精神世界の旅

精神世界のいくつかの領域を探求します。

掲示板より:生体エネルギーの活性化と霊的覚醒07

2007年03月31日 | 掲示板より
◆S氏 2000/08/16
覚醒状態に至る修行法としては、生体エネルギーの感覚を媒介として使う方法と、使わない方法があるという、MHさんのお話、納得出来る気がします。

クンダリニーヨーガ・気功は前者でしょうし、仏教の「観」の瞑想などは後者でしょうね。

前者のクンダリニーによる覚醒状態を体験した人の場合、頭頂のチャクラにエネルギーが集中出来ている内は、自然に覚醒状態が生じ続けるが、弱点はエネルギーをロスすることで集中の部位が下位のチャクラに下がってしまうと、覚醒から外れてしまう・・・という話を体験者から聞いたことがあります。

後者に属するヴィパッサナー瞑想などは、覚醒状態の性質である「知覚作用に対する自覚」に焦点を置き、エネルギー操作というより心の操作によって覚醒状態を作り、そこに留まろうとする手法なのでしょう。
この手法は自分にとって弱い煩悩的情報の入力があると、自覚を失って、対象に没入してしまいやすいという性質があるように思います。

宗教学者の永沢哲さんによる記事の中に、「チベット密教では先に、クンダリニーヨーガで覚醒状態を経験してから、次にゾクチェンなどの覚醒に留まる奥義の修行を行う」という旨の記述を見つけました。
つまり、両方やる・・・ということでしょうか?!

掲示板より:生体エネルギーの活性化と霊的覚醒06

2007年03月31日 | 掲示板より
◆MH氏  2000/08/15

生体エネルギーですが、次元が上昇するにつれて、性質が変化していくのではないかと思います。中国では、精→気→神、と純化していく、と言いますし・・

最初は、いわゆる気の感覚から入っていくのですが、ある程度以上になると、気と言うより高次光明波動というべきものになり、それに集中し、一体となる、という修行を行うようになるらしいです。そうすると、自己の本体である光明波動の次元が自覚の領域に入ってくる、ということが覚醒のプロセスとしてあるようでね。

修行法としては、生体エネルギーの感覚を媒介として使う方法と、使わない方法があると思います。使わない方法というのは、比較的肉体に近い次元のエネルギーを使わず、直接に光明波動帯域に参入しようというのだと思います。ただ、その領域で覚醒すると、それより低次のエネルギー帯域は、意のままに使えるようになると思います。

ですから、私としては、生体エネルギーといっても、そこに次元性の相違があることに着目したいと考えています。

站トウですが、私はどうも丹田が弱いんですね。站トウは、なかなかこれを鍛えるのにいいんですが、意志薄弱なので、きついことはなかなかできません(笑)
これに比べると坐る方が楽で、「安楽の法門」とはよく言ったものだ、という感じです。

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サイト臨死体験・気功・瞑想は、同名の掲示板を備え、精神世界に関して広く活発に議論したり、情報交換を行っていた。(現在は休止中)ここでのやりとりのなかで、再録する価値のあるものを選んで、ここに随時保存している。(発言者のHNは頭文字に変えた。)

掲示板より:生体エネルギーの活性化と霊的覚醒05

2007年03月30日 | 掲示板より
◆ishiinbr 2000/08/15
Sさん、MHさん、ありがとうございます。

わたしは霊的覚醒と生体エネルギーの活性化の関係について体験的には何も言えません。しかし、ここにかなり重要な問題が隠されていて、またほとんど未解明のままであることは確かなのでしょうね。

覚醒事例集にも入れたゴーピ・クリシュナや島田明徳氏の場合などを見ると、確かに気のエネルギーの活性化(クンダリニーの上昇)が、覚醒に直接つながっている場合もあるようだと感じられます。

生体エネルギーの活性化が、直接的に誘導するような形で覚醒が体験されるようなことがあるのかどうか。 生体エネルギーの活性化をとくに伴わない覚醒もあるのかどうか。(それもあるのではという感じをもっていますが。)

両者の関係がどのようなものなのか、多くの事例にあたり、体験的にも確認しながら、追求していければいいなと思います。しかし、体験的なものは気長にやるほかない。私にとっても大変興味あるテーマです。

自発動功から入る站トウ功は、私にはとてもあっているようです。
レイキの体験はまだないのですが、ぜひ学んで見たいと思っています。

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上の覚醒事例集は、以下のサイトの中にある。

サイト臨死体験・気功・瞑想は、同名の掲示板を備え、精神世界に関して広く活発に議論したり、情報交換を行っていた。(現在は休止中)

ここでのやりとりのなかで、再録する価値のあるものを選んで、ここに随時保存している。ただし、当時それぞれの発言者が用いていたハンドルネームはそのまま用いず、頭文字を用いる。

掲示板より:生体エネルギーの活性化と霊的覚醒04

2007年03月30日 | 掲示板より
◆MH氏 2000/08/15 21:47
こんにちは。面白そうな話題をしているので、出てきました。

さて、私も気功とヨーガ、瞑想を習いましたが、瞑想の深化とエネルギー感覚とは深い繋がりがあるようです。
最近の関心というのは、この気=生体エネルギーとは単なる身体的なものではなく、意識としての性質もある、ということです。

よく、祈りとか、「光明波動」というものが言われますが、そのような高次意識世界を自覚し、それに焦点を合わせようとすると、エネルギーも入ってくる、という経験がしばしばあります。 レイキにしても、上級になると、マントラやシンボルによって、光明波動を意識し、それに接続するということをします(詳しくは書けませんが)。

レイキはなかなか面白いものですので一度体験されるといいと思います。

ishiinbrさんの自発動功とSさんの「ゆらし」は共通したところがありますね。気のブロックを解放するには効果がありそうです。私もゆらし系のものを取り入れようと思います。

私は、ヨーガの体操から、呼吸法、それに小周天をしてから各チャクラへの集中、などのコースをやるのですが、最近はとても停滞しています。この掲示板を見ていると刺激になります。

掲示板より:生体エネルギーの活性化と霊的覚醒03

2007年03月30日 | 掲示板より
◆ishiinbr 2000/08/14 10:48
Sさん、ありがとうございます。
Sさんが補助的な意味で行っている生体エネルギー活性化のイメージが具体的につかめました。

また、覚醒と生体エネルギーの関係についての捉え方もよくわかりました。覚醒は、本来、生体エネルギー云々とは独立したものだが、初心者・未熟者の場合は、気や心身の状態に左右されることも多く、その活性化を補助的に使うこともありうるということですね。

ところで今の私自身の状態を正直に語らせてもらいますと、これまで座禅や瞑想は、どうしても長続きしませんでした。ヨーガは、ある時期かなりやりましたが、今はやっていません。

そんな状態でまがりなりにも細々と続けてきたのが気功の自発動功でした。自分自身の深層から出て来る動きにまかせるやり方です。
最近、自発動功をやると静止した站トウ功になることが多くなりました。気功の中でも一番瞑想に近い気功と言えるでしょうか。
(「たんとうこう」の「とう」の字が見つかりません)

これは自分の中から自然に出てきたものですから、長続きすると信じています。これを手掛かりにして瞑想の世界に一歩でも足を踏み入れていくしかないと思っています。その方向で今は気持ちが定まっているという感じです。

◆S氏  2000/08/15 00:49
気の停滞があっても霊的覚醒の保持は可能・・・ともとれる書き込みをしましたが、ヨーガで想定する、背骨に沿う最重要な脈管については必ずしもそう言い切れないのかも知れないとも思います。

覚醒状態を作る手法はいろいろあると思いますが、そこに至れば最低限共通するエネルギーの状態というものはあるのかも知れませんし・・・。
エネルギー操作以外の手法で覚醒状態を作っても、エネルギー状態としてはある一定の条件を満たしているという可能性です。

ぼく自身、未だ模索中で、曖昧な点が多いので、瞑想に励んで体験によってそれを解明していきたい・・・と思っています。

掲示板より:生体エネルギーの活性化と霊的覚醒02

2007年03月30日 | 掲示板より
◆ishiinbr 2000/08/12 23:51
>ある超感覚的な「体験」に没入して、「感覚している」ということを見失ってしまうと、その瞬間に霊的覚醒状態から外れていると思います。「体験」は覚醒ではなく、「体験」を捨て続けること(自覚していること)が覚醒で・・・ということです。

これは、道を求める者として忘れてはならない大切ポイントして肝に銘じておこうと思います。

私自身のことで言えば、瞑想でありかつ生体エネルギーの活性化の手法である気功、これを続けていくことが今の自分に出来そうな唯一の修行法だと思っています。これを本格的に続けていくほかないなと。それもある特定の型というよる自発動気功しかない。

そう思って取り組みはじめたら、自分の内側から出てきたのは、もっともオーソドックスといってもよい、痰タントウ功でした。しばらくはタントウ功に付き合っていくことになると思います。

>ぼく自身としては、生体エネルギーの活性化を行うと、瞬間瞬間の 「体験」を捨てやすい、つまり覚醒状態に留まりやすいような気が するので、最近その系統の手法も取り入れることにしました。

具体的にはどんな手法ですか。よろしかったら教えてください。

◆S氏 2000/08/14 07:03
ぼくが最近少し始めたのは、肛門の開閉や止息を伴うヨーガの呼吸法と全身をゆらすことによるリラックスです。後者は高岡英夫氏の「ゆる」や和尚ラジニーシの「クンダリニー瞑想」に通じるものがあるような気がします。脱力して全身をゆらしているだけで、気道(脈管)の詰まりがどんどん取れて、「気」の流れがスムーズになってきます。 しばらくやると、意識が頭上から抜けて、深い意識に入っていきます。これらを、出来るだけ自覚を保つようにしてやっています。

でも本来、覚醒とはいかなる知覚作用が生起しても、それを受け流せる状態であり、その知覚の内容は問わない・・・と思うので、たとえ気の停滞や心身の不調があっても、理論的には覚醒が損なわれるものではないような気がします。
それは、肉体に深刻な病が生じても衆生済度を続けた、古来からの多くの聖者方の存在が証明しているようにも思います。
しかし、覚醒に留まることが未熟な者は、どうしても、エネルギー・心身の調子に覚醒が左右されてしまい勝ちである・・・ということも、また事実ではないかと思います。

掲示板より:生体エネルギーの活性化と霊的覚醒01

2007年03月29日 | 掲示板より
◆S氏 2000/08/11

生体エネルギーの活性化と霊的覚醒について、話題になっていますね。
少し私見を述べてみたいと思います。

霊的覚醒とは、瞬間瞬間に生滅する、あらゆる知覚情報に気付き、
捨てることが出来る(受け流せる)、何物にもとらわれない状態と
いえると思います。

生体エネルギーの活性化を行うといろいろな超感覚的な「体験」が
生じますね。
ぼく自身も、背骨に沿った熱の塊の上昇や、チャクラが存在すると
いわれる部位に生じた快感・振動・痛み、「気」の上昇に伴って意識が
頭頂から抜ける、エクスタシーを感じる、光を見る・・・などの様々な
不思議な体験があります。

問題はこれらはあくまでも超感覚的な「体験」であって、霊的な覚醒
状態にあっては、それを知覚した瞬間瞬間に、捨て続けるべきもので
ある・・・ということです。
というより、ある超感覚的な「体験」に没入して、「感覚している」
ということを見失ってしまうと、その瞬間に霊的覚醒状態から外れて
いると思います。
「体験」は覚醒ではなく、「体験」を捨て続けること(自覚している
こと)が覚醒で・・・ということです。

生体エネルギーの活性化という手法は、確かに霊的覚醒に至る一手法
であるとは思いますが、注意しなければいけないのは、その途上で
現れてくる様々な超感覚的「体験」にとらわれないということで
しょう。

そのような危険性があるために、禅などでは瞑想中に現れる「体験」
をすべて「魔境」と一蹴するようですね。「見性体験」さえも、
捨てるべきものなのでしょう。

ぼく自身としては、生体エネルギーの活性化を行うと、瞬間瞬間の
「体験」を捨てやすい、つまり覚醒状態に留まりやすいような気が
するので、最近その系統の手法も取り入れることにしました。

掲示板より:始めるにあたって

2007年03月29日 | 掲示板より
サイト臨死体験・気功・瞑想は、同名の掲示板を備え、精神世界に関して広く活発に議論したり、情報交換を行っていた。現在は休止となっている。いまのところ再開の予定はない。

ここでのやりとりのなかで、再録する価値のあるものを選んで、ここに保存しておこうと思う。

ただし、当時それぞれの発言者が用いていたハンドルネームはそのまま用いないで、S氏とか、N氏とか、頭文字を用いることにする。

至高体験の事例:M婦人9

2007年03月29日 | 覚醒・至高体験の事例
第三段階。空々たる世界の中を自己という”空たる主体”が空々として動くということで、いわば大悟徹底ともいうべき段階。この段階では、空々たる世界が身について、毎日、寝ても起きても空々として生活していける。しかそ、それはまだ「自分の努力」によってそうなっている。自力的な空の主体。M婦人の体験は、この段階の例として引かれている。

第四段階。いよいよ「空の世界」に入る。これまでも、空々たる世界、空々たる主体と言ってきたが、自分の意識的な努力、自力がともなっていた。この自力を手放し、おのずから生成する自己の生命そのものに帰り、空々として生成する世界に同調する。仏教も捨て禅も捨て、それまでの自分の悟りの経験もすべて捨てさる。これまで自分がよりどころとしてきたものをきれいに心からぬぐいさり、純なる生命に帰ることによってはじめて空の世界にやわらかくつつまれる。

第五段階。「見ぬく人」になる段階。つまり空の世界の中で個々の存在のリアリティを見ぬく「直観力」を身につける段階。

第六段階。これは第五段階の見方が自由にできるようになった段階。

以上である。

至高体験の事例:M婦人8

2007年03月28日 | 覚醒・至高体験の事例
M婦人の体験が紹介されている『禅の現代化』という本の中で松崎氏は、どのように空を発見し、空を体得するかのプロセスを六段階に分けている。M婦人の体験は、その三段階目にあたるという。

ということでその六段階を松崎氏の記述にそって簡単にまとめておこう。松崎氏は、各自が毎日の生活の中で努力し、この世界に「空の世界を見、空の世界を生きるセンスをみずからの内に打開する”実験”」が必要なのだという。この実験は、自分の意識ないしセンスを徹底的に純化し、その純化された意識でまわりの世界を見ることである。そうすると、そこに清浄でかがやくような空の世界を見出して大安心し、自分自身も空なのだということを自覚するようになる。

第一段階。この段階では、まわりの世界に対してpassive(受身的)な態度をとり、自分の心を純化し、深め、むなしくしようとこころみる。

第二段階。第一段階の自分の心を空しくするというこことみを徹底させ自分の心の底を抜き、自分の主体の空であることを体験し、さらに客観世界も、むこう側が抜けて、実体というこのがない空なのだということを発見する段階。

(以下続く)