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パンの仏道日記

仏道の思いを自由気ままに、勝手に記す。
時事問題を考える。市民運動を推進する。

阿字観について検討してみる

2010-01-15 00:35:02 | 仏教
阿字観について検討してみよう。

ネットで検索してみたところ、阿字観について、詳しい解説するHPが見つけた。
以下、その説明する阿字観とダンマの顕現の体験との違いについて検討したい。
阿字観・実践編 [高野山真言宗 那須波切不動尊 金乗院]

まずは、阿字観とは何か。その説明は以下引用する。

最終段階となる阿字観は、 自身の根源である宇宙と、 宇宙の真理の現れである 大日如来との一体感を観想し、 御仏の慈悲の心を観じる瞑想法です。阿字観では、大日如来の世界に同化した自身と 大日如来の心そのものになった自身の心を観想します。


【大日如来との一体感を観想し、 御仏の慈悲の心を観じる】とある。
また、【大日如来の世界に同化した自身と 大日如来の心そのものになった自身の心を観想します。】と。
禅定の基本からいえば、上記のことは、まったく意味不明であり、きわめておかしい。
そのようなものは観ずることはできない。できるのは、【観】があるのみである。

次に、その実践の具体的な説明を以下に引用する。

正観が進み、上級(誤ると危険ですから 必ず師に付いて学びます)になると、 胸中の月輪を しっかりと観じてからこれを段々と拡大していきます。 このことを広観といい、自身が月輪となって 最終的には宇宙法界 (宇宙の万物を包含する全宇宙)にまで拡大し、宇宙法界が自身となるのを観じます。この境界に暫く住してから余り疲れない内に、順次 月輪を縮めて胸中に収めます。 このことを斂観といい、 眼を閉じたまま最後に元の位置に返し 本宮の浄土へ送り奉ると観じます。 阿字観は悟りと同じで、 たとえ神秘的な観想に至ったとしても、それに捕らわれてはいけません。日々の精進のなかで、ひたすら修することが阿字観の極意です。


【広観】とは、【胸中の月輪を しっかりと観じてからこれを段々と拡大していきます】ことをいい、【自身が月輪となって 最終的には宇宙法界 (宇宙の万物を包含する全宇宙)にまで拡大し、宇宙法界が自身となるのを観じます。】と説明する。

上記のものは、玉城康四郎が説明する禅定とは、まったく相容れないものとなっている。
ダンマを観想することはできないし、ダンマを拡大することもありえない。また、ダンマが自身になるということもありえない。

私が考える阿字観の本当の意味は、みなさんもお分かりのように、次のようになるだろう。
【胸中の月輪】とは本来の意味は、【心(しん)】であり、【ひとかたまり】であるだろう。その【心(しん)】であり、【ひとかたまり】に【ダンマ】が顕現する。
それが本当の【広観】であろう。

ダンマの顕現をイメージとして表現しているものといえそうである。
ダンマの顕現が本来の意味であると私には思えるが、阿字観が行道の実践として意味がないとはいえないのは、もちろんのことである。それはそれへ到る手立てのひとつであろう。

大乗の観仏も、イメージするわけだから、両者はその点、共通している。
その手立てによって、ダンマ・如来を実感するようになることが大事であるといえるだろう。
呼吸法もまたそうである。それも手立てのひとつでしかない。禅定を身につけるための手立てにすぎない。呼吸法は最高の修行法であるという人がいるが、いつまでも、それにしがみ付いているのはまったく変であるし、私はそれが最高だとは思わない。自分にあったものを実践するのがいちばいよいのではないかと玉城康四郎はいっていた。そうではないか。

大日如来・法身は、いうまでもなく、心に思い浮かべることはできない。また、自身が法界になることはできない。
自身において、ダンマが顕わになるだけである。自身を貫いて、法界だけがある。それが涅槃・浄土である。
これが本来の【観】であり、【観】が【如来】なのである。

だから、確信とか、確信できないとは、まったく的外れなことである。
【如来】は【ただそこに居るだけ】である。その【そこ】とは<そこ、ここ>の<そこ>の意味ではない。【ただ在るだけである】。その【在る】も、イメージする<在る>ではない。言葉を超えているのである。

この禅定がしっかりと身についたとき、それが【終地】である。
その終地となっても、正しく観察できるわけではまったくない。
その人のままであるから、その人が観察しているのである。
ダンマに習熟すると、日常においても、如来とともに居ることができる。
初心の頃は、禅定において、自我の働きをできるだけ静める必要があったかもしれないが、熟達すれば、自我がある程度働いていても、【如来の働きの状態】を保つことができるのである。日常においても、そうしようと思えば、ある程度できるのである。

このことが【如来の二人連れ】の意味である。
この実現は、ごく普通の人がごく普通のままに、如来とともに仏道を歩んでいくことを意味する。
だから、特別なことはないのである。仏道の基本の実現にすぎないのである。
繰り返しいうが、この実現を得れば、聖人のようになるわけではまったくない。もし、そうなれると思っているならば、それはその実態を無視した願望投影にすぎない。きわめてバカバカしいことである。

仏道の基本の実現を目指すことが何より大事ではないか。それを無視して、聖人になりたいと思うのは、あまりにも現実離れしすぎている。そうではないか。

ごくごく単純に、純粋に、如来を信仰するのがよいと思う。
教義に惑わされることなく、純粋でいいと思う。
ごく普通の、信仰心でよいのではないか。それが大事ではないか。私はそう思う。

力ずくの【任せる】って、かなり変じゃない?

2010-01-11 03:08:32 | 仏教
何度も同じことをいうと、とても疲れる。
また、それを厭わず、言おう。

【如来の働きに従う】ことの意味は、いい直せば、如来の働きとおりにそのままにしておくこと。如来の働きを妨げないで、そのままにしておくこと、である。

【如来の独り働き】のままに従う、順応することである。すべて如来に任せることである。その任せるとは、如来の働くがままにしておくこと。そのままにしておくことを意味する。
ある人が「任せることすら忘れはてている」と言っているが、まったく変なことである。この言葉の意味するところを検討してみると、以下のようになるだろう。
【任せる】ということが忘れているというのだろうから、その忘れるの主語は「私」であるだろうから、その「私」が【任せる】ということが忘れてしまっていることを意味するだろう。そうであるから、この【任せる】という言葉には、その人自身の能動的な働きがある意味で使われていることが推察できる。よって、そのような能動的な【任せる】ことが忘れてしまっているというのだから、訳がわからない。玉城康四郎の説明する禅定の事態とは合わないことになる。きわめて変なことになる。

【任せる】とは、力ずくでそのようにするのではなく、【まったく何もしない】【無為】であるからこそ、【如来は自由自在に働いてくれる】のである。

そのゆえ、先の人のことばは、その意味とは逆さまであると私には解釈できる。力ずくの任せることが忘れたということは、力ずくを任せることをやめたということだけにすぎない。

禅定はまず、ごくごく初歩の段階で、第三禅の楽が大切なのである。
力ずくでは【楽】とはならないだろう。

だから、きわめて変であるというのである。

一見、その人のことばは玉城康四郎の説明する禅定と同じであるかのように見えてしまうようであるが、私にはかなり変であるように感じる。

終地の、不動の確信についても、そうである。確信するとは誰が確信するのか。【私】であるに決まっている。確信を辞書で調べてみると、「固く信じて疑わないこと。また、固い信念」となっている。「固く信じて疑わないこと。また、固い信念」はダンマの顕現の体験にはまったく無関係なことである。というより、それを反対に邪魔するものでもある。「不動の確信を得た」と宣言する人はきわめておかしなことを言っている。もし、事実、その体験を得ているとしても、そのような宣言するならば、その人は自我肥大をひきおこしていると、思わざるを得ない。

【無為自然】の【如来の独り働き】の状態は、【ダンマ・如来が業熟体に通徹してやむことがない】という事態である。
われわれが知ろうと知るまいと、そのようになっているのである。
玉城もそうように説いていることはご存知であろう。

この実現が無生法忍なのである。
これは、この身のままに浄土にいることを意味する。
如来が中心となり、光明を放っている。その世界は涅槃となっているのである。
この事態は大乗経典が説く浄土のありさまに似ている。一方は禅定で体験される涅槃、一方は、それをイメージとして描かれた世界。

ちなみに、私は大乗の信者であるので、死後もそのような世界があって、そこに生まれるのだと信じている(ここでの信じるは、もちろん、自我的な行為である。そうであったらいいなと思っている。笑)

大乗はわれわれ衆生その信仰の実践によって、浄土に生まれることができると説いている。それは大乗の中で、きわめて大事な教えである。

にもかかわらず、涅槃のみがあって、死後の世界はないとか、大乗の説く浄土は方便で、原始仏典の説く涅槃が本物であるとか、むちゃくちゃなことを説く人がいる。本当にバカげたことだ。こんな人たちは相手にしない。勝手にしなさい。

阿弥陀仏の光明は地獄の底まで到り届いている。地獄の底で、しっかりと手のひらで支えている。
また、地獄の底よりダンマが吹き上がってくるのである。
私のどん底、大地のどん底、宇宙のどん底から、ダンマが吹き上がってくるのである。吹き上がって、貫き、上へ、上へと向かっていく。これが無生法忍である。

玉城康四郎は地獄と極楽は紙一重の、裏と表であるといっている。
終地の禅定の事態は、そのようである。

この禅定がしっかりと身につけば、終地であるといえるだろう。
そして、さらに、日常においても、心が比較的に静かであれば、如来の働きの状態でいることかできる。それを玉城康四郎は【如来と二人連れ】といったのである。

仏道の信仰者として、できるだけ、その状態であるようにすることが求められるだろう。その状態である【私】は当然、もとの変わらぬ【私】にほかならない。聖者になれるわけでもなく、智慧が働くわけでもなく、如実知見となるわけでもなく、【まったく変わらぬ私のまま】なのである。これが終地の実態である。それを無視してはならない。

仏道とは何か。それは、如来と二人連れとなって、その人はその人のままに歩むことである。それが仏道の根本であり、基本である。そして、それしかない、一仏乗なのである。

その仏道の歩みは、途方もない時間をかけて、究極の完成へと向かっていく。福徳を集めていく。功徳で身を飾るのである。それがついに完成したとき、大乗の言う成仏、法身の実現、報身の実現、仏智の実現、浄土の建立となるのである。

この実現を目指す心を起こすことが発心なのであって、終地の悟りを得ることを目指すことが発心なのではまったくない。発心を間違って教えている人たちがほとんとであるようなので、世も末であると思ってしまう。

私は仏乗の信仰者であるので、他の人たちにも仏乗を勧める。
何より大事なのは、発心を正しくすることである。
ダンマの顕現を得ることより、比較にならないほど大事であると経典はいっている。また、終地の禅定を得ることよりも、ダンマの顕現を得ていなくても、正しく発心することのほうが、比較にならないほど優れていると経典は説いているのである。

仏像を移行対象(ウィニコット)であるといって、仏像礼拝を低く見るようなことをいう人の気が知れない。どうぞ、ご勝手に、気づきに専念してください。その気づきのおかげで心平安に暮すがよい。それは玉城康四郎の言うダンマの顕現とはまったく違うことを強く言っておく。

仏像を向こう側に、超越的な如来に対し、礼拝することはとても大事なことである。それは如来の御心にかなっている。
ごく普通の純粋な信仰を大切にすべきである。

ダンマの働きに従う

2010-01-10 03:05:19 | 仏教
まったく何もしないこと。これが禅定の極意であるといった。
このようになるために、それなりの修練というか、探究が必要になるだろう。
ある人は、呼吸法が大事であるという。
その人は、それは単なる手段すぎないことを理解せず、絶対視しているかのような言い方をしているように感じた。まったくバカげたことである。
それにこだわっていたら、どうして、【まったく何もしないこと】が可能となるというのだろうか。【如来の独り働き】が可能となるというのだろうか。

その人は、如来を信じる?如来に任せる?といっていた。
それはすべて自我の働きではないか。きわめておかしなことを言っている。【如来の独り働き】の実態に無知であるとしか思えない。
何で、こんな変なことを言うのか、私には理解できない。

如来は貫き、光明を放っている。脳天を貫き、上へ上へと行く。目にも溢れ、顔からダンマが放たれていく。肩からも、腕からも、手からも。全身から。
如来はダンマの雨を降らす。ありとあらゆるものを潤す。
そのありがたさにひたすら合唱するのみである。

ダンマの独り働き。自由自在にさまざまな変化をする。
それは通常、われわれが認識する仕方で認識するわけではない。
そのようになっているのであるとしかいいようがないのである。

如来の働きに応じて、自分がそれにあわせる必要があるときがある。
力が入っていたり、何かのこだわりがあったりする。それを緩めるのである。そのとき、如来はすぐさま、それに応じた働きをするのである。

私は、如来に支配されて、そのまま一生、生きることができたらよいのにと思うときがある。ひたすらに、如来の信仰に生きるのである。
残念ながら、さまざまな制約があって、それはできそうもない。

私は、いまは生きていくことに精一杯で、余裕がほとんどない。
如来のはたらきにすべてを任せて(先の人がいった【任せる】の意味と違う)、ひたすらに如来のはたらきに従っていく。そのはたらきに従うとは、【如来とともに生きること】でもある。
ダンマのはたらきに従っていくことができれば、正しい行為であるとか、、智慧が働いて正しい考え、判断ができるとか、正しく人を導けるとか、正しく説法できるとか、利他が行えるとか、考えている人が大半である。こんなことは絶対にないのである、と以前からずっと、何度も強調して説明した。

ダンマの働きに従うことが仏道の信仰者の務めであり、その勤めにより、その人がどのような考え、行動することはまったく別の問題である。その人はそのひとのままであるのであるから、【その人のままに考え、行動しているのにすぎない】のである。
ダンマの働きにしたがって、そのひとのままに、考え、行動しているのである。

ダンマの働きに従うことができれば、如来のようになれるとか、聖人のように生きれるとかは、終地の実態を無視した、願望投影像にすぎない。

終地の実態を適切に認識すべきである。

【ダンマの働きに従う】ということは、自我の働きではないか?という問いがあるかもしれない。なるほど、もし、そうなら、なかなか鋭い質問である。

でも、残念なことに、それは的外れでもある。以下、少し説明しよう。

終地の禅定について、何かが少しでもあったら、如来の働きを妨げると玉城康四郎はいった。まさしく、そのとおりであるのが事実である。

そのようでなければ真の禅定ではない。
これに習熟すれば、日常においても、如来の働きの状態でいることはある程度可能となる。
その場合、日常生活をするのに活動しているのは、自我であることは、いうまでもない事実である。その自我の働きとともに如来の働きとともにいることができるのである。自我の働きが活発であれば、当然、如来の働きはどこへやらとなってしまう。現実からの要請から解放されて、自我が比較的に静かになれば、如来の働きを実感しようと気にさえなれば、すぐさまにそのようになれる。如来の働きをできるだけ尊重しながら、自我の役目をこなすこともできるのである。

だから、先の問いには、自我が如来の働きを認識して、それに基づいて自我を律するにすることであるというような意味が含まれているのではないかと考えられる。理念や教義に従うときの自我の働きを連想して、<従う>ということばをその意味で考えてしまうのではないかと思う。
私が先に説明したとおり、その意味ではないことがお分かりであろうか。

【任せる】【従う】は、如来の働きの実態に即した意味で理解され、使用されなければならない。
しかし、この体験のない人には、それは無理なのかもしれない。

ある人のそのおかしな発言が気になったので、ここで私の見解を述べておくことにした。

平和への祈り

2010-01-09 00:04:37 | 仏教
今日は仕事の帰りに、本屋さんに寄った。
『岩波講座 宗教〈第8巻〉暴力』という本があった。この講座シリーズは島薗先生が関わっているようなので、どんなものなのか、とちょっと見ることにした。
そこには、平和に関する題名にした論があった。それは町田宗鳳さんという方が書いている。
どんなものなのかな?と思い、立ち読みで申し訳ないのだが、読んで見ることにした。

ナイス、偶然!
そこには、玉城康四郎の【ダンマの顕現】の体験について、述べられていた。
町田さんの主張は、次のようであったと思う。熟読したわけではなく、立ち読みで、ざっと目を通しただけなので、正しく理解していないかもしれない。

玉城康四郎のダンマの顕現は特殊な者たちによる神秘体験ではなく、誰にでも可能であるのだから、それに一歩でも近づけるように努力すべきである。
この体験は【光の体験】といえる。この体験はさまざまな宗教者もそれを得た。ブッダのみならず、法然、親鸞など。
狂気の源泉というべき業熟体によって、世界において戦争・紛争が絶えない。この業熟体から吹き上がるダンマによる祈りによってこそ、平和が実現される。
遠隔気功は実際に物理的に影響が与える。その祈りも世界に影響を与えることが期待できる。


以上、町田さんのその主張の趣意。

これを読んで、私は、う~ん、ちょっと同意できないと思ってしまった。
ダンマの噴き上がりによる祈りに対し、遠隔気功などのようなオカルト的なことを持ち込むのは、かなり問題ではなのか、と素直に思った。

なるほど、玉城康四郎の著書のなかで、ダンマを物理的に作用するかのようなことが述べられている。私はこれを始めて読んだとき、怪しいと思ってしまった。そのため、この玉城の考えに同意しないことから、町田さんの主張にも同意できない。

業熟体によって、世界の紛争が果てなく起きるのだというのも同意できない。
これも、玉城康四郎が著書のなかで、現代の世界の混乱の世相に対し、業熟体が溢れている様である(趣意)と述べている。町田さんもその玉城の主張に従っているのかもしれない。私は、この玉城の主張にも同意できない。

たしかに、業熟体による面もあるだろうけれども、それをすべての原因としてしまうような論理は、あまりにも一面的な見方である。すべての悪は業熟体のためであるという論法で、世界の現実を語るのは、まったく現実的ではない。現実を語る場合、できるだけ事実に即して考えていくことが大事なのであって、そのような論法で事実を見ることは、それこそ、如実知見を大事にしようとする仏教の主張とは逆さまなことになってしまう。それでよいはずはない。

終地に達しても、如実知見にはならないことが、この玉城の主張からもわかるではないか。

紛争がどのようなものであるか、私は知らない。
私は一市民として、その解決のために何かできないか、と考えているだけである。
仏教の信仰者として、何かできないかと考えるとき、祈ることをそのひとつの行為であるかもしれない。

しかし、町田さんのいうような、遠隔気功のような物理的効果を期待するものというのは、とても同意できない。

祈りというのは、そもそも、そのような効果を期待してなすものなのだろうか?
祈りというのは、もっと純粋なものなのではないか。

空爆やテロの脅威に恐れおののいている現地の住民の姿を、われわれが想像してみるとき、「その恐怖や苦境から、ただちに解放されますように」と祈っているのではないか。それが【祈り】ではないか。その【祈り】にあれこれ理屈がいるだろうか。
この【祈り】は何かのの宗教を信仰してなくても、そのようになるのではないか。
私たちが理屈抜きの、その【祈り】となっているとき、その人の信仰する宗教の違いは関係がない。そして、その人がダンマを体験していようといまいと関係がない。【祈り】とはそういうものであると私は思う。

この前、参加させてもらった、「築地本願寺でのガザ解放のキャンドル行動」は、きわめて貴重な体験をさせてもらった。宗教を越え、イスラム、キリスト、仏教のそれぞれの仕方でそれを祈った。信仰に関係しない市民たちもそれぞれの思いで祈った。その祈り自体が大事なのではないか。その祈りからはじまる。ひとつの紛争解決の手助けにつながるのではないか。ほんの些細なことであるが、志を同じくする者たちが集まって、祈ることが大事なのではないか。そこに宗教の大事な一つの役割があると思う。

町田さんは、四弘誓願も平和への祈りのひとつであるという。
なるほど、同意する。煩悩を絶つという誓願を除けばであるが。

では、ダンマの貫きの状態における祈りというものは、どういうものであるのか、ということも、ついでだから、考えてみることにする。

祈りは無私のものであるのか、それとも、そうではないのか。
私はどちらでもあるという。

前回のエントリーで、玉城康四郎のいう【如来の独り働き】について書いた。
その場合、少しも私があってはならない。その働きを妨げるからと。そう玉城はいった。

まさしく、終地の禅定はそのとおりである。

おそらく、宗派を問わず、勤行の最後に回向というものがあるだろう。
勤行で得た功徳をあまねく一切に及ぼし、自他ともに仏道を完成させると祈る。それが回向であろう。

大乗経典『般若経』で、回向とは何かという説法がある。
回向とは般若波羅密であるという。つまり、法身・如来である。
如来があまねくすべてに及ぼしているのである。
そのことからいえば、回向は無為自然の如来の独り働きであるといえる。

私という働きが少しでもあってはならない、【如来の独り働き】が真の回向なのだといえそうであるが、それは半分正しく、半分正しくない。

それも回向のひとつであり、それだけではない。
如来の働きとともにいる【私】が他者の平和・幸福を祈る。他者に功徳を及ぼす。これも回向である。

第八地の菩薩が無生法忍を得て、阿羅漢や独覚のあり方に陥ることなく、自我と業熟体の存在を自覚し、正しく発心し、自身の誓願を立てる。
発心し、誓願するのは【私】にほかならない。

如来は本願力・加持力であることから、無生法忍となって、如来の本願力そのものとなったことが、そのまま、誓願の実現となっている、と理解してしまいがちである。
そのような意味にもとれるが、そうではなく、【私】が主体的に、如来の本願力と区別して、発願することが求められているのだ。
阿弥陀仏も菩薩のときに、自身の誓願を立てたではないか。同じく、そうするのである。その人自身が決めるのである。

大乗の核心は、衆生とともに、というより、衆生として仏道を歩むことを決意するのである。
そのために、自他の区別、現実と浄土、衆生や世界を区別する自我の働きが要請されるのである。
その自我の働きを無視し、軽視してしまえば、浄土の住人や阿羅漢、独覚と同じとなってしまう。
現実から離れて、浄土の住人として生きることも、大乗の生き方のひとつである。発心していれば、大乗といえる。発心しなければ、大乗ではない。たとえ、終地に達しても。

【終地に達すれば、そのまま大乗である】という玉城康四郎のことばをその字義どおりに受け取ると大きく間違ってしまうことになる。

終地に達しても、【私】は【私】に他ならないのが事実である。これが終地の実態である。これを認めなければならない。
その【私】が発心し、如来とともに仏道を歩んでいくことが、仏乗・仏道なのである。

町田さんの、祈りがダンマの噴き上がりに基づいてる必要があるという主張に私は同意できる部分もあるが、ダンマの顕現を得ていようといまいと、世界各地での貧困や紛争の苦しむ人たちを思い浮かべ、すぐさまにその苦しみから解放されることを祈ることが、まずは大事ではないか。それは、いますぐに、できることではないか。

そして、祈るだけではなく、その起きていることに、新聞、テレビなどを通して、ほんのちょっとだけ知って見ることや、ほんのささやかな何かの行動をしてみることを、ごく普通の市民レベルで行うことができるといいのではないか、と個人的には思う。私はできるだけ、そのようにしていきたいと思っている。ほんの些細なことしかできないが、そうしている。もちろん、それは利他というような仰々しいものではまったくない。

祈りが超能力のように、現実の世界を変えることができれば、こんなにいいことはないが、そんなことがありえるとは私には思えない。
ただし、共時的現象として、何か不可思議なことが起こる可能性があるということはある。私は比較的に、そのようなことがよくおきているようなので、特別なこととは思わない。
共時性については、ユング心理学の説明する意味のものであって、オカルト的な本が説明する意味のものではない。
町田さんの先の主張には、オカルト的なものを感じた。その読者がダンマの顕現には超能力的な性質が具わっていると誤解しまうのではないかと私は恐れる。
私はオカルトには距離をおきたい。もしかしたら、テレビで放送しているような、遠隔気功や超能力などの不思議なことは存在するのかもしれないが、私にはまったく関係がないことである。
玉城康四郎も、著書の中で、オカルトにとらわれてはならないと書いていた。ご注意、ご注意!

ダンマ・如来の独り働き

2010-01-07 21:28:30 | 仏教
禅定において、ダンマを見るということもなく、ダンマを体得するということもなく、ただひたすらに、ダンマ・如来の独り働き。ダンマ・如来に任せるということもない。ただひたすらに、ダンマ・如来の独り働き。

これが終地の禅定の基本である。

まったく何もしない。そのままがダンマ・如来の独り働きとなっている。何もしないこと。ひたすら何もしないこと。
ダンマ・如来はひたすら働いている。ありとあらゆるものを目覚めさせようと。

すべては如来さまがしてくださる。少しの【私】があってはならない。だから、その働きに従うということもない。

自己放棄。すべてを捨ててしまっている。だから、捨てるということもない。

目覚めるということもない。目覚めさせられているということない。
ただひたすらに、ダンマ・如来が働いているのである。

これが如来の働きである。われわれが知ろうと知るまいと。そのようにしておられるのである。

われわれが禅定においてすべきことは、そのようであることである。
玉城康四郎のいうように、自分の力で禅定に入るということはそもそもありえない。如来の働きによってこそ、可能である。しかし、それも真に正しくない。
如来の働きが禅定であるからである。

ただひたすらに如来の独り働きであることが真の禅定なのである。

われわれはそれを体で学ばなければならない。
その本当の意味を知ることはそう簡単ではない。
それを自らの工夫して探究していくよりほかない。

ほんのちょっと、偶然に、ダンマらしきものを体験しただけで、喜んでいる場合ではない。
少し名が知れた、ある仏教者のなかに、それを自慢している人がいるようである。
はやく、玉城康四郎に追いつこうと性急になりすぎて、まだまだ未熟であるにもかかわらず、それを自覚せず、少しは追いついたような気でいるのかもしれない。その言動を知り、私にはそう思えた。

これから学ぼうとする人たちは、そのような過ちに陥らず、ひたすらに探究し続けていくべきではないだろうか。