答えは現場にあり!技術屋日記

還暦過ぎの土木技術者のオジさんが、悪戦苦闘七転八倒で生きる日々の泣き笑いをつづるブログ。

励めよいざ

2024年03月15日 | ちょっと考えたこと

 勉強をしなかった口である。
 勉学に勤しまなければならないとされる時期にそれを怠けていたという意味で、勉強をしなかった口である。
 とはいえ、まったくしなかったかと言えばそうでもないが、したかしなかったかと問われれば、間違いなくしなかった部類に入るというのがぼくの自己評価だ。
 ただし、本は読んだ。読んだがしかし、それは勉強ではない。たしかに読書は勉強にはなるが、ここで言う勉強はそれではない。

 ただ、ひとつ付け加えておかなければならないのは、齢が30を3年過ぎて、シロートでこの業界に入ってきた身であれば、この仕事で一人前になるための勉強はした。人一倍、と胸を張りたいところだが、比べる人がいないので、そこのところはよくわからないけれど、自分のそれまでの人生で、大っぴらに勉強をしたと言えるのは、それ以来今に至るまでだけである。

 そんなもんだからぼくは、若い頃に勉強をしておけばよかっただのという、よくある発言には与しない。いくらなんでも棺桶に片足を突っ込んだようなジジイは別として、学ぶということにおいて、遅きに失するということはないのである。いや、あきらかに先が見えたと思しきそのジジイでさえ、一念発起で勉強をすれば、ことによったらひょっとしてひょっとするのかもしれないと本気でぼくは信じている。となればなおさら、「若い頃に・・」などという言葉は、ぼくのなかではけっして口にしてはならない種類のものである。
 なんとなればそれは、その頃の自分も今の自分も一緒くたにして蔑んでしまうことにしかならないからだ。ひとは、自分を蔑んだが最後、未来への希望を放棄してしまう。そしてそれは、自分自身のみにとどまることなく、親、また子、祖父母や孫さえ否定することに他ならない。

少年老い易く 学成り難し
一寸の光陰 軽んず可からず
未だ覚めず池塘 春草の夢
階前の梧葉 已に秋声
(『偶成』朱熹)


 たしかに、少年は老い易く学は成り難い。だからこそ、一寸の光陰だと軽く考えてはならない。月日が過ぎゆくのは、春の日に池の堤の若草の上でまどろんで見た夢がまだ覚めないうちに階段の前の青い葉っぱに秋風の音が聞かれるほどに速い。
 これは、古今東西において変わらない道理である。

 だからといって、自らの身の上を過ぎた日を悔やんでも何にもならないし、だから若いうちに勉強をしておけよ、と若者に諭しても何の説得力もない。
 そんな暇があったならば、今このときからでも勉強をするべきだ。「学ぶ」という行為に、遅きに失することはない。いや、効果の大小を比較すれば、老と若では差が出てきて当然なのかもしれないが、だからといって、老いてなお学ぶことが、まったく意味のないことであるはずもない。

 偶成とは、偶然にできること、ふとした思いつきでできること、また、そのできたものを言う。だが、そのたまさかが産み出される下地の有る無しは人それぞれで異なっている。それを得るためには一生勉強。それは何も、若者だけに与えられた権利ではなく、いわんや義務でもなく、年齢の大小によって変化するものでもないとぼくは思う。いやむしろ、齢と経験を積み重ねた者にこそ、それをする責務があるのではないかとさえ思えてくる今日このごろ。「励めよ」と自分に言ってみる。もちろん、「暑苦しいオヤジやな~(-_-) 」と煙たがられるのは承知の上で。



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