あまり知られていませんが、滋賀県の近江八幡市は大正時代から昭和30年代にかけて靴の名産地として有名でした。
近江八幡は古くから綱貫という冬場の農作業時の雨靴が作られていました。
明治時代になり綱貫が使われなくなると綱貫や下駄表を作っていた職人が靴職人に転じて、明治8(1877)年に「西洋沓九十足」を作った記録が残っています。
八幡靴が一躍有名になったのは先覚者の小西喜八、河井市次郎らの技術開発によるもので、小西喜八は大阪市の西濱中通りにあった和田時蔵製靴店や神戸や敦賀の製靴店で修行し、大正6(1917)年に故郷の近江八幡に戻ってからは大阪の商店との取引を行いながら一般向けの高級紳士靴を製造し、多くの弟子を育てました。
明治末期に河井市次郎によりミシンが導入され、大正初期まで婦人用軍靴の輸出を盛んに行っており、近江八幡では商用でロシアと行き来する人がいたほどでした。
その後第一次世界大戦とロシア革命の影響で職人の数が激減してしまいますが、大阪の砲兵工廠の長靴の受注により復活します。
大正2年の近江八幡の靴製造戸数は滋賀県全体の約47%、職人の数は約86%、生産額は約69%を占めていました。
戦争が激化すると近江八幡でも軍靴製造が主流になり、職人の一家総掛かりの仕事になりました。
昭和20~30年代まで近江八幡のほとんどの男性が靴職人になった時期があり、町内の業者数は60軒、250人が働き、年間35万足を生産を生産していました。
しかし1960年代に入ると近江八幡にも靴の大量生産時代の波が訪れ、近江八幡の手縫い靴は機械靴の価格に対抗できず、衰退が始まりました。
1964(昭和39)年に約4000人もいた職人が1971(昭和46)年には275人に激減し、現在近江八幡市の靴業者はオリジナルブランドの
リバーフィールドを展開するコトワ靴製作所1社のみとなりました。