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【新連載】 『四国曼荼羅花遍路-通し打ち45日の マイウェイ』

家族の原風景、満州文官屯を訪ねる-1

2019-06-23 01:25:04 | ファミリー(家族の原風景、満州文官屯)
家族の原風景、満州の文官屯を訪ねる
 私の家族は、アジア太平洋戦争の時に父が技術者で軍属であったため満州(中国東北地方)に移り住んでいました。私は5人の兄弟の末っ子で、私以外はすべて満州からの引き上げの体験をしています。現在では、父と長兄はすでに早世し、母も2007年10月に97歳で天寿を全うし(たと思っ)ています。彼岸まで戦時中に子育てをし、家族を守り続けた女性としての尊厳を持ち続け、凛々しく旅立ちました。母は、家族の原風景を語るのには少し年齢が行き過ぎていたかもしれませんが、この文書のオリジナル版を作成したとき(2001年)はまだ矍鑠としていて、特に戦時中のことや「命がけで」子育てをした時代のことは鮮明に覚えており、多くの体験談を聞かせてもらうことができました。私の兄、姉もだんだんと年を重ねてきていますが、何よりも家族の核となる母親の加齢が、家族の原風景を共有し続けることをなかなか難しくして来ていました。
  私は、戦争を知らない世代(1948年生)ですが、「命がけで」子育てし、「命がけで」生き抜いてきた父や母や兄、姉たちの戦争体験を自分も知り、そして私たちの子や孫に、戦争に翻弄された家族の原風景を語り継いでいく責任があると思い、家族の原風景である満州(中国東北地方…以下「満州」)を訪問し、この文章を記そうと思いました。


 地図にない町、満州(中国東北地方)・文官屯(ブンカントン)を訪ねて
 -「家族の原風景である満州(中国東北地方)旅行」に参加して-
(2019年6月20日版)

1.満州の大地は、私の家族にとっては第二の故郷である。

 私の父 (明治四十年生・千九百七年生) は、砲兵器製造に関わる優秀な技術者であった。一九三〇年代に、大阪砲兵工廠に技術者として勤務し、砲兵器の発明・改良で数度にわたって「天皇表彰」を受賞している。父は、設計能力も優れていたのだが、おそらくメンテナンス(修理・修繕)技術が卓抜していたのだろうと思われる。全く動かなくなった大砲を分解し、完全復旧させる事などは、得意だったと聞いている。
 父は、アジア太平洋戦争時の旧「日本軍」の多方面にわたる戦線の拡大展開にともない、軍属技術者として、東南アジア各国の最前線に単身赴任し砲兵器のメンテナンスに従事するようになった。家族の記憶だけでも、インドネシア・シンガポール・マレー半島・ビルマ(現「ミャンマー」)・タイ・台湾等に赴任している。やがて一九四〇年以降、満州に赴き、「関東軍」の戦線拡大とともに「満州」各地を転々と移動し、砲兵器のメンテナンスを行うようになった。「満州」も遥か北西部、ハルピンはおろかチチハルやハイラル、黒龍江方面まで赴き、民間人(技術者)であったのでロシア人との接触もあり、ロシア語が少し話せたようである。それが、アジア太平洋戦争の終戦にともなう「ソ連軍」の「満州」侵攻の際、本人の本意ではないだろうが、「案内人」として侵攻してきたソ連軍に「便利屋」として利用されていたらしい。
 一九四三年六月に「内地」より家族を呼び寄せ、「腰を据えて仕事に従事するように」との社命により、父は母、長女H、長男H、次男Jの四名を大阪まで迎えに来た。家族総勢五名は、大阪から汽車で下関まで行った。下関では、大陸に渡航しようと何日も待機している商売人や、開拓農民らの人たちでごった返す中を、軍属の家族は、時間待ちすることもなく、二等船室に案内され、そこから海路釜山へと向かった。釜山到着後、鉄路「満鉄」を乗り継ぎ、数日後の一九四三年六月に、当時は「満鉄奉天駅」の次の駅であったらしい「文官屯」駅に到着した。「文官屯」到着後、歩いて官舎まで行った。自宅として用意された官舎の隣家は「山田さん」という方で、到着後簡単な飲食物を頂き、ほっと一息ついたとのことである(母及び姉Hの話。以下文官屯での生活の様子は同じ。)。
 翌日は、「共栄会」という市場のような商店に、日用品の買出しに行った。当時は「配給制」であったが、その当時は、たくさんの「ロシアケーキ」「お菓子」等の甘いものがあり、「高級軍属」の家族である母は「多い目に配給された」ことや、米は馬車でのちほど配達されてきた思い出がある。このようにして、家族の「満州」生活は「満州国奉天市趙家溝区文官屯藤見町七丁目一-八 南満砲兵工廠官舎」から始まったのである。
 なお、大阪砲兵工廠は、戦前は国鉄大阪環状線の「京橋駅」から「森の宮駅」にかけての西部と、大阪城の北東部に囲まれた一帯の広大な敷地に威容を放って聳えていたが、戦時中の大阪大空襲で徹底的に集中爆撃され、焼き尽くされた。戦後、私の中学校時代までは、赤茶けた鉄骨がまるで不規則な枯れ木のように立っていた。現在は廃墟も取り除かれ、そのあとに造築された植栽や植林もすっかり落ち着き、瀟洒なJR「大阪城公園」駅があり、大阪城ホールや、太陽の広場のある、広大な府民の憩いの場となっている。

 このたび、やはり満州から引き揚げてきた経験を持つ先輩のGさんの呼びかけの「ゆかりの地としての中国東北地方旅行」に参加し、家族の波乱万丈の「家族史」の中で、とくに第二の故郷としての原風景を心底に培った満州を実姉H、パートナーFとGさんの友人であるFさんご夫婦、Fさんの総勢7名で訪れた。

2.“文官屯”という街

 
瀋陽(旧「奉天」…以下「奉天」現在のことを書く場合は「瀋陽」) は現在は、中国遼寧省の省都で人口は六百万人余、中国東北地方随一の都市である。戦前から、撫順の石炭や東北地方の豊かな資源、あるいは鞍山の「旧昭和製鋼所」で精錬された鋼材等をアッセンブリーした重工業で代表的な都市であった。現在もなお中国有数の重工業都市であるが、一方天然資源のほうは、撫順の石炭はかっては露天掘りで採れるほど豊富にあったのだが、最近では枯渇の状態とのことである。
  私達が訪問した二〇〇一年四月三十日は、年初来初めての雨、すなわち二十一世紀始めての雨が降った日であった。文官屯は奉天市街地の北部にあり、郊外との境界に近い街である。瀋陽駅(旧「奉天」駅)からは、戦後新しく建設された瀋陽の玄関口である瀋陽北駅を経て、長春に向かう鉄路(国営の鉄道)の一駅目が、かつての「文官屯駅」であるとの姉の記憶であるが、今回訪問して、この鉄路は本線ではなく、工場への「引込み線」ではないかと思われた。現在では廃駅となっているようだが、その場所には駅舎跡と思われるレンガ造りの建物と材木の製材所兼小規模な貯木場がある。「文官屯」の近辺には旧日本軍の満州への本格的なアジア太平洋戦争の端緒となった謀略事件である柳条湖事件勃発の地がある。柳条湖事件は、一九二八年の「満州某重大事件」といわれた「関東軍」の策略(実行者は河本大佐)による「満州軍閥」張作霖爆殺事件に引き続いて、「満州事変」の泥沼に突入してゆく直接の契機となった、「関東軍」の仕業による謀略事件で、一九三一年九月十八日夜に引き起こされた奉天郊外柳条湖での「満鉄」爆破事件である。中国では「九・一八事件」といわれている。また、「文官屯駅」から車で二十分程西に行ったところには、女真族で清朝の祖ヌルハチを次いだ太宗ホンタイジと孝端文皇后の陵墓のある北陵公園がある。北陵公園は現在世界文化遺産の認定を目指し、環境の整備を行っている。ちなみに、ヌルハチ自身の陵墓は郊外にあり、東陵と言われている。
文官屯は、地図に無い街である。今回の中国旅行に先立って、「地球を歩く」等のガイドブックはもちろん、図書館でかなり詳しい古地図や中国図書の「産業図鑑」等を調べてみたが、ついに「文官屯」は見つけることができなかった。余程小さい街なのか、それとも戦後の中国では忌まわしい満州国時代の負のメモリアルであり「禁句」となっているのか、その理由は全く分からなかった。
 一九四三年から一九四六年の間、家族は「満州国奉天市趙家溝区文官屯藤見町七丁目一-八 南満砲兵工廠官舎」に住んでおり、当時の戸籍謄本も現存している。今回の旅行にあたって、戦時中の「満州国」作成の「奉天」市街地地図以外に、多くの旧住所表示と現在の住所表示の対照表を入念に調べたのだが、市の中心部に「藤町」はあるが「文官屯藤見町」は記載されていなかった。「旧南満砲兵工廠」は八千人の日本人を中心に二万人以上が、機関銃や大砲を主とする旧日本軍の兵器製造に携わっていたといわれる。いろいろと推測の結果であるが、おそらく「文官屯」は基幹軍需工場の街であり、軍事機密のため地図への記載や、住所表示すらも無く、郵便物等は軍用郵便扱いで事務的に処理されていたのではないかと思われる。
  なお、現在の「文官屯」も地図に無い。「旧南満砲兵工廠」の、当時としては「超近代的」で大規模な施設跡は、戦後中国に摂取されその後最大限に有効活用され、「産業図鑑」によると、現在では西安にある人工衛星等の製造もおこなっている重航空機製造工場と並び、航空機やその部品製造を行っている、中国における二大航空機製造工場となっているようだ。その工場には数万人の技術者・製造工員等が働いており、工場の周辺を彼らの住宅である近代的なマンション群が取り巻いている。実はマンション群も含め、その一帯は現在も立ち入り禁止区域であり、今回の旅行もカメラを隠し、単なる観光客風に周辺の散策といった雰囲気にならざるを得なかった。

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