことである。

玉城康四郎のことばにとても印象深いものがある。
それは【如来を大事にしなさい】と。
これは亡くなる直前、数ヶ月前のことばである。
きわめて深い言葉である。シンプルだが、本質を語っている。

【如来と二人連れ】を大事にすること。それを一生、そのように生きること。それが仏道を歩むということ。それは誰でもできることである。

この仏道の根本を無視して、誹謗することは謗法の罪である。決して許されない。仏教の最悪の罪である。

如実知見であるとか、気づきであるとか、そのようなことは仏道の根本とは関係がない。
道徳的であるとか、利他的であるとか、それも仏道の根本とは関係がない。

道徳的でありたいとか、利他的でありたいとかを望むのであれば、事実、そのように行えるように自ら探究していくのが本来すべきことである。そうしたければ、いますぐ、決意し、その探究に乗り出せばよいではないか。

まったくおかしいことに、終地を実現して、如来の働きに従えば、利他であるのだから、その実現を目指せばよいというような、まったく見当はずれの、勝手な妄想を抱く人たちがいる。このような人たちこそ、この道を破壊する人たちで、まったくの怠け者である。

如実知見、気づきなどと大きなお題目にする本が巷でにぎわっているが、では、その人は如実知見であるのか、気づきができているのか、大いに疑問である。

【そのつもり】でいることの愚かしさは、裸の王様のようでもある。
三密行によって、如来になったつもでいることも、同じく困りものである。ある意味、病気である。

三密行であろうと、観想行であろうと、それは手立てにすぎない。如来を実感するための手立てである。
それをわからず、如来の実感を深めていく努力もせず、なんちゃってのレベルで、いい気になっているとすれば、裸の王様である。

仏道の専門家であることを自負する人たちは、終地を最低限、実現すべきである。
しかし、一体、その実現者などひとりもいるとは思えないが。どうしたことか。

まったくの末世である。

われわれは、その過ちに陥ることなく、地道に、地に足をつけて、謙虚になって、ひたすら、如来の体感を学びつづけていくことが大事ではないか。

今日も、宇宙仏を礼拝し、帰依し、その仏に成れるまで、ひたすら、仏道の探究を実践していこうではないか。
玉城康四郎は、いうまでもなく、死後も仏道を歩んでいくといっている。何度生まれ変わって、実践しつづけ、浄土を統べるようになりたいと望んでいた。
玉城はしっかりと発心していた。
それを無視して、終地を目指すことが発心などと勝手な考えをしてはいけない。
大乗経典の教えるように、発心し、仏乗に帰依し、仏乗に乗ろうではないか。

もやもやした気持ちで書いてみた。

2010-02-15 02:11:00 | 仏教
さて、政治がまだまだ大変なことになっているので、何とかして、この国を根本から変えて、良くしたいという一市民としての思いが私には強くあって、気が休まらない日々が続いている。もう疲れてしまう。だが、何とかしないといけない。現政権による政治改革を断行し、成功させなければならない。絶対に、過去の政治体制に戻ってしまったら、この国は闇となり、完全に滅びる。その危機意識が国民にないことは本当にびっくりする。どうしてなのか。政治の茶の間化、劇場化で喜んでいた国民は一体なんだろうか。数十年前から、年金の制度がだめになることはわかっていたのに、何もしなかった国民とは一体なのなのか。
人任せ、政治家に任せ、何とかしてくれるという幻想に支配され、ここまできてしまったのか。

おっと、いけない。仏道のことを書かなくては。

といっても、特別、書くこともない。
既に、書いたもので、自分のいいたことはだいたい言ってしまったと感じる。

最近のエントリーでも、言っていることは同じことの繰り返しである。

発心し、仏乗に基づいて、仏道を実践してください。
そして、仏道の基本である終地を事実、実現してください。仏乗に乗ってください。と。

今日、たまたま手に取った本をぱっと開いたところ、常不軽菩薩のことが述べられているページであった。

私のしていることも、常不軽菩薩のしていることと同じようにシンプルである。
ただ、ひたすら、仏乗に乗るように、他の方に呼びかけているだけであるから。
ただ、私の場合、軽蔑はしないとか、軽んじないとか、常不軽菩薩のように偉いことはできない。
まったくアホなことを言っている奴には、あいつは絶対にアホだ。救いようのないアホだ。と思う。勝手にしろ。と思ってしまう。

仏教の偉い先生や偉い僧侶の方の言っていることでも、仏道の根本を無視していれば、こんなアホな奴はいない。仏教徒をやめたらいいのに、と思う。

もっと救いようのないのは、悟りを得たと自慢する奴らだ。
こんな奴らはクソだ。

あと、悟りの体験をわけのわかない、「気づき」などといっているのは、バカとしかいいようがない。大バカ者だ。
最近、その種の本が売れているらしい。世の中、バカ丸出しである。

玉城仏教を継承しようとする人まで、「気づき」だか、「ヴィパッサナー」とか、インチキなものが本物だと言う始末。目も当てられない。世も末だ。

こんなことをいう奴は玉城仏教を継ぐなんていうじゃねえぞ!と一喝してやりたい。
ま、おそらく、そのバカさ加減は直らないだろうな。きっと。これは頭の良し悪しの問題じゃない。そのような人たちははやく、この仏教の世界から消えたほうがみんなのため。ひとり遠いところにいって、一生坐禅していなさい。

そんな人たちの対し、私は口汚く罵ってやりましたが、そのような私はとても、常不軽菩薩のようなマネはできない。

常不軽菩薩は本当にすばらしい。彼は愚直に思えるが、そればかりでなく、トリックスターの面があり、機知を具えている。そこがまたすばらしい。
仏道者の生きていくためのたくましさを感じる。
日蓮が常不軽菩薩の実践を見習ったというのは、わかる気がする。

私がそれをすばらしいと思うが、それを自分にも課すという気にはならない。あまりに立派すぎる。できれば、そんな立派な人間にはならたいが、まあ、無理だ(笑)。

われわれはのようなごく凡人でも、玉城康四郎は終地を実現できるといっている。
特別なことではない。
【如来と二人連れ】となって生きる。これが終地の仏道であり、仏道の基本・根本である。
その人のままに、如来とともに、仏道を歩んでいく。仏道というと大袈裟に感じてしまうが、そのような大袈裟なものではなく、【如来とともにいきること】が仏道なのだ。
その人のままにいろいろな生き方がある。如来とともにそれを生きる。とてもシンプルなことである。
それを実現しないうちに、勝手な願望によって、終地を神聖化、神秘化してしまう人たちがいる。こんな情けない、愚かなことがあるだろうか。
同じく愚かなことは、ダンマの顕現を得ていながら、自我肥大に気づかず、自惚れている人たちである。このような人たちは、自分を権威化する。本当にバカげたことだ。

親鸞はひとりの弟子もいないといったそうだが、さすがに立派だ。
如来のみが主であり、先生であり、親である。

ダンマの顕現の体験をたしものとしていないものとの差などほとんどない。
ただ、それを知っているかの違いでしかない。どうして、それを権威化するのか。本当に愚かなことである。
本当に指導者になりたいのであれば、そんな程度の体験をして威張っている暇があったら、指導するとは一体どういうことか真剣に探究していくことをすべきではないか。そうではないか。
それをなしに、ダンマの顕現を得たというだけで、先生面する人の気が知れない。
ダンマの顕現の体験は、単なる体験にすぎない。どうして、そんな程度のことを自慢するのか。
それを体験する人が少ないというだけで、それを過大に評価するなど、バカな事とは思わないのだろうか。

ただひたすら、如来を深めていくことで十分ではないか。これ以上にないほどに窮めていけばいいではないか。徹底して実現したとしても、それは終地であるにすぎない。仏道の基本の実現でしかない。
その人はその人のままであることが現実なのだ。ブッダになれるなど、わけのわからないことなど考えないでほしい。

終地は悟りの極みなどと考えるべきではない。
そんな考えをするから、その実態を無視してしまう。
魔、自我肥大と無縁だという大バカなことを平気で言う。そんな愚かな考えが世に蔓延している。実態を知らないか、自身がその魔に支配されているのだ。
どんなに立派な人格者であろうと、関係しない。謙虚に振舞っていても、その陥穽に陥ってしまっていれば、やはり、それは魔道である。
如来を徹底すればいい。それだけ。
ひたすら、それを深めていけばいい。これ以上にないほど。
しっかり身につけば、日常においても、如来とともにいることができるようになる。
もちろん、自我が活発に働いていれば、如来はお留守の状態になってしまうが、だからといって、如来の実感が失われるわけではない。

もし、職業的な仏道者として生きようする人であるならば、必ず、終地を実現し、日常においても、心静かに、如来とともに生きていくことが必要ではないのか。それが本来のすべきことではないか。わけのわからない中観、唯識とかなんか勉強して、何の役に立つのか。私にはわからなし、興味もない。それをしっかり学んだ人たちが仏道とは離れた、まったく的外れなことを言っていることに遭遇することがほとんどである。どうしてそうなのか。
そう、玉城康四郎のいうように、本来の学である、仏道の実践が抜け落ちいてるからだろう。

これを反省し、新たに学びが開始されるべきと玉城は言ったが、それを実践する人たちはいるのだろうか。それを実践していると自称、他称する人たちが、まったく見当はずれのことをしているのはどうしたことか。
私はその人たちに会って、その実態を知って、愕然とした。こんなにショックなことはない。
この世にいない玉城は、これを見て、どう思うだろうか。
この人たちは、今後、それを反省し、玉城の真意を理解することはあるのだろうか。

ずいぶんと、できがよくない文章になってしまった。勘弁を。