日本古靴資料館

日本の靴の歴史についてのデータベースですが、まだ未完成ですので気長にお待ちください。

明治38年頃のトモエヤのポスター

2018-10-25 22:06:00 | トモエヤ

私が所有している物ではないですが、1905(明治38)年頃のトモエヤ(鞆絵屋)のポスターです。

浅草にある皮革産業資料館にも同じ物が展示されています。
副館長で日本の靴の歴史研究の第一人者である稲川 實先生の名著「西洋靴事始め」にも登場しますが、本ではモノクロです。

第一工場

底着部

底仕立部

動力室及仕上室の一部

トモエヤの二代目、相場達之助がアメリカからマッケイ式製靴機械の輸入と同時に招聘した技師長ジェームス・グリンレー

釣込部
※右の機械の説明
此器械は最新の發明になり一時の踵積上げを打着くるものにして電光式の稱あるものなり

進行中の仕事

甲皮裁縫部

日本皮革 オリンピアのキャップトゥ

2018-10-23 18:17:00 | 日本皮革(ニッピ)



日本皮革のオリジナルブランド、オリンピアのカーフ&キッドスキンのキャップトゥです。



低い爪先でスクエアトゥ。
一見微妙な形ですが、履いた方がかっこよく見える不思議な靴です。



ハンドソーンウェルト製法で、インソックが合成皮革なので60年代後半~70年代位の物だと思います。

日本皮革がニッピに社名変更したのは1974(昭和49)年の2月1日ですが、日本皮革時代にもニッピという商標を使っているので、ニッピだからと言って74年以降とは限りません。

日本皮革はニッピサービスセンターという直営店があったそうで、オリンピアはここで販売されていたのでしょうか?

以下の画像は1960年当時の神戸・元町のニッピサービスセンターです。



アメリカ屋靴店の歴史 その6

2018-10-18 10:28:00 | アメリカ屋靴店
アメリカ屋靴店は1967(昭和42)年11月に大阪心斎橋店、翌年8月に大阪戎橋店の出店の成功により、スピード出店の時代に入りました。

両店で12億円巨額な費用を投じた店内は、売場面積350~500平方メートルを誇り、中でも戎橋店は店内にエスカレーターを設置し、大きな話題になりました。


オープン当時の大阪戎橋店

高度経済成長期に入りアメリカ屋靴店も徐々に業績を伸ばし、1971(昭和46)年に靴業界初のフランチャイズシステムを導入しました。
9月24日にフランチャイズチェーン第1号店として溝の口駅前店がオープンし、初日200万円を売り上げ、大成功を収めました。
この年フランチャイズチェーンを高松、厚木に、翌昭和47年に相模原、川崎、昭和48年には富山、沼田、富士吉田、堀切、秩父、苫小牧、五所川原、木更津と全国各地に展開しました。

オープン直後の溝ノ口店


八幡靴

2018-10-13 21:09:00 | 八幡靴
あまり知られていませんが、滋賀県の近江八幡市は大正時代から昭和30年代にかけて靴の名産地として有名でした。

近江八幡は古くから綱貫という冬場の農作業時の雨靴が作られていました。
明治時代になり綱貫が使われなくなると綱貫や下駄表を作っていた職人が靴職人に転じて、明治8(1877)年に「西洋沓九十足」を作った記録が残っています。

八幡靴が一躍有名になったのは先覚者の小西喜八、河井市次郎らの技術開発によるもので、小西喜八は大阪市の西濱中通りにあった和田時蔵製靴店や神戸や敦賀の製靴店で修行し、大正6(1917)年に故郷の近江八幡に戻ってからは大阪の商店との取引を行いながら一般向けの高級紳士靴を製造し、多くの弟子を育てました。

明治末期に河井市次郎によりミシンが導入され、大正初期まで婦人用軍靴の輸出を盛んに行っており、近江八幡では商用でロシアと行き来する人がいたほどでした。

その後第一次世界大戦とロシア革命の影響で職人の数が激減してしまいますが、大阪の砲兵工廠の長靴の受注により復活します。

大正2年の近江八幡の靴製造戸数は滋賀県全体の約47%、職人の数は約86%、生産額は約69%を占めていました。
戦争が激化すると近江八幡でも軍靴製造が主流になり、職人の一家総掛かりの仕事になりました。

昭和20~30年代まで近江八幡のほとんどの男性が靴職人になった時期があり、町内の業者数は60軒、250人が働き、年間35万足を生産を生産していました。

しかし1960年代に入ると近江八幡にも靴の大量生産時代の波が訪れ、近江八幡の手縫い靴は機械靴の価格に対抗できず、衰退が始まりました。
1964(昭和39)年に約4000人もいた職人が1971(昭和46)年には275人に激減し、現在近江八幡市の靴業者はオリジナルブランドのリバーフィールドを展開するコトワ靴製作所1社のみとなりました。