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我が心の俳句とか徒然 〜祖谷馬関〜

「夏草や兵どもが夢の跡」 芭蕉

京都シリーズ、第二弾は、「聖護院」です。(^。^)

聖護院は、役行者を宗祖とする本山修験宗総本山。寛治4年(1090)、白河上皇の熊野御幸で護持僧を務めた増誉大僧正に、「聖体護持」から2字をとった聖護院を与えられたことに始まります。代々、皇族か摂関家が門主(住職)を務め、天明の大火により御所が火災に遭った際は、光格天皇の仮皇居ともなりました。総本山として、法要の際は全国から多くの山伏が集まり、大規模な護摩修行が勤行されます。

宮門跡として明治まで代々皇族や摂関家が門主(住職)を務め、時の天皇の仮御所ともなった格式高い寺院であり、本山修験宗の総本山。それを証明するかのように、境内は狩野派による豪華絢爛な障壁画に彩られています。(狩野永納と狩野益信

また、廃仏毀釈の際には廃寺となった末寺から本尊を預かったため、現在も多くの不動明王像が安置されています。後水尾天皇が女院のために建てた優美で繊細な書院は御所から移築されたもの。

明治までは西側に聖護院村があり、鴨川にかけてうっそうとした「聖護院の森」が広がっていました。
その森の中にある御殿であることから、「森御殿」ともよばれ、 今でも近所には聖護院と呼ばずに、「御殿」と呼ぶ方もあります。
この森の紅葉は、錦の織物の様に美しい為「錦林」と呼ばれ、 「聖護院」と共に今も地名として使われています。

ところで、聖護院の近くに「聖護院八つ橋」という有名な和菓子本舗があります。
由緒を調べてみると、、、江戸時代前期、箏の名手であり近世筝曲の開祖と称えられている「八橋検校」なる人物に辿り着きます。(^_^)

八橋検校は、没後、黒谷の金戒光明寺にある「常光院」(八はしでら)に葬られましたが、墓参に訪れる人は絶えることがありませんでした。
そのため検校没後四年後の元禄二年、琴に似せた干菓子を「八ッ橋」と名付け、黒谷参道にあたる聖護院の森の茶店にて、販売し始め、これが現在の聖護院八つ橋本店の場所にあたるそうです。( ^_^)/~~~

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さて、「奥の細道」より、今日の一句。

「夏草や兵どもが夢の跡」 芭蕉

出ました!、我が国を代表する超弩級の名句!、確か教科書にも載ってますよね!!(◎_◎;)

もはや、解説の必要はないかもしれませんが、一応、ネットより引用させていただきます。m(__)m

(解説)
芭蕉が46歳の頃の作で、岩手県平泉町で1689年5月13日(新暦6月29日)に詠まれました。
この平泉は平安時代に奥州藤原氏が繁栄を築いた地として知られています。
兄の源頼朝に追われた義経は、藤原秀衡のもとに身を寄せますが、秀衡の死後、当主の泰衡に攻められてしまいます。居城を構えていた平泉の高館(たかだち)が義経最期の場所となりました。
それから約500年の月日が経ち、芭蕉がこの高館にのぼりあたりを見渡すと、かつての藤原家の栄華の痕跡はあとかたもありませんでした。
ただ夏草が青々と生い茂る風景を目の当たりにして、「全ては短い夢のようだ」と人の世の儚さを詠んでいます。
芭蕉は源平の盛衰について描かれた『平家物語』についても造詣が深く、悲劇の若武者・義経に対しても同情の念をもっていたことでしょう。

(句意)
今や夏草が生い茂るばかりだが、ここはかつては武士達が栄誉を求めて奮戦した跡地である。昔のことはひと時の夢となってしまったなあ。

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夏草に世の無常を託し、兵の戦地を夢の跡と評す、、、無駄な表現は一切無い、素晴らしい文学的技巧です。(^。^)

この句の秀逸な点は、わずか17文字を読むだけで、眼前に夏草と戦場跡の風景が広がっていく、イメージを呼び起こす効果をもつところですね。(^-^)

しかも、きちんと夏草という季語が、乾いた無常観と生命の力強さを表し、イメージを拡げるキーワードとして機能しています。(^_^)

さすが、俳聖・松尾芭蕉殿、、、参りました、、、弟子にしてください!m(__)m

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では、馬関より、返句献上申し上げます。

 「秋晴れや法螺貝聞ゆ東山」 祖谷馬関

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