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 弁護士 美 和 勇 夫

なぜ甲斐源氏 武田家は、信玄没後 九年で滅んだのか? 「人は城」の 武田信玄と、 「新府城」を築城した 勝頼  

2021-01-11 12:36:17 | Weblog

 

 

    山梨県の県庁所在地は「甲府市」である。

(甲府)裁判所出張のおり、「武田信玄の城は本当にないのかどうか」

 信玄の住んだ「躑躅ケ崎(つつじけざき)」の館(やかた)を確かめてきた。

   

 信長の「安土城」、秀吉の「大阪城」、家康の「江戸城」など戦国大名にとって命より大事なものが城であった。

しかし武田信玄だけは城をつくらなかった。

豪壮な城は、大将も兵もその城を頼ることになってしまう。

 

 “ 人は城人は石垣人は堀 

 信玄はそう言って城を造らず兵に信頼をよせ、無敵の赤ぞなえ騎馬軍団な

どの強兵を養い、「風林火山」の旗のもと、疾風の如く、火の如く敵を攻めた。

 

 信玄は1571年(元亀二年)信長が比叡山を焼き討ちにしたことを怒り、

「魔王」と非難して比叡山の「延暦寺」を甲斐(かい)(甲府)の国で再興す

 る構想を立てた。

 

 時の将軍、足利義昭が「信長の討伐」を呼びかけ、それにこたえて、二万五千の軍勢を整え甲府を出発した。

 

途中「三方ヶ原(みかたがはら)」(浜松市の北部)の戦いで、はむかってきた三河の軍勢「徳川家康」をけちらし、野田城を落とした。

 

そのまま破竹の勢いで尾張の「織田信長」を破り、京の都に「風林火山」の旗を立てるべく上洛(じょうらく)をもくろんだ。

 

(この時点でもし信玄が病魔に倒れなかったら、その後の歴史はどう変わっ

たのか・・・我々の御先祖様は信玄との戦(いくさ)で殺されてしまい、今の

あなたはこの世に存在していなかったかもしれない) 

    

 …… と・・・・ ここまでは、偉大な武田信玄として

                今年の「年賀状につづった。         

  

◇   ◇   ◇   ◇   ◇  

 

 しかし信玄亡き後の家督をついだ後継者である 若武者「武田勝頼」(二七

才)が、信玄の「しばらくは天下の情勢を見て動くな!」という遺言に反

し、父信玄を超えるべく背伸びしすぎたことが武田家自滅の道となった。

 

      勝頼は、信玄以上に積極的外征に打って出たのである。

 

天正二年、信長領の東美濃・「明智城」を一気に陥落させた。

余勢をかって、徳川領遠江(とおとうみ)に侵攻、「高天神(たかてんじん)」を包囲した。

 

周囲を絶壁と深い谷に囲まれ、信玄も落とすことがかなわなかった難攻不落の城を攻略した。

 

怒濤の勢いで徳川の長篠城に立ち向かうべく「設楽が原」で、織田、徳川軍との世紀の一戦にのぞんだ。

 

 勝頼(一万五千)は信玄「風林火山」の御旗を変え、おのれを誇示する【大(だい)】文字の旗をかかげた。

 

 

 

===「長篠(ながしの)・設楽(しだらがはら)原」は、南北に細長い地形である===

 

南側に陣取って、「馬(ば)防柵(ぼうさく)」をつくり鉄砲「三千丁という信

長軍(三万八千)の待ちうける足軽・鉄砲部隊と対峙した。

 

大将勝頼は、家臣の忠告を受け入れず、血気にはやり

信長なにするものぞ」と、騎馬隊先陣を山県昌景に切らせ、自慢の無敵

『騎馬軍団』で次々と「三段打ち」鉄砲部隊の待ち構える「馬(ば)防柵(ぼう

さく)」へ「正面突破」の波状突撃を繰りかえした。

 

武田騎馬隊のいずれもが柵を押しつぶすことができず「足軽部隊」が放つ銃

弾の餌食となった。

 

 すかさず騎馬隊突撃を阻んだ織田軍が中央から、左翼から徳川軍が突撃、七

時間半に及ぶ戦闘で武田軍は壊滅状態にされた。

 

 おもうに、勝頼としてはここで「持久戦」をとり、後方の鳶ヶ(とびが)巣山

(すやま)の山岳地帯に退いて、上から織田軍を迎えうてば、形勢は武田軍有

利となったはず。(しかしその戦法は己が父信玄に勝るというプライドが許

さなかった)

 

 設楽原一帯の山岳地形を読み取った信長「別働隊」は、勝頼軍の背後から迫

り、ひそかにこの鳶ヶ巣山にも陣取ってしまった。

これでは兵の数に勝る信長・家康軍に勝てるわけがない。

 

設楽原で一旦は大敗したもののその後勝頼は息を吹き返して立ち直り、居城

として甲府盆地の西方に広大な「新府(しんぷ)城(じょう)」を築いた。

 

しかし織田・徳川軍の大反攻は巧みであった。

 

勝頼は「人は城、石垣、堀」であるはずの家臣の裏切り重なる兵の離脱

あい、新府城に火を放ち落ち延びようとしたが、追い詰められ「天目山(てん

もくさん)の戦い」で自害した。

 

ここに名門武田家は信玄の死からわずか九年後あえなく滅亡することとなった。

 

信玄がつくりあげた偉大な「武田家」というブランド(栄光)は、若き後継

者、勝頼には負担が大きすぎた。

 

 

後世の識者は、「信玄が後継者選びをあやまった」というが、当時の信玄と

しては現代のように「有能な家臣」(戦場を知り信玄と共に勝ち抜き、勝頼

の設楽が原の突撃命令で散った重鎮・山県昌景、馬場信春)ら、から後継者

を抜擢することは出来なかった。

 

跡継ぎは 勝頼しかいなかったのである。

信玄は、後継者勝頼の育成に失敗したということであろうか。

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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