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聖書の音信、日々のニュース関連を書いています。

大事なことのために時間を取る ~聖書

2021年11月02日 | 日記

大事なことのために時間を取る

「残された時は少なくなっている」。

「兄弟たち,私は次のことを言います。残された時は少なくなっています。今後,妻がいる人は妻がいない人のようになってください」。
(コリント第一 7:29)

「プールで跳び回って水をはね飛ばしていても,泳いでいることにはならない」と,マイケル・ルボーフは「ワーキング・スマート」(英語)という本の中で書いています。

つまり,何かをすることと,価値ある事柄を実際に成し遂げることには,違いがあります。先週を振り返ってみてください。何のために時間を取りましたか。何に忙しくしていたでしょうか。本当に大切に思っている事柄のためにもっと時間を取る必要がありますか。

今の慌ただしい時代についてイエスが予告した点を考えましょう。イエスによれば,今の体制が終わりに近づき,神の義の新しい世が間近になると,弟子たちは忙しくなります。何をするのでしょうか。神の「王国のこの良いたより」を宣べ伝えるのです。イエスはさらに,大多数の人が忙しくて耳を傾けない,とも言いました。日常の事柄で頭がいっぱいなのです。
そしてイエスは,忙しくて王国の音信に注意を払わない人は滅びることになる,と述べました。
「そして,王国の良い知らせは,全ての国の人々が聞けるように世界中で伝えられます。それから終わりが来ます」
(マタイ 24:14)

「人の子の臨在の時はちょうどノアの時代のようになります。洪水前のその時代,ノアが箱船に入る日まで,人々は食べたり飲んだり,結婚したりしていました。そして,洪水が来て全ての人を流し去るまで注意しませんでした。人の子の臨在の時もそのようになります」。
(マタイ 24:37~9)

「同じく,ちょうどロトの時代のようなことが生じます。人々は食べたり,飲んだり,買ったり,売ったり,植えたり,建てたりしていました。しかし,ロトがソドムから出た日に天から火と硫黄が降って全ての人を滅ぼしました。 人の子が現れる日も同様です」。
(ルカ 17:28~30)


イエスの予告どおり,多くの人は「忙しい」と言って,聖書の良いたよりを退けます。でも是非,忙しい生活の中から時間を取って,神の王国について聖書が述べる事柄をお調べになるようお勧めいたします。


神が人類のために用意している祝福について学んでください。そして,聖書の音信を聞いてそれに留意することは時間を取るだけの価値がある,とお考えになりますように。

それは本当に大事なことなのです。

 

             

 

 


HONDA DREAM CB750FOUR 1969

2021年11月02日 | 日記

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HONDA DREAM CB750FOUR 1969

「ナナハン」のジャンルを築いたオートバイ
【注】ナナハン…機密保持のために開発チームの間で言い交わされていた用語で、後に雑誌記者が、これを一般に広めた。


*ナナヒャク(700)と50は百(ヒャク)のハンブン(半分)から
これ以降、650はロクハン、450はヨンハン、350はサンハン、250はフタハン、550だけは ゴゴー。

 

グランプリマシンの直系
1966年の世界GPで、史上初の5クラス完全制覇を成し遂げたHondaは、翌年、世界GPロードレースからの撤退を決定した。
次なる目標は、レース活動で得た技術を市販車の高性能化に活かすことだった。

https://www.honda.co.jp/50years-history/challenge/1969cb750four/
一部引用(詳細はURLをタップの上ご覧ください)
当時、Hondaは国内で生産する2輪車の半分以上を輸出していたものの、アメリカなどの先進国で求められていた大排気量のスポーツバイクはなかった。また、1966年からアメリカの2輪車販売が低迷し始めたこともあり、アメリカン・ホンダ・モーター(以降、アメリカン・ホンダ)からは新製品開発の要請が寄せられていた。

1965年に発表したドリームCB450は、DOHC2気筒の高性能車で、CB77(305cc)の上級クラスという、アメリカン・ホンダの要請に応えて開発したものであった。
当時の開発総責任者・原田義郎は言う。
「1960年のアメリカの大型2輪車マーケットは、年間6万台程度で、そのほとんどは英国製で占められていました。日本ではさらに小さく、月に数百台という市場に過ぎませんでした。
量産を念頭において、日本とアメリカの両方で売れる、450ccクラスの2輪車をつくろうということになったのです」。

CB450は比較的売れたが、決定的な評判にはならなかった。アメリカのライダーたちは最高速だけで評価をするわけではなく、シフトダウンしなくてもレスポンシブルなトルクフィーリングが得られることを求めていた。もっとゆったりとオートバイを楽しみたいというライダーが多かったのである。
原田はCB450の市場状況を確認するため、1967年夏ごろ、アメリカへ飛んだ。そして、CB450がノートンやトライアンフの650ccより、いかに性能が優れているかを、アメリカン・ホンダのメンバーに説いた。しかし、彼らは、「なぜおれたちが450ccに乗らなきゃいけないのだ。Bigger is better!!なのだ」と、言って譲らなかった。
当時日本では、国産バイクでは650ccが1番大きく、需要も数%しかなかったため、原田はアメリカのマーケットに着眼した製品を開発しようと決断した。しかし、アメリカン・ホンダからは、とにかく大きければ大きいほど良いという漠然とした要望しかなく、原田は排気量の設定を決めかねていた。
 そんな時、英国のトライアンフ社が3気筒・750ccの高性能車を開発しているという、確かな情報が入ってきた。これが契機となって、750ccのエンジンを持ち、出力は67馬力(ハーレーの1300ccが66馬力であったため、1馬力上回れば良いという考えから)とした大型バイクの構想は、1967年10月には、ほぼ固まった。
1968年2月に開発プロジェクトが約20人でスタートし、CB750FOURの設計に取り掛かった。
当時のHondaは、スーパーカブの爆発的人気で、2輪車の生産量は世界一となっていたが、このCB750FOURで、質と量を備えたオートバイメーカーになる計画を立てていたのである。
CB750FOURのライバルは、トライアンフ、BMW、ハーレーなどであり、これらに対抗できる性能と信頼性の確保が必要であった。
そこで、グランプリマシンの直系であることを直ちに感じさせる、4シリンダー、4本マフラーのエンジン構造を基調とし、アメリカ人好みのアップハンドルに仕立てることで、野性的、かつダイナミックなイメージを前面に押し出した。初めての大排気量車でもあり、量産化とメンテナンス性を十分考慮した技術が盛り込まれた。