エウアンゲリオン

新約聖書研究は四福音書と使徒言行録が完了しました。
新たに、ショート・メッセージで信仰を育み励ましを具えます。

天の下と神の業

2024-09-21 | メッセージ
コヘレト3:1-11 
 
「天の下では、すべてに時機があ」ると始まり、「だが、神の行った業を人は初めから終わりまで見極めることはできない」でここは結ばれます。これらに挟まれる形で、有名な美しいフレーズが並びます。コレへトと称する者が論ずる、人間の知恵の最高峰です。時機というものがあり、人は何らかの経験を、時の中で刻むことになります。
 
ここに、「天の下では」という条件が付いていることに気を払いたいと思います。「地上」と理解してもよいでしょうし、「神」に於いてはそうではない、と捉えることもできようかと思います。この後、「永遠を人の心に与えた」のが神であることを告げているから、神は「永遠」なるものをもっている、ということが分かります。
 
そして人は「永遠」を、心の中にのみもつことが許される、というようにも理解できるような気がするのです。人の世界には「時」が刻まれ、神の「永遠」が現実に、というよりは、心の中にのみ、あるいは観念的にのみ与えられる、という対比を見るように感じられます。神は、「人の子らに苦労させるよう与えた務め」があるらしいのです。
 
コヘレトは、これを覚りました。永遠を十分に知ることはできない、ということを意味しているのでしょうか。しかし「人が労苦したところで何の益」もないことを、コヘレトは考えています。永遠についてあくせく労苦しても無駄であることを言っているのでしょうか。「すべての出来事に時がある」と、コヘレトは立て続けに並べます。
 
説き聞かせるように、一つひとつ噛み砕いてその例を挙げます。「時がある」と印象的に並べます。それらは、神が「すべてを時に適って麗しく造」ったことを証拠立てるものです。それは、人間の立場から、人間の認識する「時」というものです。人間世界は、神の永遠とは違い、限られた「時」の中で動いているのです。
 
人間の世界では、一つひとつが「時」の中で出会う出来事となります。しかし、永遠を概念として与えられてはいますが、「見極めることはできない」のが人間というものです。ここに、人と神との間の大きな溝を覚えます。私たちは「天の下」にいます。これを、忘れてはなりません。そしてそこに、神の業が起きるのを見守るのです。




神はすべてを時に適って麗しく造り、
永遠を人の心に与えた。
だが、神の行った業を人は
初めから終わりまで見極めることはできない。(コヘレト3:11)

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