神は愛 白髪は美の冠 白髪は輝く冠 

聖書の音信、日々のニュース関連を書いています。

老若男女すべての皆様へ あなたが生まれてから今日まで 平和・平安でしたか 聖書

2021年11月08日 | 日記

老若男女すべての皆様へ

あなたが生まれてから今日まで
平和・平安でしたか
日々の暮らし・生活はいかがでしたか
犯罪(事件、事故)はなくなりましたか
戦争、紛争もありませんか
病気はなくなりましたか

戦争を経験してきた人の中には平和だったという人がいるかも知れません・・・
でも病気、貧困、犯罪等はあったでしょう❣


いま世界情勢を見たって、平和から程遠い!!
全世界で、コロナ  コロナ
ワクチン  ワクチン
中国のウイグルの件、
中近東の紛争等・・・
苦しみ
悲しみはなくなりましたか?

誰が大統領、首相になっても変わらないというより
ますます邪悪な世の中になってきてるのではないでしょうか
いつになれば平和にできるのでしょうか
 いつまで待てば平和になるのでしょうか?

 

極悪犯罪の低年齢化!
未成年以下の犯罪の多いこと
どうして?少年法?
聖書は、子供も大人も犯罪に関しては区別はしていません。
「罪を犯した人は死ぬ」
聖書(エゼキエル 18:4)

 

結局、人間は平和な世界は作れないのです。
聖書の下記の聖句が当てはまると思います。
「神(エホバ、ヤハウェ)よ、地の人の道はその人に属していないことをわたしはよく知っています。自分の歩みを導くことさえ、歩んでいるその人に属しているのではありません」。
(エレミヤ 10:23)

人間は、平和を唱えながら有史以来(6000余年)平和を100年も維持できない

この先、平和の世界を望みながら、ますます平和を実現できないでしょう。
 
 
人間による平和が長続きしないことには、どんな理由がありますか。
土台がもろくなり、梁が腐食し、屋根がたわんでいる家を想像してみてください。
そこに引っ越して、自分の住まいにしたいと思われますか。そうは思われないでしょう。
ペンキを塗り替えても、その家に構造上の問題があることは変わりません。遅かれ早かれ、それは倒壊するでしょう。
 
この世界に由来するどんな平和も、この家に似ています。それは、もろい土台、すなわち人間の約束や方策の上に築かれており、そもそも人間に「救いはない」のです。
「高貴な者にも、地の人の子にも信頼を置いてはならない。彼らに救いはない」。
(詩編 146:3)
 
歴史は、国家、民族、種族間の連綿たる対立抗争の過程となってきました。
確かに、しばし平和な時期もありました。しかし、それはどんな平和でしたか。
二つの国が戦火を交えて一方が敗れ、あるいは、双方が戦いの継続にそれ以上の利益はないとして平和が宣言されるのであれば、
それはいったいどんな平和でしょうか。戦争の引き金となった憎しみ、疑念,ねたみは、くすぶるままです。
単なるうわべだけの平和、つまり敵意を“塗り隠した”状態は、「恒久的な平和」ではありません。

 

 

多くの方々の平和って
自分、家族、身内(一族)、友だち
が、何にも脅かされず、なんの不安、心配等もなく
一生過ごせればいい
ある程度の貯金や収入があればいい
こんなのは平和とは言えない!


真の平和
全世界が
犯罪(事件、事故)も無い
戦争、紛争もなく
病気もなく
野生動物にも脅かされることもなく

衣食住の心配もなく、健康に過ごせることではないのでしょうか

 

 

 

            

 

 


何も問題がない世界でいつまでも生きられるようになる ~ 聖書

2021年11月08日 | 日記


何も問題がない世界でいつまでも生きられるようになる

 

下にあるように,聖書にはいろいろな約束が書かれています。そうなるといいなと思うものがありますか。

それぞれの約束についての聖書の言葉を読んで,次のことを考えてみましょう。

素晴らしい希望だと思いますか。あなたの家族や友達にとってはどうですか。

世界はこう変わります。

 

悪いことはなくなる

痛みに苦しむことも,年を取って死ぬこともなくなる。
「死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は,すべての顔から涙をぬぐい,御自分の民の恥を,地上からぬぐい去ってくださる。これは主(神)が語られたことである」。
(イザヤ 25:8)


病気や障害はなくなる。
『「私は病気だ」と言う住民はいなくなる。その土地に住む人々は過ちを許される』。
(イザヤ 33:24)

「その時,目が見えない人は見えるようになり,耳が聞こえない人は聞こえるようになる。その時,足が不自由な人は鹿のように跳びはね,口が利けない人は歓声を上げる。荒野に水が湧き出て,砂漠平原に川が流れる」。
(イザヤ 35:5,6)

 

不正や不公平はなくなる。
「その時,荒野には公正が満ち,果樹園には正しさが行き渡る。真の正しさは平和をもたらし,絶えることのない平穏と安心を生み出す」。
(イザヤ 32:16,17)


戦争はなくなる。
「神は地上の全ての場所で戦いを終わらせる。弓を折り,やりを砕き,兵車を火で焼く」。
(詩編 46:9)

 

不安やトラウマに悩まされることはなくなる。
「私は新しい天と新しい地を創造している。以前の事柄は思い出されることも,心に浮かぶこともない」。
(イザヤ 65:17)

 

 

良いことが起きる

亡くなった家族や友達が生き返り,また会うことができる。
「このことに驚いてはなりません。記念の墓の中にいる人が皆,彼の声を聞いて出てくる時が来るのです。良いことをした人は命の復活へ,悪いことを行った人は裁きの復活へと出てきます」。
(ヨハネ 5:28,29)

若返って健康になる。
「彼の肉体を若い頃よりも元気にし,彼を活力にあふれた若い日々に戻そう」。
(ヨブ 33:25)


食べ物が十分にあり,快適な家に住んで,楽しく働ける。
「地上には穀物が豊かに実り,山々の頂でも豊作になる。王の収穫物はレバノンの木々のように素晴らしく,町の住民は地上の草木のように咲き誇る」。
(詩編 72:16)

「人々は家を建てて住み,ブドウ園を造って実を食べる。建てた家に他人が住むことはなく,植えた物を他人が食べることもない。私の民の寿命は木の寿命のようになり,私が選んだ者たちは働く喜びを存分に味わう」。
(イザヤ 65:21,22)


平和で何も問題がない世の中になる。
「しかし柔和な者たちは地を所有し,豊かな平和にまさに無上の喜びを見いだすであろう」。
(詩編 37:11)

いつまでも幸せに暮らせる。
「義なる者たちは地を所有し,そこに永久に住むであろう」。
(詩編 37:29)

 

 

 

            


「七つの大罪」というものがありますか ~ 聖書

2021年11月08日 | 日記
「七つの大罪」というものがありますか
 
聖書の答え
聖書には「七つの大罪」が具体的に挙げられているわけではありません。しかし聖書は,重大な罪を習わしにするなら救いが得られないことをはっきりと教えています。
例えば聖書は,性の不道徳,偶像礼拝,心霊術,激発的な怒り,酔酒などの重大な罪を「肉の業」と呼んでおり,「そのような事柄を習わしにする者が神の王国を受け継ぐことはありません」と述べています。
「さて,罪深い欲望から出る行いは明らかです。それは,性的不道徳,汚れ,恥知らずな行い,偶像崇拝,心霊術,敵意,争い,嫉妬,激怒,不和,分裂,分派,ねたみ,酩酊,ばか騒ぎなどです。こうした事柄について私はすでに警告しましたが,あらためて警告します。こうした事柄を習慣にする人が神の王国を授けられることはありません」。
(ガラテア 5:19~21)(脚注①参照)
 
聖書は「主の……いとわれるものが七つある」と述べているのではありませんか
はい,述べています。
「新共同訳」(日本聖書協会)の箴言 6章16節にはこうあります。
「主の憎まれるものが六つある。心からいとわれるものが七つある」。しかし,続く箴言 6章17~19節に挙げられているのが重大な罪のすべてという意味ではありません。
むしろその聖句は,考え,言葉,行為によるものを含め,あらゆる罪深い行為の基本的な型について述べています。
(脚注②参照)
 
「傲慢な目,うそをつく舌,無実の人の血を流す手,邪悪なことをたくらむ心,急いで悪に走る足,うそばかり言う不正直な証人,兄弟の間に口論を引き起こす者である」。
(箴言 6:17~19)
 
 
「大罪」つまり「死に至る罪」とは何ですか
幾つかの翻訳は,ヨハネ第一 5章16節で「死に至る罪」という表現を使っています。一例として,「新共同訳」は「死に至る罪があります」と訳しています。「死に至る罪」は「死を来たす罪」と訳すこともできます。
 
「死を来たす罪」と「死を来たさない罪」はどこが違いますか。
 
「死に至らない罪を兄弟が犯しているのを目にした人は,兄弟のために神に願い求めてください。そうすれば,神はその兄弟に命を与えるでしょう。これは,死に至る罪を犯していない人の場合です。死に至る罪があり,そうした罪に関しては,願い求めるようにとは言いません」。
(ヨハネ第一 5:16)
 
聖書はすべての罪が死につながることを明らかにしています。しかし,わたしたちはイエス・キリストの贖い(あがない)の犠牲により,罪と死からの救いを得ることができます。
 
「このような訳で,1人の人によって人類に罪が入り,罪によって死が入り,こうして,全ての人が罪人になったために,死が全ての人に広がったように―」。
(ローマ 5:12)
 
「罪の代償は死ですが,神が与える贈り物は,私たちの主であるキリスト・イエスによる永遠の命なのです」。
(ローマ 6:23)
 
ですから,「死を来たす罪」とはキリストの贖いによって覆うことができない罪のことです。この種の罪を犯す人は,罪の道に凝り固まっていて態度や行動を改めることのない人です。
聖書はそのような罪を「許され」ない罪とも述べています。
 
「それであなた方に言います。あらゆる種類の罪や冒瀆は許されますが,聖なる力に対する冒瀆は許されません」。
(マタイ 12:31)
 
「人の子に逆らう言葉を言う人は皆許されますが,聖なる力を冒瀆する人は許されません」。
(ルカ 12:10)
 
 
【脚注①】
ガラテア 5章19~21節は15の罪を挙げていますが,それが重大な罪のすべてであるという意味ではありません。その続く部分で,「およびこれに類する事柄」と述べているからです。
読者は識別力を働かせ,ここに挙げられていなくても,それに「類する事柄」を見極めなければなりません。
 
 
【脚注②】
箴言 6章16節には,2つの数を挙げて後のほうの数を強調するヘブライ語の表現法が用いられています。聖書には同じ手法の表現が幾つも見られます。
 
「神はあなたを6つの災難から救う。7つ目の災難さえも危害を及ぼさない」。
(ヨブ 5:19)
 
『ヒルには,「ちょうだい! ちょうだい!」と叫ぶ2人の娘がいる。満足しないものが3つ,「十分だ!」と言わないものが4つある』。
(箴言 30:15)
 
「私の理解を超えるものが3つ,私が分からないものが4つある」。
(箴言 30:18)
 
「大地を震えさせることが3つ,人々が耐えられないことが4つある」。
(箴言 30:21)
 
 
 
 
 
「七つの大罪」の由来
「七つの大罪」は8つの枢要な罪を起源としています。それは西暦4世紀に神秘論者のエヴァグリオス・ポンティコスが発展させました。彼の著作は,修道士で苦行者であったヨハネス・カッシアヌスの著作に影響を与えました。  6世紀に教皇グレゴリウス1世はカッシアヌスの挙げた8つの罪を,「七つの大罪」,もしくはローマ・カトリックの神学が定義する7つの枢要な罪に変更しました。
その7つとは,高慢,貪欲,肉欲,嫉妬,暴食,憤怒,怠惰です。グレゴリウスはこれらを他の多くの罪のもととなる根源的な罪としました。