昨日の夜、見た夢に、顔見知りの日蓮宗の女性信者さんが現れた。ともに仏道探求の旅に出るというものだ。
今日は、それを思い出し、何気なく、高橋勇夫『日蓮百話』を本棚から取り出してみた。
たまたま開いたページに、【アングリマーラ】の話が載っていた。
おもしろい縁だと思い、少し書いてみよう。
アングリマーラについて知らない方は、『ウィキペディア(Wikipedia)』をご覧下さい。リンクをはっておきました。
先の本では、日蓮の『三三蔵祈雨事』を採り上げている。
アングリマーラのような凶悪な盗賊であっても、釈尊との出会いによって、仏道に導かれたのだから、仏道への導き手は何より大切である。末法の世にあって、日蓮にあった縁を大切にして、法華経により生死の世界を離れるべきであると(趣意)。
三三蔵とは、善無畏、金剛智、不空で、真言宗の法師を指しているという。
真言による雨乞いは失敗で、あるいは、嘘っぱちで、天台、伝教大師の雨乞いは成功したという。
この日蓮の言い分は、真言の人が聞けば、ふざけんなと思うに違いない(笑)。
もちろん、私は、そのどちらも支持しないし、そんなこと、どうでもいいことであると思っている。
ところで、玉城康四郎は業熟体を説明するとき、アングリマーラの例を挙げて説明することが多かったことは、その著書を読んでいる方なら、お分かりのことであろう。
それは、以下のような趣意である。
ダンマの顕現を得た阿羅漢であるアングリマーラは、自らの過去の犯した業の報い(業熟体)、来世よって地獄で受けるべきものを、現世で、いま忍受することによって、月がこの世を照らすがごとく、ダンマが業熟体に通徹した、と。
この教えは、大乗『涅槃経』の転重軽受の教えにつながるものなのかもしれない。
【無生法忍】はそのようなものでなければならない。
つまり、ダンマが業熟体に徹底して、貫き、放散するようでなければならない。
それが【終地】である。
玉城康四郎は、それを【ダンマの相続者】である、といった。
この【ダンマの相続者】は【法華経の相続者】を意味するのかについて、私が検討したものを、以前のエントリー(5年まえに書いたもの)で紹介した。
ざっくりいってしまえば、終地に達しても、発心できなければ、仏乗に乗ることにはならないから、【法華経の相続者】となるわけではない。その理由を知りたい方は、既に、過去のエントリーで詳しく説明したので、興味のある方はそちらを見てください。
さて、アングリマーラと名を聞き、私が思い起こすのは、『法華経』の提婆達多である。
報身仏である法華経の釈尊は、過去世の菩薩の時に、『法華経』を受持した提婆達多に仕えたことの因縁で、仏になることができた。また、いまの提婆達多も、将来、仏になることが確定された境地にいる、と。
釈尊も、極悪の提婆達多も、仏乗によってこそ、仏と成るのであると『法華経』は言うのである。
『法華経』は報身仏となることを目指すことを説いているのであって、終地の実現をブッダの境地とはせず、それを目指すべきとは説いていない。
これは決定的に重要なことである。
『法華経』の法師となることは【金色の身体】の獲得であると私は理解した。これも過去のエントリーで紹介した。
この【金色の身体】は、他の人たちに【現一切色身三昧】を得させてこそ、可能となるというのである。実地の指導経験によってこそ、その指導者になれるというのである。
私はそのように理解した。
未来の、専門家を自負する者たちによる仏道は、これに着手すべきであると思うのであるが、どうなのか。
空海も日蓮も、即身成仏の重要性を主張した。
もし、それらの教えに基づく人たちが、単に、ダンマの顕現を得たことで足りるとしてしまうのならば、玉城康四郎による仏道探究の成果は、活かされないことになってしまう。
終地は仏乗であると玉城はいった。しかし、発心がなければそうはならないはずである。
明恵は法然に対し「発心を否定する」と批判したようである。法然の真意が実際は、どうであったかどうかは私は知らないが。
発心はきわめて大事である。
往生を願う気持ちも、その発心を含むものではないかと思うが…。
それは別にして、原始仏典の影響により、原始仏典のブッダの境地の実現を目指すことが発心であるということを平気で説く人たちには、大乗の立場から言えば、それは謗法であるとしかいいようがない。きわめて恐ろしい行為である。
ダンマの顕現を得ていようといまいとに関わらず、正しく発心することがきわめて大事である。
それは別に難しいことではない。
ごく普通に、純粋に仏に対し礼拝、合掌することである。
今日は、それを思い出し、何気なく、高橋勇夫『日蓮百話』を本棚から取り出してみた。
たまたま開いたページに、【アングリマーラ】の話が載っていた。
おもしろい縁だと思い、少し書いてみよう。
アングリマーラについて知らない方は、『ウィキペディア(Wikipedia)』をご覧下さい。リンクをはっておきました。
先の本では、日蓮の『三三蔵祈雨事』を採り上げている。
アングリマーラのような凶悪な盗賊であっても、釈尊との出会いによって、仏道に導かれたのだから、仏道への導き手は何より大切である。末法の世にあって、日蓮にあった縁を大切にして、法華経により生死の世界を離れるべきであると(趣意)。
三三蔵とは、善無畏、金剛智、不空で、真言宗の法師を指しているという。
真言による雨乞いは失敗で、あるいは、嘘っぱちで、天台、伝教大師の雨乞いは成功したという。
この日蓮の言い分は、真言の人が聞けば、ふざけんなと思うに違いない(笑)。
もちろん、私は、そのどちらも支持しないし、そんなこと、どうでもいいことであると思っている。
ところで、玉城康四郎は業熟体を説明するとき、アングリマーラの例を挙げて説明することが多かったことは、その著書を読んでいる方なら、お分かりのことであろう。
それは、以下のような趣意である。
ダンマの顕現を得た阿羅漢であるアングリマーラは、自らの過去の犯した業の報い(業熟体)、来世よって地獄で受けるべきものを、現世で、いま忍受することによって、月がこの世を照らすがごとく、ダンマが業熟体に通徹した、と。
この教えは、大乗『涅槃経』の転重軽受の教えにつながるものなのかもしれない。
【無生法忍】はそのようなものでなければならない。
つまり、ダンマが業熟体に徹底して、貫き、放散するようでなければならない。
それが【終地】である。
玉城康四郎は、それを【ダンマの相続者】である、といった。
この【ダンマの相続者】は【法華経の相続者】を意味するのかについて、私が検討したものを、以前のエントリー(5年まえに書いたもの)で紹介した。
ざっくりいってしまえば、終地に達しても、発心できなければ、仏乗に乗ることにはならないから、【法華経の相続者】となるわけではない。その理由を知りたい方は、既に、過去のエントリーで詳しく説明したので、興味のある方はそちらを見てください。
さて、アングリマーラと名を聞き、私が思い起こすのは、『法華経』の提婆達多である。
報身仏である法華経の釈尊は、過去世の菩薩の時に、『法華経』を受持した提婆達多に仕えたことの因縁で、仏になることができた。また、いまの提婆達多も、将来、仏になることが確定された境地にいる、と。
釈尊も、極悪の提婆達多も、仏乗によってこそ、仏と成るのであると『法華経』は言うのである。
『法華経』は報身仏となることを目指すことを説いているのであって、終地の実現をブッダの境地とはせず、それを目指すべきとは説いていない。
これは決定的に重要なことである。
『法華経』の法師となることは【金色の身体】の獲得であると私は理解した。これも過去のエントリーで紹介した。
この【金色の身体】は、他の人たちに【現一切色身三昧】を得させてこそ、可能となるというのである。実地の指導経験によってこそ、その指導者になれるというのである。
私はそのように理解した。
未来の、専門家を自負する者たちによる仏道は、これに着手すべきであると思うのであるが、どうなのか。
空海も日蓮も、即身成仏の重要性を主張した。
もし、それらの教えに基づく人たちが、単に、ダンマの顕現を得たことで足りるとしてしまうのならば、玉城康四郎による仏道探究の成果は、活かされないことになってしまう。
終地は仏乗であると玉城はいった。しかし、発心がなければそうはならないはずである。
明恵は法然に対し「発心を否定する」と批判したようである。法然の真意が実際は、どうであったかどうかは私は知らないが。
発心はきわめて大事である。
往生を願う気持ちも、その発心を含むものではないかと思うが…。
それは別にして、原始仏典の影響により、原始仏典のブッダの境地の実現を目指すことが発心であるということを平気で説く人たちには、大乗の立場から言えば、それは謗法であるとしかいいようがない。きわめて恐ろしい行為である。
ダンマの顕現を得ていようといまいとに関わらず、正しく発心することがきわめて大事である。
それは別に難しいことではない。
ごく普通に、純粋に仏に対し礼拝、合掌することである。