◆S氏 2000/08/16
覚醒状態に至る修行法としては、生体エネルギーの感覚を媒介として使う方法と、使わない方法があるという、MHさんのお話、納得出来る気がします。
クンダリニーヨーガ・気功は前者でしょうし、仏教の「観」の瞑想などは後者でしょうね。
前者のクンダリニーによる覚醒状態を体験した人の場合、頭頂のチャクラにエネルギーが集中出来ている内は、自然に覚醒状態が生じ続けるが、弱点はエネルギーをロスすることで集中の部位が下位のチャクラに下がってしまうと、覚醒から外れてしまう・・・という話を体験者から聞いたことがあります。
後者に属するヴィパッサナー瞑想などは、覚醒状態の性質である「知覚作用に対する自覚」に焦点を置き、エネルギー操作というより心の操作によって覚醒状態を作り、そこに留まろうとする手法なのでしょう。
この手法は自分にとって弱い煩悩的情報の入力があると、自覚を失って、対象に没入してしまいやすいという性質があるように思います。
宗教学者の永沢哲さんによる記事の中に、「チベット密教では先に、クンダリニーヨーガで覚醒状態を経験してから、次にゾクチェンなどの覚醒に留まる奥義の修行を行う」という旨の記述を見つけました。
つまり、両方やる・・・ということでしょうか?!
覚醒状態に至る修行法としては、生体エネルギーの感覚を媒介として使う方法と、使わない方法があるという、MHさんのお話、納得出来る気がします。
クンダリニーヨーガ・気功は前者でしょうし、仏教の「観」の瞑想などは後者でしょうね。
前者のクンダリニーによる覚醒状態を体験した人の場合、頭頂のチャクラにエネルギーが集中出来ている内は、自然に覚醒状態が生じ続けるが、弱点はエネルギーをロスすることで集中の部位が下位のチャクラに下がってしまうと、覚醒から外れてしまう・・・という話を体験者から聞いたことがあります。
後者に属するヴィパッサナー瞑想などは、覚醒状態の性質である「知覚作用に対する自覚」に焦点を置き、エネルギー操作というより心の操作によって覚醒状態を作り、そこに留まろうとする手法なのでしょう。
この手法は自分にとって弱い煩悩的情報の入力があると、自覚を失って、対象に没入してしまいやすいという性質があるように思います。
宗教学者の永沢哲さんによる記事の中に、「チベット密教では先に、クンダリニーヨーガで覚醒状態を経験してから、次にゾクチェンなどの覚醒に留まる奥義の修行を行う」という旨の記述を見つけました。
つまり、両方やる・・・ということでしょうか?!