エウアンゲリオン

新約聖書研究は四福音書と使徒言行録が完了しました。
新たに、ショート・メッセージで信仰を育み励ましを具えます。

豚に真珠

2010-04-04 | マタイによる福音書
 そして、有名な諺が生まれた箇所です。「神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない」(マタイ7:6)から、「豚に真珠」と言われるようになりました。
 マタイだけに見られる言葉であり、ルカも気づいていない言葉のようです。全く別の資料に基づくのでしょうか。そして、なぜここにあるのでしょうか。
 そもそも犬だの豚だの、これらはユダヤ社会では不浄な動物として忌避されていたものでした。豚については汚れた動物だという律法規定がありますが、犬についても、詩編や箴言において、愚かなことをすることが指摘されています。
 このような犬に、神聖な犠牲の肉を与えるようなことはするな、と一方では言い、豚に最高の宝石を与えるな、と言います。要するに同じようなことを言っているだけなのですが、さて、この犬や豚とは、誰を念頭に置いていることなのでしょうか。
 マタイの意識からすると、これが異邦人を指していると取れなくもないことになります。また、ファリサイ派を中心としたイエスの敵の勢力を指しているという考え方もあります。いずれも、この文脈にこだわらずに理解してみたものです。
 それとも、あくまでも、このイエスの言葉に従わず、人を裁くことをやめない人々のことを指しているのでしょうか。
 マタイがこのように不思議な脈絡で、不思議なことをイエスに言わせているのは、もはやストーリーとは関係なく、語録をここにまとめているという捉え方もできます。そのとき、有力な解釈は、「トマス福音書」に基づくというものです。
 このグノーシス的語録では、「捜せ、そうすれば、見いだすであろう」という92節と、「捜す者は、見いだすであろう。開けてもらえるであろう」という94節の間に、「聖なるものを犬にやるな」「真珠を豚に投げてやるな」という93節が置かれています。
 次の7:7に、これを挟んでいる箇所がマタイによって置かれているのです。トマス福音書をマタイが見たというよりは、ここに何か別の資料があって、これらが並べ置かれていた、という理解が可能です。
 そうなると、この犬と豚の話は、次の「求めなさい」(マタイ7:7)の脈絡で受けとめるべきものとなります。しかし、そういう理解が簡単にできるならば、すでにそれが定説となっているはずです。この間に、「それでは人を罪人呼ばわりして罪に定めるようなことより先に、いったい何を私たちはすればよいのだろうか」という問題意識を抱かせておくとよいのかもしれませんが、それでも、まるで神殿祭儀を守るべし、のようなこの句のバラスが、福音と合致しないように思われてなりません。あるいは、犬に与えてはならないものは、後のキリスト教会の視点からすれば、聖餐のことを指しており、そういう解釈も後の記録にあると聞いています。
 有名な句のわりには、意味が判然としない気がします。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「人を裁くな」(マタイ7:1) | トップ | 「だれでも」(マタイ7:8) »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

マタイによる福音書」カテゴリの最新記事