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あたえるなら しあわせ  与えることの,より大きな幸福 ― あなたは経験していますか ~ 聖書

2021年11月13日 | 日記

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あたえるなら しあわせ

 

 

 

与えることの,より大きな幸福 ― あなたは経験していますか

宴会場の照明が薄暗くなり,音楽のボリュームが小さくなって,ダンスをしていた人たちの動きが止まりました。スポットライトが,華やかな包み紙で包装された箱の山に光を当てます。
大きな箱や小さな箱,四角いのや円筒形のもの,ピンクやブルー,それに銀色や金色のもの,どの箱も意匠を凝らした種々のリボンで飾られています。
花婿がはにかみながら黙って手を貸す一方,上気した花嫁は震える手で一つ一つの箱の包装を丁寧に解いてゆきます。

台所用品としてはトースターやミキサー。ダイニングルームで使う物としては,瀬戸物や銀製の食器,テーブルクロスとそろいのナプキン。また沢山のタオルや布巾,生涯中に使い切れないほどのシーツと枕カバー。家の中の全部の部屋に置いてもまだ余るほどの時計,そしてどんな美食家をも満足させるほど多くの料理法を載せた各種の料理の本があります。

贈り物の包みが開けられるたびに,「わー」とか「すごい」とかいう歓声が上がり,新婚のカップルは心からの感謝の言葉を述べます。二人は,与えることの喜びを知っている人たちから受けることの幸せを味わいました。

結婚式,記念日,クリスマス,誕生日,その他非常に多くの祝賀会はどれも,贈り物をすることが礼式の一部として期待され,かつ認められている社会的習慣です。しかし,そのような機会に贈り物をすることは,多くの国で当然のこととして期待されているため,贈る側にとっては与える喜びを減じる一種の苦しみとなる場合が少なくありません。しかし,自分から思い立ってする,つまり,期待されていない時にするプレゼントがあります。
そういうプレゼントは,物の大小にかかわりなく,贈られる人にとってうれしいものです。そして,贈る人は最高の幸福感を味わいます。

当然のことながら,多く持っている人は多く与えることができます。例えば,アメリカの19世紀の実業家であったアンドリュー・カーネギーは,自国で最初の億万長者になろうと思えばなれたことでしょう。ところが億万長者になろうとはせず,18年間に自分の財産の9割を贈与しました。
カーネギーは,自分個人の資本が底を突きそうになっている状況に秘書から注意を促された時,「それは喜ばしいことだ。なくなるままにしてくれたまえ」と,うれしそうに答えました。
時代を同じくして世界屈指の富豪であったジョン・D・ロックフェラーは,生涯中に7億5,000万㌦を贈与しました。伝記によると,歌手のエルビス・プレスリーは,「キャデラックを何十台も人に与え」,そうすることを心から楽しんでいたということです。

 

今に始まった習慣ではない

贈り物をする習慣は,ほとんど人間の歴史と同じくらい古いものです。それはごく初期の時代から人々の生活の中で一つの重要な役割を演じてきました。
アブラハムの高齢の僕は,神(エホバ,ヤハウェ)がリベカをイサクの妻として選ばれた証拠を見て,リベカに贈り物として装身具を与えました。また,「えり抜きの品々をその兄と母に」贈りました。「私は今,井戸のそばに立っており,間もなく町の娘たちが水をくみにやって来ます。私は,やって来た娘に,『水がめを下ろして,水を飲ませてくれませんか』と言おうと思います。それに対し,『どうぞお飲みください。ラクダにも水を飲ませましょう』と答える人,その人こそ,あなたに仕えるイサクのためにお選びになった女性でありますように。そのようにして,あなたが私の主人に揺るぎない愛をお示しになったことを,私に確信させてください」。従者がまだ言い終えないうちに,リベカがやって来た。アブラハムの兄弟ナホルの妻ミルカの子ベトエルの娘である。リベカは肩に水がめを載せていた。とても美しい若い女性で,男性と関係を持ったことはなかった。リベカは井戸に下りていき,水がめに水をくんで上ってきた。従者はすぐに走り寄って,彼女に言った。「かめの水を一口飲ませてくれませんか」。リベカは,「どうぞお飲みください」と言い,すぐにかめを下ろして手で持ち,水をあげた。従者が飲み終わると,リベカは言った。「ラクダにもあげましょう。ラクダが飲むのをやめるまで,水をくんできます」。 リベカはすぐにかめの水を水槽に注ぎ,水をくむために井戸に走った。それを何度も繰り返し,全てのラクダのために水をくみ続けた。その間ずっと,従者はとても驚きながら彼女を静かに見つめ,神がこの旅の目的を達成させてくださったかどうかを考えていた。ラクダが飲み終えると,従者は彼女のために,重さ6グラム(半シェケル)の金の鼻輪と,重さ110グラム(金十シェケル)の2つの金の腕輪を取り出した」
(創世記 24:13~22)

『ラバンとベトエルは答えた。「これは神(エホバ,ヤハウェ)が導いていることですので,私たちは,よいかどうかを言うことなどできません。リベカはここにいます。連れていって,神(エホバ,ヤハウェ)が言われた通り,あなたの主人のご子息の妻にしてください」。 この言葉を聞いて,アブラハムの従者はすぐに神(エホバ,ヤハウェ)の前にひれ伏した。 そして,銀や金の装飾品と衣装を取り出してリベカに与え,貴重な品々をリベカの兄と母に与えた』。
(創世記 24:50~53)

ヨブは,苦しかった逆境が去った後,実の兄弟姉妹や以前の知り合いの人たちから贈り物を受けました。それらの人たちは各々,「金子一枚を,各々金の輪一つを」贈りました。
「ヨブが友人たちのために祈った後,神はヨブの苦難を取り去り,再び豊かな生活を送らせた。神(エホバ,ヤハウェ)は,ヨブが以前に持っていた物を,2倍にして与えた。ヨブの兄弟姉妹やかつての友人が皆やって来て,ヨブの家で一緒に食事をした。皆は,神(エホバ,ヤハウェ)がヨブの身に生じるままにしたさまざまな災難のことで,同情して慰めた。一人一人がヨブに,お金と金の輪1つを贈った」。
(ヨブ 42:10,11)

名前の示されていないシェバの女王は,エルサレムまで旅をしてソロモン王を訪問した時,神がお与えになったソロモンの知恵に感嘆し,この最高の賢人の言葉を聞いて益を受けられるソロモンの僕たちは幸いな者たちであると述べました。
大変感激したシェバの女王は,贈り物として金120タラント(約75億円)のほかに宝石や多額に上るバルサム油をソロモンに贈りました。シェバの女王は自分の小さな王国の財宝の蓄えをかなり減らしたかもしれませんが,与える喜びを味わったことも確かです。
ソロモンも与えることの喜びを味わうことになりました。というのは,ソロモンはシェバの女王が寄贈した財宝の価額を上回ると思われるお返しの贈り物をしたからです。
「彼女は百二十タラントの金と,非常に多量のバルサム油と宝石とを王に贈った。シェバの女王がソロモン王に贈ったこのバルサム油のようなものはなかった」。
(歴代第二 9:9)

「ソロモン王は,シェバの女王に,彼女が王のもとに携えて来た品物以外のもので,彼女が求めた物は何でもその望みのままに与えた。彼女は,家来たちを連れ て,自分の国へ戻って行った」。
(歴代第二 9:12)

初期クリスチャンは困窮している兄弟たちのために贈り物や寄付をしました。使徒パウロは,マケドニアとアカイアのクリスチャンたちが,貧しかったにもかかわらず,自分たちの実際の能力を超えてまで,ユダヤの困窮している兄弟たちに物を与えたことについて書き,「彼らは喜んでそうしました」と言いました。
「マケドニアとアカイアの兄弟たちが,エルサレムにいる聖なる人たちのうちの貧しい人に寄付するため,自分たちの物を喜んで差し出しているからです。その兄弟たちは確かに喜んで寄付していますが,実のところ聖なる人たちに恩義がありました。異国の人々は,聖なる人たちが神から受けたものを分けてもらったのですから,自分の持っている物を差し出して聖なる人たちに奉仕する義務があるのです」。
(ローマ 15:26,27)


「語る」贈り物

今日でもやはり,贈り物をすることが,気にかけていることを相手に知らせるための,愛の絆や友情を確立したり強化したりする,人間味のある基本的な方法であることは明らかです。

夫婦の一方が他方に,「愛している」と言う代わりに,キャンデーの入った小さな箱とか花束を贈る場合もあれば,子供たちが親に贈り物をする場合もあります。そして,愛情深い親であれば自分の子供に常に与えることをしているのではないでしょうか。
贈り物には,打ちひしがれた心を慰め,憂いに沈んだ魂を元気づけ,「早くよくなってください」と言い,受けた親切やもてなしに対する感謝を述べ,あるいはただ「とても楽しい一時でした」と言う,そのような目的で贈られるものがあります。

また,困窮している人たちに物を贈る場合があります。自分が決して会うことはないかもしれず,感謝の言葉を受けることもないかもしれない被災者に対する贈り物です。病気の人への一かごの果物,外へ出歩けない人への鉢植えの草花,親しい友への一個の装身具,こうしたわずかな物にも多くの意味が含まれます。それは心から喜んでするプレゼントです。
そういう贈り物は多くの場合,一番大事にされます。

 

プレゼントをする機会の中でも,クリスマスの世界的な華やかさほど目立つ時はほかにまずありません。
クリスマスは,これまた遠い過去に根ざす,贈り物をする一種のお祭りで,その祭典には多くの人が恐れを抱いていますが,大いに待ち望んでいる人もいます。
それは財政の破綻を来たすか豊穣の角を得るかという分かれ目になることもあります。贈り物が友達同士で交換される場合でも,その礼式によって互いにいっそう親しくなることもあれば,疎遠になることもあります。

 

 

「受けるより与えるほうが幸福である」
(使徒20:35)


「受けるよりは与えるほうが幸いである」
(使徒20:35)


            

 

 


神は至る所に存在しますか~聖書

2021年11月13日 | 日記

神は至る所に存在しますか


聖書の答え
神はすべてのものを見ることができ,望むならどこででも行動することができます。
「主(神)の目はどこにでもあって,悪人と善人とを見張っている」。
(箴言 15:3)

「そして,神の目を逃れられる創造物は一つもなく,全てのものは神から見て裸で,さらけ出されており,私たちはこの方に責任を問われることになります」。
(ヘブライ 4:13)


しかし,聖書は,神があらゆる場所やあらゆる物の中にいると教えているわけではありません。むしろ聖書は,神が人格を持ち,住まいも持っておられることを示しています。

神の形: 神は霊者です。
「神は目に見えない方であり,神を崇拝する人は聖なる力と真理に導かれて崇拝しなければなりません」。
(ヨハネ 4:24)

人間の目には見えません。
「これまで神を見た人はいない。しかし,天の父のそばにいる,神のような独り子が,神について説明した」。
(ヨハネ 1:18)


聖書中に出てくる神に関する幻は一貫して,神を特定の場所にいる方として描いています。決してどこにでも存在する方として描写してはいません。
「ウジヤ王が死んだ年のことである。わたしは,高く天にある御座(みざ)に主(神)が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。
上の方にはセラフィム(セラフ)がいて,それぞれ六つの翼を持ち,二つをもって顔を覆い,二つをもって足を覆い,二つをもって飛び交っていた」。
(イザヤ 6:1,2)

「それから,すぐに聖なる力が私に働いた。見ると,天に王座があり,その王座に座っている方がいた。座っている方は,碧玉,また赤めのうのようで,王座の周りにはエメラルドのような虹があった」。
(黙示録・啓示 4:2,3)

『4つの生き物にはそれぞれ6つの翼があり,翼の表にも裏にも目がたくさんあった。そして,それらの生き物は昼も夜も絶えずこう言う。「聖なる方,聖なる方,聖なる方,全能の神(エホバ,ヤハウェ)かつておられ,今おられ,これから来られる方」』。
(黙示録・啓示 4:8)

 

神の住んでいる場所: 神は霊の領域に住んでおられ,そこは物質の領域とは違います。霊の領域に,神の「住んでおられる場所,すなわち天」があります。
「恵みを求める私の願いと,あなたの民イスラエルがこの場所に向かって祈る願いをお聞きください。あなたが天の住まいから聞いてくださいますように。どうか,聞いてお許しくださいますように」
(列王第一 8:30)

聖書は,天使たちが「入って来て神の前に立った」 時のことについて述べています。この表現はいわば,神が特定の場所に住んでいることを示しています。
「ある日,主(神)の前に神の使いたちが集まり、サタンも来た」。
(ヨブ 1:6)

 

神が至る所におられないとしたら,わたし個人を本当に気遣うことができるのですか
はい。神は一人一人を深く気遣っておられます。霊の領域に住んでおられるとはいえ,神はご自分を喜ばせたいと心から願っている地上の人々に目を留め,その人たちのために行動されます。
「あなたが,住まいである天からお聞きになり,許し,行動を起こし,それぞれの歩みに応じた報いをお与えになりますように。あなたは一人一人の心をご存じだからです。あなただけが全ての人の心を知っておられます」。
(列王第一 8:39)

「主(神)の目はあまねく全地を行きめぐり,自分に向かって心を全うする者のために力をあらわされる。今度の事では,あなたは愚かな事をした。ゆえにこの後,あなたに戦争が臨むであろう」。
(歴代第二 16:9)

神(エホバ,ヤハウェ)がどのように誠実な崇拝者たちに関心を向けてくださるかを考えてみましょう。

祈る時: 神はあなたが祈り出した瞬間から,あなたの祈りを聞くことがおできになります。
『戦車隊長たちはヨシャファト(エホシャファト)を見つけ,「イスラエルの王だ」と言うや,彼を攻めようと方向を変えた。しかし,ヨシャファト(エホシャファト)が叫ぶと,主(神)は彼を助けられた。神は彼らをエホシャファトから引き離された」。
(歴代第二 18:31)

憂うつな時: 「神(エホバ,ヤハウェ)は心の打ち砕かれた者たちの近くにおられ,霊の打ちひしがれた者たちを救ってくださる」。
「 主(神)は助けを求める人の叫びを聞き,苦難から常に彼らを助け出される」。
(詩編 34:18)

導きが必要な時: 神は,神の言葉 聖書によって「あなたに洞察力を持たせ……教え諭」してくださいます。
「私はあなたに洞察力を与え,進むべき道を教える。あなたに目を留めて助言を与える」
(詩編 32:8)

 


神がおられる場所についての誤解
誤解: 神は創造物のあらゆる場所に存在する。

事実: 神は,地球にも物質宇宙のどこにも住んではおられません。
「神は果たして地上にお住みになるのでしょうか。天も,天の天も,あなたには狭く,十分ではありません。私が建てたこの家など,なおさらです!」。
(列王第一 8:27)

星や他の創造物が「神の栄光を告げ知らせ」ているのは確かです。
「天は神の栄光を知らせ,大空は神の偉業を伝えている」。
(詩編 19:1)

しかし,神は創造物の中に住まわれるわけではありません。画家が描いた絵の中に,画家本人が住むわけではないのと同じです。それでも絵を見るなら,それを制作した画家について知ることができます。同様に,目に見える世界を通して,わたしたちは創造者の持つ力,知恵,愛といった「見えない特質」について知ることができます。
「神の見えない性質は,世界の創造以来明らかです。造られた物を見れば,神が永遠に力を持っていて,確かに神であるということが分かります。ですから,彼らは言い訳ができません」。
(ローマ 1:20)


誤解: すべてを知り全能であるために,神はあらゆる場所に存在しているに違いない。

事実: 神の聖霊とは,神の活動している力のことです。直接そこにいなくても,どんな場所や時間であっても,神は聖霊を通して,何でも気づいて行動することができます。
「あなたの聖なる力から離れてどこへ逃げることができるでしょうか。あなたから隠れてどこへ走り去ることができるでしょうか」。
(詩編 139:7)


誤解: 詩編 139編8節の「たとえわたしが天に上ろうとも,あなたはそこにおられます。たとえわたしがシェオル(墓)に寝いすを設けようとも,ご覧ください,あなたはそこにおられるのです」という表現は,神があらゆる場所に存在することを教えている。

事実: この聖句は神の居場所について述べているのではありません。これは詩的な表現で,わたしたちのために行動できないほど遠すぎる場所など神にはない,ということを教えています。