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我が心の俳句とか徒然 〜祖谷馬関〜

🏯 二条城、その役割とは 🏯

京都検定対策を進めていると、歌を詠むのもそちらに染まってしまいます。俳句の折もそうでした。(≧∇≦)

まぁいっか!、、、身体はひとつ、心もひとつ、使い分けられないですからね!(^。^)

京都市内に聳える「二条城」、、、ご承知のとおり、徳川幕府創設の折に、家康が洛中の居館として建設した巨大な城郭です。(^-^)

一方で、我が国随一、「日本史上、最大規模のムダな公共事業」と揶揄されます。(ToT)/~~~

というのも、約260年にわたる徳川の世で、二条城が政務や式典に使用されたのは、ほんの数回だけ、、、しかも、江戸時代の最初と最後に集中し、元禄文化花咲く太平の世などの二百年間はまったく使われた痕跡がないのです。( ; _ ; )/~~~

主な使用主は、家康、秀忠、家光の開闢三代にわたる将軍、、、と、あとは、ラスト二代の家茂と慶喜、、、(ToT)/~~~

このうち、大きなイベントは、家康と豊臣秀頼の会見(1611年)、、、このあと、秀頼の威風を怖れた家康は、方広寺の梵鐘(国家安康、君臣豊楽)に難癖を付けたりして、大坂冬の陣、夏の陣と豊臣家滅亡への舵を切ります。
そして、次にはもう、幕府の落日、、、最期の将軍・慶喜が大政奉還の歴史的舞台として、この二条城を使いました。(^-^)

他に、秀忠の娘・和子(東福門院)が公武合体政策のもと、後水尾天皇に入内された折にその拠点となりましたが、その後、あまりに使われないため、「二条城代」という朝廷の監視を兼ねた洛中のお目付役も、そのうち「二条在番」なる、名前からして「留守番してるだけ」のような軽い職と相成りました。m(._.)m

それにしても、この二条城、、、ムダな公共事業と言われるものの、視点を変えると、貴重な役割を担って来た気がします。(^_^)

明治期に、最初の京都府庁として用いられ、以降も、元離宮として江戸期の歴史を我々に伝えてくれている側面だけでも、決してムダとは片付けられない、ですよね、、、ちなみに、二の丸御殿は三代将軍・家光の頃の普請のままだそうです。( ^_^)/~~~

    「二条城徳川の世を見守りし
                    二百年中五度の開門」

by 祖谷馬関

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